第三章 肺がんと胸椎の手術 三の3 大手術
大手術
明日が手術ということで、さすがのKも緊張していたはずだが、それでもいつもと同じように、消灯の9時になって灯りを消し、いつものように暗い中でネットサーフィンを楽しんでから、11時にスーと眠りについた。生まれてこのかた、病気になってからも寝つきはいいのである。どういう場所でも、どういう状況下でも、眠れなくて悶々と夜を過ごした経験はなかった。これがかれの強みであった。蓄積した一日の疲れは、たくさん飯を食べて、ぐっすり寝ることによって、翌朝にはとれた。病院での生活は、モルヒネの影響もあってか、昼間うとうとと寝てしまうことがしょっちゅうだったが、それでも夜寝られないことはなかった。
朝、6時に起きた。いつもと変わらない寝起きである。少し経つと、手術に立ち会うために、おくさんと長女がやってきた。かれに気を使ってか、朝の挨拶はいつもより元気な声に聞こえたが、二人とも表情は幾分緊張しているように見えた。あとでそのことを言うとかれの方が緊張していたと言い返された。自分が緊張していることは本人にはわからないものである。そのうち看護師が来て、手際よく手術前の準備をしてくれた。
8時半になり、手術室に自力で歩いて行った。手術台に寝かされると、点滴、心電図、酸素マスクなどのありとあらゆるチューブとコードを体に装着された。「そろそろ眠る薬を入れますから、すぐに眠くなりますよ」と麻酔担当の医者の言葉が聞こえたかと思うと、あとは何もわからず、深い眠りについた。手術中、何も夢を見ることはなかった。
手術は、一般病室を出てICUに入るまで、15時間を要する大手術となった。手術のあらましは次のとおりである。
最初に呼吸器外科の手術室で手術が行われた。体の左側を上にして寝かされ、左脇腹から左肩甲骨の下まで切開され、気管支の下にあるリンパ節にがんの転移がないか確認された。転移はなかった。手術前の説明で、開腹してすぐにリンパ節の転移を確認し、もしあったら、即刻手術をやめることが申し渡されていた。リンパ節に転移しているということは、すなわち全身への転移を物語っているので、手術をしても無駄だというのである。リンパ節に浸潤していなかったことによって、手術は続行されることになった。大きなハードルを越えたのである。麻酔でぐっすり眠って、この時のことはさっぱりわからなかっただろうが、かれにとっては最高の瞬間であり、すごくラッキーなことだったのだ。
Kが起きていたら、リンパ節に転移していないことをしばし大喜びしたであろうが、医者たちは感慨にふけることなしに、確認だけをして、次に進んだ。
次に、肺の切除・縫合ロボットによって、自動的に左肺の上部3分の1が切除された。こうしたことと並行して、食道や大動脈にも転移していないことが確認された。左肺の3分の1を除去することは、手術前に担当医から説明があり、がんを広げないという予防的な意味もあるとのことだった。縦隔腫瘍は、生検や放射線治療の影響で線維化が進み大動脈や食道に癒着していたが、丁寧に剥離され完全に除去された。このようにして第一ラウンドの呼吸器外科による手術は、順調に終息していった。しかしこれで呼吸器外科の仕事が終わったわけではなかった。
次の整形外科による手術の準備として、左側の第2、3番目の肋骨が胸椎の付け根から3㎝、周りの神経束と一緒に切除された。肋骨を切除しなければならないのは、この後で切除しなければならない患部の第2、3番目の胸椎につながっているからだ。呼吸器外科によるここまでの手術に要した時間は4時間30分であった。Kは麻酔にかかったまま、整形外科の手術室に移された。
整形外科の手術では、横向きからうつぶせの状態にさせられ、背骨に沿って縦に切開された。そして右側の第2、3番目の肋骨が、左側と同じように、付け根から3㎝切除された。こうして肋骨から離れた第2、3番目の胸椎の椎弓が糸やすりを使って切除された。次に、第2、3番目の胸椎の椎体を完全に除去する前に、前後の背骨2本ずつ(前側が第7頸椎と第1胸椎、後側が第4胸椎と第5胸椎)を椎弓根の部分でチタンという金属でできた棒で固定した。このチタンの棒で背骨の連続性と安定性が保たれることになるのである。固定された後で、第2、3番目の胸椎の椎体が摘出され、その部分に自分の肋骨の粉を混入したチタン製のメッシュ状のシリンダーケージ型の人工椎体で、背骨が再建された。
メッシュ状の人工椎体の中には、手術後自然に骨の細胞が増加する予定になっている。骨は石灰だけで細胞が存在しないように思われるかもしれないが、骨は定期的に壊され新しい細胞が骨を新生しているのである。それは成長途上の子供だけでなく、Kのような老年でもしかりである。時間が経てば人工椎体の中は骨で満たされるはずである。
ところで、ここで椎弓、椎弓根、椎体と胸椎のパーツの名前が出て、話が複雑になってきたが、どうしてこうした名称を出して説明しなければならないかと言えば、一言で言えば、胸椎全体をばっさりと除去することはできないからである。なぜならば、そこには脳から出ている中枢神経の脊髄が走っているからである。胸椎全体を除去するということは脊髄も除去したり切ったりすることになる。それでは下半身不随になってしまう。だから、上記のように脊髄を傷つけないように、それを取り囲む胸椎のパーツを丁寧に外していく作業になるのである。脊髄のみならず、脊髄から出ている神経を傷つけないように手術するのは、かなり難しい作業だということがわかるだろう。
背中を縫い合わせて、8時間27分にもわたる2番目の手術が終わった。二つの手術を合わせてトータル12時間57分の大手術であった。Kが手術室を出たのは夜の11時を過ぎていた。
手術室から出てくるのを待っていた妻と長女は、かれの顔がパンパンに張れ上がっているのを見て、目頭が熱くなった。手術台の上で、Kは必死にがんと闘っていたのだ。




