第六章 腹部大動脈瘤の治療 六の2 そろそろ肝臓がんの手術を
そろそろ肝臓がんの手術を
次は肝臓がんだ。
平成28年を迎え、手術の後遺症である胸の激しい痛みは、相変わらずだった。しかし、血液中の感染症を示す数値はなかなか下がらなかった。かれの勝手な目算では、春季休業中(世間に誤解があるようだが、夏休みも冬休みも学生が休みなだけで、教員や職員は休みではない)に、肝臓がんを切除して、4月の新学期にはすっきりとしたかたちで授業をする予定だった。別に医者と相談したわけではないが、入院期間もおよそ一か月と予想していた。そこでかれの予定がうまく遂行されるためには、2月末か3月初めには入院しなければならなかったのだ。独りよがりだけど。
平成28年2月3日、節分の日である。「鬼は外、福は内」という軽やかな声が巷に響く。誰もこの掛け声で鬼が退散し、福がやってくるとは思っていないし、実際、豆まきにそれほどの真剣さを感じることはできない。それでも、この軽やかさにはどこか健康的な響きがある。Kも杖を付いて歩きつつも、心は軽やかで、思いつめたところはどこにも感じられなかった。それでも「鬼は外、福は内」なのである。この頃になると、首のコルセットはつけたり外したりするようになり、医者から許可が下りたわけでもないのに、そのうちしなくなってしまった。
節分が過ぎて、Y大学病院に数日入院した。これで4回目の入院である。今回は退院直前に新たに発見された肝臓がんの検査だった。退院後定期的に通院して検査を受け、原発性の肝臓がんであることが確定した。入院中は、レントゲン、造影MRI、肝機能検査、肝シンチ、PETCT、胃カメラ、そして肝生検を行って、詳しく調べた。一連の検査も終わり、そのまま肝臓がんを切除する手術に入るのだろうと思っていたが、すぐに退院となって、肩透かしをくった。
退院すると、いつものようにわたしの研究室にふらっとやってきた。
「肝臓がん、どうなったの」
「いや、どうもなってない」
「このままで大丈夫なの」
「感染症が治るまで手術ができないって医者が言うんだ」
「たしかに手術の刺激で、敗血症にでもなったら一巻の終わりだろうけど、このまま肝臓がんを放置できないんじゃないの。退院してすでに3か月が経ったよ。肝臓がん、大きくなってるんじゃないの」
「うん、4月から授業が始まるから、それまでに手術でスパッと肝臓がんをとってもらって、気持ちよく新学期を迎えたいと思っているんだ。今度また、医者に相談してみるよ」
「肺や背骨のように、スパッといきたいよね。背骨に比べたら、肝臓がんなんて、ずっと簡単じゃないの。肝臓は再生能力が高いし、Kさんなんて、人一倍再生力が強いと思うんだよね」
「人をゾンビみたいに言わないでよ。ともかく、今度またお医者さんに相談してみるよ」
改めて医者に肝臓がんの手術をして欲しいと頼んだが、感染症を理由に引き受けてくれなかった。たしかに感染症を示す数値は平常値に戻っていなかった。しかし感染症がいつ頃治るのか、という見通しは医者からは何も聞かされなかった。肝臓がんの手術をしたくない、という雰囲気が医者からひしひしと伝わってきたのは、Kの錯覚だったのだろうか。
(どうして、どうして、肝臓がんの手術をしてくれないの。せっかく肺がんの大手術をして生き延びたのに、肝臓がんで死んでしまうじゃない。4月から授業も始まっちゃうじゃないか)




