熱帯夜
夏は嫌いだ。冬の寒さは厚着をするなり布団を増やすなりすればどうにかしのげるが、夏の熱帯夜はそうはいかない。じりじりと肌を焦がすような太陽がビルの谷間に沈んだ後もなお残る、ねっとりと絡みつくようなむわっとした空気がたまらない。
大学進学を期に上京し一人暮らしを始めた俺には、防犯のため窓も開けたままに出来ない都会の熱帯夜は我慢がならず寝る時は毎年冷房をかけっぱなしで過ごしていた。
だが今年はもう卒業だ。何とか就職先も決まり職場の近くのアパートを探して引っ越す予定だが、今後は家賃も光熱費も自分で払っていかなくてはならない。就職したてのまだまだ安月給の新社会人となる俺にとっては、このどうにも慣れることのない熱帯夜を今年からどうやってのりきるかが重要課題だったのだが……
突然降り出した雨をさけるためたまたま立ち寄ったビルの狭間にある小さな不動産屋で俺は最高の物件をみつけた。職場近くで駅からもわりと近いその物件は、なんと2DKで家賃が月五万円と格安だった。
俺もはじめは印刷ミスかなんかだと思ったくらいだ。
「あの、これは?」
「ああ、こちらはそのちょっといわくつきでして」
「えーと、いわくつきと言うと……」
「でるんですよ、これが」とその不動産屋は胸の前で手首をだらんとおったポーズをとる。
「はぁ、その……自殺とかまさか殺人?」
「いえいえ、そんなことは一切ないんですがね。まあ亡くなった方はいらしゃるらしいですが、病院での病死と言う話ですし。」
「じゃあ、なんで?」
「さぁ、とにかくどんなに霊感がない今までそんなもの感じたことがないと言って借りた方でも、青白い影を見たり、見えなくともその部屋に入ると空気が違うのがわかるとみなさんおっしゃってすぐ退去なさるので、今ではこの部屋だけ半値なんです。」
「空気が違う?」
「ええ、こちらの西の六畳の洋間。ここだけ他よりヒンヤリと感じるらしくて」
「借ります俺、霊感ありませんし」
「本当にいいんですか?」
「はい、もちろんです。」
こうして、俺は就職したての一人暮らしで二DK住まいというなんとも贅沢なくらしをすることになった。
引っ越してすぐ、俺は例の六畳間にベットを入れ寝室とした。冷房なしでヒンヤリするなんて熱帯夜対策にはおあつらえ向きじゃないか。確かにその部屋は、ほかの部屋よりヒンヤリとしていた。おまけに、全く霊感なんぞ無いはずの俺にも部屋の片隅に座っているようなぼんやりとした青白い影が見え最初はびっくりしたのだが、慣れてしまえばたいしたことない。ただそこにいる気がするだけでなにをしてくるわけでもなかたからだ。
夏本番を迎え夜が寝苦しくなってきた頃、俺は寝室の片隅の幽霊に話かけてみた。
「もう少し近くにこないか?」
まあちょっとした好奇心と涼しさへの欲求からだったのだが、翌日からそいつは俺のベットの方へと少しずつ近づいてきた。少しは俺もおどきはしたが、やや不気味ではあっても暑いよりははるかにましだ。近づくごとにヒンヤリ感が増し、俺は大嫌いな熱帯夜を冷房なしで快適に過ごせてご満悦だった。
そして8月も終わりに近いうだるようにクソ暑い熱帯夜、とうとうそいつは俺のベットの上にあらわれた。近づくごとにだんだんはっきりしてきたそれは、どうやら子供位の大きさのクマのぬいぐるみのようだった。
「なんだ、やけにかわいいじゃないか」
俺はそいつを抱くようにして眠りについた。
ヒンヤリとした抱き枕が隣にあると思えば、熱帯夜の共としてこれ以上のものはないだろう?
その夜、俺は夢を見た。見覚えのない七,八歳の女の子と母親らしき人物が見える。
「ねぇママ、クマ太はつれていけないの?」
「ごめんね、今度の病室には連れていけないんだって。クマ太にはお留守番しててもらおうね。」
「わかった」女の子が近づいて来て俺を抱きしめる。なんだかくすぐったいような寂しいようななんとも不思議な気分になる。その子は肩までの黒髪でまつ毛の長い色白の可愛い子だった。
「クマ太、あたし手術が必要なんだって。一緒に連れていけなくてごめんね。ここで待っていて、元気になって戻ってきたらまた一緒に寝ようね。帰ってきたらギュってしてあげる。それまでここで待っていてね約束よ」
そういって女の子は部屋からでていった。
そこで目が覚めた。朝になっていた。
その夜以来、この部屋にクマのぬいぐるみの幽霊がでることはなくなった。
俺は、低家賃と抵光熱費のおかげでこの夏までに貯まった金で冷房を買った。
あれいらい毎年この時期、むっとした空気のただよう熱帯夜になると、俺はベットで思いをはせる。
クマ太は黒髪の女の子に会えただろうか?




