第六章 腹部大動脈瘤の治療 六の4 どこの病院も肝臓がんの治療をしてくれない
どこの病院も肝臓がんの治療をしてくれない
担当医が肝臓がんの治療方針を示してくれないならば、自分で調べてみるしかないと思い、Kはすぐに行動に移した。かれは「市民のためのがん治療の会」に入会し、そこでセカンドオピニオンを求めた。会を通して他の医者に意見を聞くシステムがあった。そこで肝臓がんの治療として、腹部大動脈瘤が破裂するかもしれない外科手術よりも、リスクの少ない重粒子線治療をすすめられた。このセカンドオピニオンを持ってY大学病院の担当医と相談すると、それがいいだろう、と肩透かしを感じる程あっさりと認めてくれた。そこで重粒子線治療で肝臓がんをやっつけることになり、C県にあるH研究所(略してH研)のJセンターを紹介され、3月中旬に行くことになった。
重粒子線によるがんの治療は、百億円以上もかかる高額な医療機器をY大学の医学部付属病院に導入する話が、十数年前から計画されていた。新聞やテレビを通して、Y大学のわれわれ一般教職員の耳にもその情報が入ってきた。X線よりもがんの病巣をピンポイントで攻撃し、他の正常な組織や器官にほとんど影響がないメリットは、素人でもなんとなく理解できた。がんの種類によっては、ものすごく効く魔法の医療機器のように聞かされていた。だが、治療にかかる費用も高額で、保険が適用されないので、患者は300万円を負担しなければならないことも、われわれは知っていた。こんな最先端で高額な医療にかれがかかるなんて、一年以上前には予想だにしないことだった。
「Oさん、腹部大動脈瘤が大きいので、手術中に破裂したら手に負えないので、肝臓がんの外科手術はできないそうなんだ。医者の口ぶりからも自信がなさそうなのがわかるんだよね。重粒子線を使った治療の方法があるんだけど、300万円もかかるんだよね」
「何言ってるの。300万円くらい貯金しているんでしょう。おくさんに言って出してもらいなよ。命と金、どちらが大事なの。子供さんたちもきちんと就職したし、これからの人生、もうそれほどお金かかることはないんじゃないの。おくさんが出さないと言うのならしかたないけどね」
めでたくもおくさんは何も文句を言わずに、300万円をポンと出してくれることになった。こうしてY大学病院から出て、C市のH研で重粒子線治療を受けることになった。かれの頭の中では、肝臓がんの治療は重粒子治療のベルトコンベアに乗って、スムーズに動き始めるはずだった。
3月10日にC市のH研の外来でみてもらったが、そこで医者が言うには、がんの位置から考えて重粒子よりも陽子線の方が良いだろうというのだ。この施設には陽子線がないはずだ。どうも雲行きが怪しくなったと思うと、続けて、この病院は総合病院ではないので、万が一手術中に腹部大動脈瘤が破裂したら治療ができないので、総合病院で治療した方がいいと言い出し、体よく断られてしまった。Kを乗せた治療のベルトコンベアは、ピタッと止まってしまった。
C市には長女が住んでいて、入院時の面倒は彼女が見てくれる、と思っていたのに、その目論見ははずれた。
ここで立ち止まってはいけない。陽子線の医療機器がある総合病院を探した。北海道から鹿児島まで全国に11の施設があることがわかった。その中から、なんと鹿児島県の薩摩半島の南端に位置する指宿市にある「メディポリス国際陽子線治療センター」がかれの目にとまった。どうしてか。それは指宿温泉に惹かれたからである。陽子線治療にかかる時間は一日一時間程度なので、あとは砂風呂に入って療養しようと考えたのだ。頭の中は、ポッカポッカになっていった。がんは熱にも弱いと聞くので、一日に何度も温泉につかっていれば、がんも治るかもしれない。インターネットで調べると、指宿温泉には陽子線治療を受ける患者のために専用の宿泊パックがあり、それも安いのだ。南国鹿児島が待っていると思うと、心はウキウキしてきた。
これをおくさんに提案すると、「何かあった時、わたしが指宿まで行くのは大変じゃないの。もう少し近いところはないの」と一喝され、膨らみに膨らんだ南国での療養の夢は、一瞬にしてはじけてなくなってしまった。心の中では「Y空港から羽田空港、そして鹿児島空港と乗り継げばすぐじゃない」と思ったが、一言も口に出すことができなかった。Kにとっておくさんの言葉は絶対なのだ。
気持ちを切り替えて、東日本の中から探すと、T大学付属病院がみつかった。T大学はKが卒業したT大学の跡継ぎの大学である。何か因縁があるかもしれない、とも思わなかったが、治療経験も豊富で頼りになる病院であることが、ウェブサイトに掲載されているデータを見てわかったので、T大学病院に決めた。
Y大学病院の担当医からT大学病院の予約を3月22日に入れてもらった。Kは初診を受け、そのまま入院して陽子線治療をしてもらえれば、新学期の授業にはまだ間に合うだろう、という淡い期待を持っていた。ここで断っておくが、Kはがんになる前、教育に燃えるような情熱を持っているようには見受けられなかった。病気になってから、心を入れ替えたわけでもないようだ。それでも、授業をしなければという義務感はなぜか強かった。おそらくそれはかれが信じる日常なのである。
T大学で問診をした肝臓がんの陽子線治療を担当する医者は、やる気満々に見受けられた。おっ、これはTでできるな、と一瞬光明が差した。しかし、「腹部大動脈瘤があるので、明日、血管外科の方を受診してください」と言われた。
(不吉な予感。どうしてここで決断してくれないの。もうたらい回しはいいから、すぱっと決めちゃおうじゃないの。でも、慎重なんだよね。そちらの言い分は重々わかるし、それが正しいこともわかるんだけど)
そんなことで、急遽、帰りの新幹線の予約をキャンセルし、もう一泊することになった。翌日、血管外科の医者から「腹部大動脈瘤が破裂する危険性が高いので、そちらを早く手術した方がいい」という指摘があった。結局、陽子線治療をするかどうかの最終判断は、後日陽子絵線治療の担当医からかれのところに電話が入るということになった。
3日後にT大学病院の医者から電話があり、1年後の生存率から考えると、肝臓がんより腹部大動脈瘤の治療を優先し、その後で肝臓がんの治療をするのが筋であると言われた。H研に続いて、T大学病院からも肝臓がんの治療が拒否された。
関東の二つの病院を行脚した結果、肝臓がんの治療はひとまず棚上げすることで、踏ん切りがついた。