第六章 腹部大動脈瘤の治療 六の1 日常を取り戻そう
日常を取り戻そう
退院してもじっとしていないのがKである。首にコルセットをして歩行訓練のために、すぐに家の周りを歩き出した。補助者はいない。一人で足を引きずるように歩いた。しかし退院して数日後に、家の近所の側溝の段差につまずいて、転んでしまった。かれにとって転ぶのはタブーである。5月に手術で2本の胸椎を除去し人工椎体、ロッド、ボルトで背骨を補強したのに、6月末に病院内で転倒したことによって、その場所がずれてしまったのだ。そこで再手術をすることになり、ロッドがのばされ、入院が長期化した苦い経験を忘れることはできない。普通の人間だったら、少なくとも臆病なわたしだったら、退院しても外を歩き回るようなことはせず、家の中でじっとして、そのうちどこかリハビリをしてくれる施設を探し、通院したことだろう。だが、かれはそうしなかったのだ。転んでひらめいたのは、杖を手に入れることだった。
(えっ。これほど歩くのが不自由なのに、まだ杖を手に入れていなかったんだ。なんとのんびりしているんだ)
かれはおくさんの運転する車でY市内の介護用品店を回り、杖を探して歩いた。だが、グリップがしっくりこなかったので、さらにいろいろな店を見て歩き、結局登山用品店で売っていた登山用のストックを購入した。物に対するKのこだわりは、以前から尋常ならざるものがあることは、わたしも承知していた。より良い物を求めることはもちろんのこと、値段にこだわって、より安い物を探し続けることに多くの時間をさいていることも確かであった。
退院した11月中は時々おくさんの車で送ってもらい、大学に出てきた。12月に入ると、首にコルセットをし、一人で杖をついてバスや列車を乗り継いで、大学に毎日出勤するようになった。見ている方も痛々しい感じだったが、本人はどこか飄々としていた。大学の授業や委員会の仕事はすべて他の教員に代わってもらい、3月までは大学に出てきても特段仕事はなかった。
「どうしておくさんに送ってきてもらわないの」
「だって彼女にも仕事があるから迷惑かけられないじゃないの」
(おっ、Kさんからこんなおくさんおもいで、殊勝な言葉を聞けるなんて思ってもみなかった)
「もう少し家で養生したらいいんじゃない」
「水戸黄門も歌っているじゃない」
(おっ、唐突に水戸黄門か)
「水戸黄門は歌わないだろう」
「テレビの水戸黄門の主題歌だよ。「人生楽ありゃ苦もあるさ。涙の後には虹も出る。歩いてゆくんだしっかりと。自分の道をふみしめて」と。やっぱり、自分で歩かなけりゃだめだと思うんだ」
「2番の詞では、「泣くのがいやならさあ歩け」と言っているものね。これは歩くことを推奨する歌なんだね。さすが水戸黄門漫遊記だ。足腰がしっかりしてないと黄門さんも全国を回れないからね」
「そうそう。とにかく自分で歩いて、早く普段の生活を取り戻したいんだ。大学に出てくる、という日常を送ることが、今の自分にはなによりも大切だと思うんだよね」
Kは必死に日常を取り戻そうとしていた。かれの日常は大学に出てくることだった。会社勤めの人も日常は会社に出勤することだろう。だが、いくら病人であっても会社に出勤したならば、与えられた仕事をしなければならない。大学の教員はその点は恵まれている。基本的に個人営業だからだ。授業がなければ、今日しなければならない決まりきった仕事が必ずしもあるわけではない。誰も監視しているわけではない。研究室と呼ばれる自分一人の居室で、何をしていても怒る人はいない。そうした自由な時間の中で、大学教員は研究をし、論文を書き、授業の準備をし、会議の資料を作るのである。かれもそうしたことを25年以上も続けてきた。胸の痛みを抱えながらも、何をするかは別として、毎日研究室と自宅を往復することが、かれの日常であった。
日常、それはKにとって、たんたんと生きるリズムを刻むことであった。日常、それは生きている平安を感じさせるものであった。それゆえ、かれは必死に日常を取り戻そうと、杖をついて一人で歩くのだった。求道者のように。まかり間違っても、水戸黄門のようではない。助さんも格さんも、ましてや由美かおる演じるかげろうお銀も同行してくれてはいないからだ。
平成27年から28年にまたがる冬、Y市は例年になく暖かく、積雪はそれほどなかった。例年だと、路上に積もった雪はこおり、歩行者はひと冬の間に、幾度となく滑って転んでしまう。そうした意味では、天はかれに味方したようだった。