表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/101

第二章 放射線と抗がん剤治療 二の3 うまく喋れなくなる

うまく喋れなくなる

 我々素人は、がんが発見されたならば、がんも日に日に成長しているのだから、一日も早く治療をしてもらわなければならないと考える。いくら検査をしても治るわけではないので、検査はほどほどに切り上げてもらって、治療、それも腫瘍部をばっさりと切り取る手術を早くして欲しいと思う。だが、実際には検査の前置きが長く、ゆっくりと治療の道に入ることになる。手術まで誰しもが行き着けるわけではないことが、そのうちわかってくる。がんが全身に転移していたならば、いくら患者が望んでも、手術をしてくれないこともあるのだ。

Kの場合は、平成27年1月20日に最初にT病院でがんらしきものが見つかり、その20日後の2月9日にY大学病院でがんの宣告を受けたが、そのすぐ後に一度退院させられてしまった。発覚後一か月以上が経つと、わたしも気をもむようになり、かれに「早く治療をしてもらった方がいいんじゃないの」とそれとなく言うが、本人はそれほど気にしていないようだった。かれ自身は定期的に病院に行き、担当医と話をしていたので、治療の道を歩んでいる実感があったのかもしれない。だが、わたしの方は、早く治療をしてもらわなければ、手遅れになってしまいました、ではすまないだろうと思っていた。かれはかれで論文を書いたり、美味しいものを食べたり、ドライブをしたり、とそれまでと変わらない生活を楽しんでいた。

日常生活が2週間を超えた3月2日、再び入院する日がやってきた。治療方針が決まり、これから本格的な治療が始まることになった。

 入院した翌週に、縦隔腫瘍の生検を行った。喉から当該の腫瘍を採取し、それを病理検査に回すのだ。事前に医者から検査方法とその危険性について説明を受けた。1%の確率で喉の神経を傷つけることがあり、声が出なくなったり、誤嚥をするようになることがある、との説明だった。検査前の説明は、一般的にはルーティンワークとなっており、1%という低い確率はまったく心配する必要がないものだと、本人は軽く考え、ほとんど聞き流した。

ところが、ところがである。その1%にかれは該当してしまったのだ。うれしくもない「ビンゴ」である。生検に立ち会ったおくさんは、医者が組織を採っている最中に「あっ」と発する声を聞いた。生検が終わった後に、医者は神妙な顔つきで「神経を傷つけてしまいました」とかれに告げた。この時を境に、かれの大きくはっきりとした声は、いかにも病人のようなかすれた声に変った。

 見舞いに行くと、Kはひそひそ話のように小さなかすれた声で話してきた。いつか元の声に戻るのかと聞くと、医者は治る場合もあるし、このままの場合もあるので、わからないと言っている、と教えてくれた。もともと話好きのかれはかすれ声になっても、必死にわたしに話しかけてくる。真剣に聞いていると内容はわかる。話すことが喉にいいことなのか悪いことなのかわからない。リハビリも必要だろうが、使い過ぎると炎症になるかもしれない。

こうして予想もしなかった検査ミスによって、がんの症状とは関係ないところで、はた目から見ると、かれは一挙にか細い声を出す病人らしくなった。浦島太郎が玉手箱を開いて一瞬のうちに爺さんになったようなものだ。

 かれの病気のことは90歳を超えたかれの母には、まったく知らされていなかった。病気になってから、M県T市の実家には帰っていない。母と同居している姉には病状を定期的に伝えていた。だが、姉も弟の病気のことは母に話さなかった。母は90歳を超えるが、心身ともに健康である。頭もぼけてはいない。そんな母に息子ががんになり、母よりも先に亡くなるかもしれない、ということはさすがに言えなかった。元気とはいえ、年老いた母に余計な心配をかけることはできない、と本人や妻、姉のみんなで判断したのだ。病気になってからも、かれは母と電話で話をしていたが、一切病気のことは触れていなかった。

 ところが、こんな声になってしまった。この声の変化は、電話越しに母にすぐにさとられてしまう。それがかれにとって一番気がかりなことになった。母に電話しなくなった。母から自宅に電話がかかってくると、妻が「亭主は風邪をひいて声がおかしくなっているので、いまは電話に出られない」と答えている、と教えられた。母に嘘をつかなればならない。声が変わる前だったら、入院していても自宅にいるふりをして、病室のベッドから母に電話をかけることもできた。しかし、これからは電話をかけることができない。それまでもそれほど頻繁に母に電話をしていたわけではなかったのだが、それでも母から電話がかかってきた時に、かれが電話に出ないことが長く続くのは、あまりに不自然であるのは間違いなかった。

母との電話の件が心配の種となったが、声が出なくなったことそれ自体で落ち込むKではなかった。なってしまったことをくよくよしても始まらない、というのがかれの基本的な姿勢である。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ