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補遺 がんと死の追想 11死んで花実が咲くものか

死んで花実が咲くものか

 Kの凄さは、今も生きていることにある。いくら病に立ち向かっても、死んでしまってはどうしようもない。「よく頑張ったね」と過去形で語られないように、生きている。「えっ、生きてたんだ」と驚かれても、生きている。「本当に病気だったの」とあきれられても、生きている。「まだ生きているの」と悪態をつかれても、生きている。

 かれはただ生きていればいいわけではない、とも思っている。ベッドで寝たきりになったり、ぼけて自分がわからなくなることは避けたいと願っている。だから、脳梗塞になるのが不安なのだ。生きて、これから大発見をしたいわけではなく、淡々と日常生活を送っていきたいと、平凡に願うのだ。実際、病気の前と同じように大学に出てきて、授業をし、会議に出席し、研究をしている。

 Kは決して健康体であるわけではない。手術の後遺症で激しい痛みが四六時中襲ってくる。そうしたハンデキャップがありながら、日常の中に生きようとしている。淡々としているようで、日常への激しい希求がある。そこまで求める日常とは何だろう。そんなに魅力的なものか。そんなに素晴らしいところか。そんなことはない。単調で退屈なところだ。

 それでもKは入院している間、一日も早く日常に回帰したいと願っていた。それはがんになったことや入院生活を非日常の中に位置付けたかったからに他ならない。がんであることを受け入れ、それから逃げずに戦ってきた、しかしがんは戦うべきものであり続けたのだ。がんと同居するなんて発想はなかったし、まして白旗を上げることもしなかった。がんとの闘いは非日常であり、自分が戻るところはがんのない日常だったのだ。

 生きようとする強い意志は、道理ではない。Kが治療法を探したのも、かれの生きようとする強い意志からであった。それは他人の目には、もがきであったりあがきのように映ったかもしれない。他人の目にどう映ろうと構うものではない。死んでしまうのは、ほかならぬ自分なのだから。

 家族、医者、友人、知人、たくさんの人たちが患者の周りで、サポートしてくれる。しかし、当の患者が生きようとしなければ、命は助からない。生と死は自分のものである。自分の意志でどうしようもできないことはわかっているけれど、それでも生と死は自分のものである。人の人生が素晴らしいものであるかどうかなんて、他人がどうこう言えるものではない。放っておいてもらいたい。そんなことにお構いなく、ひたすら生き続けようとする存在が人間であり、いきものなのだ。


「死んで花実が咲くものか」

                                              完


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