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第二章 放射線と抗がん剤治療 二の1 がんの噂が広まる

がんの噂が広まる

 「体調はどうなの」

 「入院中に2㎏やせたので、退院中に体重を取り戻そうと思うんだよね。モルヒネの副作用で腸が動かなくなったり、吐き気がしたりで、食が進まなかったんだよね」

 「放射線や抗がん剤の治療、特に手術に耐えられる体力を作っておかないと」

 「そうなんだ。美味しい肉をたらふく食べたいよね。米沢牛がいいな」

 「普段そんな高級な肉を食べてるの。100グラム2,000円はするんじゃないの」

 「食べられるわけないじゃない。病気をしたからって、食べられないよ。ただ言っただけ。せっかく病気になったから、米沢牛が食べられたらいいなって」


 22日間の検査入院が終わり、平成27年2月14日に退院した。この日は最高気温1.0度、最低気温-3.3℃、一日雪が降る寒い一日だった。街は冬の真っ只中にあった。

検査入院でがんであることが判明し、退院直後に腹部大動脈瘤が発見された。腹部大動脈瘤の治療は後回しになり、次回の入院はがんの治療に入ることになった。次の入院がいつからか知らされていないが、次に入院すると、しばらくは退院できないかもしれない。がんになった人ならば誰でもが、自宅の部屋や大学の研究室をきれいにし、身辺整理を少しはするか、しようと思うと考えられるのだが、かれはそうした行動に移らないし、そうした考えをさらさら持ち合わせていないようだった。この頃は、自分のがんの治療のために、インターネットでいろいろと情報を集めることもしていなかった。そんな行動が死を身近なものに引き寄せてしまう、という一般的な人たちが持つ不安からではない。また一方で、かれには死を達観する、などという格好良さもなかった。ただ、入院前の日常があるだけだった。退院したからには、日常を取り戻すのだ。かれの日常とは、大学に来ることだった。退院して2日後の月曜日には、何気ない顔で大学に出てきた。

 Kの同意を得て、かれががんになったことは、かれが入院中にわたしの口から同じコースに所属する教員全員に話しをしておいた。そのことを口外しないようにとは、同僚たちには申し添えなかった。その噂は、すぐに周囲の教員や職員、学生たちに広がっていくことだろう。人の口に戸は立てられない。噂が広がるのは、なすがままに任せればいいのだ。だが、尾ひれのついた嘘の情報が拡散しては困る。しかし、望むと望まざるとに関わらず、伝言ゲームのように情報は間違って伝達される運命にある。それも受け手が面白がる方向に。これが人間の性癖である。わたしの中にもそうしたところがあるのは否定しない。しかし、かれの病気に関して間違いなく生じるだろう歪んだ情報を修正していくのは、わたしの役目だと思った。案の定、間違った情報が学生たちの間に広がっていた。


 「(声をひそめて)先生、K先生はがんなんですか」

 「(あっけらかんと)うん、そうだけど」

 「(少し声が大きくなる)でも、毎日大学に来ていますよね。この前、夜に暗い廊下でばったり会って、びっくりしたんですよ」

 「(あっさり、さっぱりと)別にびっくりすることはないじゃない」

 「だって、体中にがんが広がっていて、すでに手がつけられないそうじゃないですか(えっ、そんなに大きな声でしゃべらなくても)。そんなに長くはないと聞きましたけど」

 「(うそぉ)そんなことはないよ。がんは肺の周りだけだけど」

 「(信じられないように)えっ、そうなんですか。体中がんだって、同級生から聞いたのですが」

 「(簡単に噂を信じちゃいけないよ)そんなのでたらめだよ。だって元気に歩いていたんだろう」

 「(通常の声のトーンに戻って)そうなんですよ。以前と変わらないから、びっくりしたんですよ」


 学生たちの間で、かれは幽霊のように語られていた。噂話とはそうしたものである。どこで話がゆがめられていったのか、そんなことをつきとめる気にはならない。笑い飛ばして、噂を訂正していくだけである。学生には、こうした伝言話は常に歪んでいくので冷静に真実を見極めるように、と教訓を垂れることになる。もちろんこうした歪みは学生だけでなく、教員の間でも起こっているのだが。

噂話の真偽を病人である本人に「ねえ、ねえ、がんなんですか」と面と向かって確かめるわけにはいかない。そんな豪胆な、あるいは無神経な人間は、この世にいるようでほとんどいない。当人の周りで、当人に聞こえないように、ひそひそと話がなされていく。隠微なようでいて、それがデリカシーというものらしい。Kに関して言えば、本人にあけすけに「病気なんだって。どういう病状なの」と聞けば、むかしもいまも、喜んで微に入り細に入り、具体的に説明してくれるであろう。だが、何人にも本人に直接聞くことを躊躇させるのが、がんという病気なのである。


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