補遺 がんと死の追想 10充実した生は金で買えない
充実した生は金で買えない
Kはお金があったから、筑波大学病院で陽子線治療を受け、東京慈恵会医科大学病院で腹部大動脈瘤の手術ができた。たしかに、お金がなければ治療を受けることはできなかった。しかし、お金があったらからと言って、治療ができたわけではない。お金は必要条件だったが、十分条件ではなかった。
そもそもこうした治療を受けることが可能な病状でなければならない。治らないような状況ならば、いくらお金を出しても治療はしてくれない。他にいくらでも治療を待っている患者はいるのだ。Kは治療で治ると判断されたから受けることができた。
だが、医者が治療をすると言っても、本人が治療を受ける気がなければ、元も子もない。手術中に死んでしまったら、という不安が肥大することによって、治療を拒否する人もいるだろう。手術によっては、高いリスクが存在するからだ。
お金があり、医者が治療をすると言っても、東京や筑波まで行くことに逡巡する人もいるだろう。そこまでしなくていいと思う人、知らない土地であること、電車に乗って移動する体力に自信がないこと、付き添ってくれる人がいないこと、などがその要因である。それぞれの人には、それぞれの理由がある。
たとえ病気を克服できたとしても、再発するのではないかと不安に思い、ノイローゼやうつになる人たちも多いだろう。いつ破裂しても不思議ではない腹部大動脈瘤という時限爆弾を腹の中に抱えたKが、東京慈恵会医科大学病院のO先生が言うように、うつにならなかったのは、非常に稀なことのように思える。もしかれがうつになりそれから回復できなかったならば、いくら腹部大動脈瘤やがんが治っても、日常生活を送るのは難しかっただろう。
先端医療はお金で買えるかもしれないが、自分の心の持ちようまでは、お金で買うことはできない。がんとの闘病生活や治した後の生活が充実するのは、心が安定していなくてはならない。心のありようは、その人が歩んできた人生そのもののようだ。
わたしがKのように強い精神力を持って、ノイローゼにもならず、敢然とがんに立ち向かえるか、と言ったらまったく自信がない。だが、ノイローゼやうつになりたくはないが、そうなったらなったで、それが自分の生き方なのだ、と受け入れなければならないと思えるようになってきた。そうした自分を受け入れる覚悟ができて、少し肩の力が抜けた。




