第一章
そよそよと優しい風が吹き、芳しい薔薇の香りが鼻を掠める。
美しい青い薔薇が咲き誇る庭園の奥。日差しが優しく降り注ぐ中に、一人の青年が芝生に身体を横たえていた。
すらりとした体躯は、白のロングコート、白のスラックスに白の皮靴といった、白を基調とした衣服に身を包んでいる。そしてコートの下は詰襟型の服に、手には布地の手袋を着けていて、顔以外に肌が見えない。
もう一度優しく風が吹き、青年の癖のない黒髪がそよぐ。右目を覆うように伸ばされた前髪が顔を撫ぜ、彼は形の良い眉を少し歪めた。目を瞑っているので、瞳の色は分からない。
「あ、いた!」
そんな静かな時間は、突然響いた声にかき消された。
薔薇の茂みがガサガサと揺れ、ひょっこりと、茶色い髪の青年が、息を切らせて現れる。
彼は、寝そべっている青年を見て、安堵したような顔をしたが、すぐさま眉を吊り上げた。
「ヒースさん、いい加減に起きて下さい!」
茶髪の青年が声をかけるも、ヒースと呼ばれた青年はなかなか目を開かない。
肩を叩くなり、身体を揺するなりすれば早いのだが、眠っているこの青年が、不用意に身体に触れられるのを疎んでいることを、茶髪の青年は知っているので、根気よく声をかけ続ける。
「…………ん」
しばらくそうしていると、黒髪の青年はやっと身じろぎし、声を上げた。ここぞとばかりに、茶髪の青年が彼の名前を呼ぶ。
その甲斐あってか、とうとう眠りの淵から上がって来た青年は、ゆっくりと目を開け、幾度か瞬かせる。
その瞳の色は、周りで咲き誇っている薔薇と同じ美しい青い色。
「……リトか。……何?」
せっかく寝てたのに……と、不機嫌そうな声を出すヒースに、リトと呼ばれた青年は怯むことなく、腰に手を当て彼を睨みつけた。
「何?じゃないです!ずっと探してたんですよ!それにまたこんな所で寝て……。いい加減にしないと風邪引きますよ!」
「……こんくらいで風邪なんて引かねぇよ」
ヒースは何気なく言ったつもりだったが、それがリトの癇に障ったらしい。ぴくりと、彼の片眉が上がる。
ヒースが「ゲッ」と声を漏らすも、それはもう後の祭りだった。
「何言ってるんです?前も、私の忠告を聞かなかったばっかりに、風邪引いたじゃないですか。その間、誰が貴方の世話をしたかもうお忘れで?貴方に何かあると、私にもとばっちりが来るんですよ。その辺ちゃんと分かってるんですかね?」
それに……と、リトのお小言が続く。
だが当の本人はそれをいつものことだと聞き流し、いつの日も変わらずに咲き誇っている薔薇の花を、なんの感情も浮かんでいない目で眺めていた。
それに気付いたリトは、ハァとため息を一つ吐き、すぐさま気持ちを入れ替える。
傍から見てリトはヒースの、良く言えば部下、悪く言えば世話係か何かのようだが、別にこれは誰かに強制されたわけでもない。自分から好きでやっていることだ。
「……で?」
リトが落ち着いたのを感じて、ヒースは薔薇から目を離すと、一言そう聞いた。
息を切らせてまでわざわざ探していたのだ。何か理由があるはずだろう。
「あ、はい。ルイス様がお呼びです」
その言葉……いや、告げられたその名前に、ヒースはあからさまに嫌な顔をした。
ちなみにルイスとは、二人の上司の名前である。
「面倒くせぇ、どうせ仕事だろ?お前に任せる」
「ヒースさん」
咎めるような声に、ヒースは舌打ちをしたい衝動に駆られるが、ため息を吐くことでなんとか堪える。
ヒースは、他人にどう思われようが構わないという考えの持ち主で、一人でいることを好んでいる。だが、この何かしら自分の世話を焼きたがるこの青年は、邪険にしづらいのだ。そればかりか、邪険にすると、なけなしの良心が痛む気がするので、もう長いこと好きにさせている。
「はいはい、ちゃんと行くって」
ヒースは長い前髪をかき上げ立ち上がると、服に付いた草を掃う。
それを見て、リトは少し意外な目をヒースに向けた。
「…………何」
その視線に居心地の悪さを感じて、眉を顰めながら問うと、彼は慌てて頭を振る。
「いえ、あの……。今回は思ったよりも、素直に呼び出しに応じるんだなと思いまして……」
「ふん、別に応じたくねぇよ。けどまぁ、これ以上サボるとヤバいからな」
最後に仕事をしたのが約二か月前。その間、呼び出しをされて無視したのが十回、見つかって逃げたのが五回、部屋に乗り込んで来られて、それでも断ったのが二回。
この上司とは、旧知の仲なのでこんな暴挙が出来るが、さすがにこれ以上はまずいと、ヒースも分かっていた。
「分かっているなら、普段からもっと仕事してくださいよ」
「気が向いたらな」
そうお小言を受け流し、顎をしゃくる。
その意味を察し、リトは「こっちです」と身体の向きを変えた。
「急ぐので飛びますよ」
「はいはい」
そう言うと、ヒースは肩甲骨の辺りに力を入れる。
するとそこに光が集まり出し、何かを形作った。
光はすぐに霧散するが、代わりに現れたのは鳥に付いているような翼。
だがそれは鳥のものよりも大きく、眩いくらいの純白の羽だった。
続いてリトも背に同じものを出現させ大きく羽ばたかすと、その身体は簡単に宙に浮いた。
それを見て、ヒースもしぶしぶといった体ではあるが、同じく翼を羽ばたかせ、リトに続いて宙に浮く。
二人はそのままその羽で空を飛び、ルイスが待つ宮殿へ向かった。
彼らは人間と同じような姿をしているが、翼を持ち、空を飛ぶことからも分かるように、人間ではない。
絶対唯一の神であるユーゼレトナの使い、いわゆる天使という存在だ。
神と天使達は人間界とは別にある天界に住み、人間の営みを見守っている。
天使にも位はあり、常に神の傍に仕えている数人の神官の他、神に謁見できる十二人の大天使、『生を司るレーベント、感情を司るアゼーレ、勇気を司るディシュナイト、知識を司るヴィッセント、愛を司るリーベルト、欲を司るベギーアデル、力を司るマハトリア、嘘を司るリューゲン、真実を司るエヒトニア、夢を司るゼトラオム、運命を司るシックザルド、死を司るシュテルベント』と、その他の一から十までランク付けされる、一般の天使に分けられる。
天使は皆大天使の下に就かなければならず、ヒースとリトは死を司る大天使、シュテルベントの下に就いている。
ちなみにルイスはランク一の天使で、シュテルベントの補佐官をしており、次の大天使候補の一人に数えられている実力者である。
リトに案内をされてやってきたのは、シュテルベントとその部下が、仕事をするために用意された宮殿、シュヴァルツだ。
シュヴァルツとは『黒』という意味で、それが示すように屋根の色は漆黒だ。白い壁とのコントラストが、見る者に威圧感を感じさせる。
だがここにも、天界の者が好む青い薔薇が宮殿を囲むように咲き誇っていて、威厳さと美しさが、なんとも絶妙に調和している。
仕事をしたがらないヒースは、自ら進んでこの宮殿に来ることはあまりないが、この風景は嫌いではなかった。
二人は宮殿の出入り口で降りると、翼を一度羽ばたかせ折りたたむ。そしてそれが光に包まれたかと思うと、一瞬にして彼らの背中から消え去った。
「さ、行きますよ」
リトがヒースの方をちらりと見ながら言う。この期に及んで逃げ出さないか、まだ疑っているようだ。
(……まぁ、前にここで逃げ出したことあるからな)
疑われるような言動をした、自分のせいではある。
だが後輩であるリトに、疑いの眼差しを向けられて少しムッとしたヒースは、彼の整えられた髪を、腹いせにぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「わっ、ちょっと、何するんですか!?」
「なんかムカついたからだ」
「……それはちょっと……。いや、かなり理不尽です」
不満げにそう言うと、ヒースは軽く目を細めて、最後の仕上げとばかりに、リトの額を指で弾く。
いわゆるデコピンをされた青年は、痛みでその場に蹲った。翠の瞳に涙の膜が張る。
「~~っ!ちょっ……、ヒースさんっ」
これは怒ってもいいだろうと顔を上げると、ヒースが一瞬口元を緩めた。
(笑った……!?)
顔の筋肉が死んでいるのではないか、というくらい表情が動かないヒースの、滅多に見る事が出来ない笑顔を見て、リトは怒る気が萎んでいくのを感じる。
結局、リトはこのどうしようもなく見える傍らの青年を、心から慕っているのだ。
「さっさと行くぞ」
「……はい!」
何事もなかったように背を向けて歩き出すヒースを、リトは自然と緩む口元を、手で隠しながら追いかけるのだった。
ルイスがいる執務室へ行くのには、無駄に長い回廊を歩かなくてはならない。
翼があるのだから飛べばいいのだが、ヒースは生い立ちゆえか、本当に必用な時にしか翼を使いたがらない。本人は、狭くなるので建物の中では緊急時以外、あまり飛ばないようにしている、と言っているが。
しかし多くの天使がヒースとは違い、いつでも使えるように、普段から翼を出しっぱなしにしているため、彼のその行動は異様に映ってしまう。
大概はそんな彼をじろじろと横目で見たり、こそこそと陰口を叩いているだけのためヒースは気にしていないようだが、たまに絡んでくる者もいる。
現に、反対側から飛んで来ていた二人組の天使が彼らに気付き、ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべながら、近づいてくるところだった。
「めっずらしィ~。ヒース君じゃねぇの~」
「さっすがルイス様のお気に入り~。お仕事も真面目にこなしていらっしゃるようで~」
二人の、負の感情を隠しもしないその言いように、傍らにいたリトが顔を歪める。
確かにヒースの言動は反感を呼ぶ。それは分かっているが、この絡み方はとても不快だ。
何か言い返そうと口を開こうとした瞬間、ヒースが気にも留めていないといったように歩き出した。
「リト、行くぞ」
「え、あ、はい」
リトは少し納得できないような顔を向けたが、本人はよくある事だと気にしていないようだし、まぁ良いかと思い直して、ヒースを追いかける。そんな事よりも、早くルイスの元へ行かなければならない。
「あっれ~?ヒース君逃げんの~?」
しかし無視された二人はその態度に苛立ち、ムキになったのか、またヒース達の前に立ち塞がる。
「逃げんなって~。先輩の言うことは聞かなきゃダメって、教わんなかった?」
(……逃げるというか……、低俗すぎて関わりたくないだけだと思いますけど……)
ちらりと隣を見るとヒースは相変わらず無表情だ。だがヒースの纏う空気が、段々と寒々しくなっていくのがリトには分かった。伊達に世話係のようなものをやっているわけではないのだ。
本来、ヒースはそこまで気が長くない。それを知っているのはリトや旧知の仲のルイス、そしてやらかしてしまったその他少数の者だけだ。
早くここを離れなければならないと、リトの頭の中で警鐘が鳴った。
「……申し訳ありません先輩方。ルイス様から、ヒースさんを至急連れて来いとの命を受けておりますので、ここを通して頂けませんでしょうか」
ルイスの名を出せば、この二人も引くだろうとの考えは見事功を成したようで、二人は舌打ちをしながらしぶしぶ通路の端に寄る。
リトはホッと詰めていた息を吐き、相手は腐っていても先輩なので、礼を言いながら頭を下げた。
二人の天使は、微動だにしないヒースを見て、忌々しそうに舌打ちをすると、今度はリトに嫌な笑いを向け始める。
「お前も大変だよなぁ。せっかく名門一族の出身なのに、こんな落ちこぼれの元人間の世話することになっちまって」
「なんでルイス様は、こんな落ちこぼれなんて気にかけるんだろうなぁ?まぁ同じ元人間でもルカさんは凄かったけど~」
ぶちっと、リトのすぐ隣で何かの切れる音が聞こえた瞬間、彼は「あ、詰んだ」と、どこか遠くで思った。
ヒースは、ゲラゲラと笑いを立てる二人に、初めて自分から近付くと、ニッコリと笑顔を浮かべた。
普段、リトは特別に気に掛けた事はないが、ヒースは美形の部類に入ると思っている。何度か他の部署の若い女の天使達が、彼を見て黄色い悲鳴を上げているのを見た事があるので、リトだけがそう思っているわけではないはずだ。
「……!?」
その艶を多分に含ませた微笑みを見て、二人は面白いぐらいに固まる。
しかしヒースは、そんな彼らの様子を気にすることなく、手前にいた一人をその長い足でおもむろに蹴りつけた。
「おぶっ」
油断していたその天使は数メートル吹っ飛び、受け身も取れずに、壁にぶつかって止まった。動かないのを見ると、どうやら気を失っているようだ。
「……っは、このくらいで気ィ失うなんて、アンタ本当に死神かよ」
蹴りつけるために上げた足を元に戻し、先ほどの笑顔はどこへやら、悪役さながらの笑顔で言い捨てる。
(あ~~……、これは相当怒ってますね……)
ヒースは切れると、最初はとても美しく妖艶に微笑む。整った顔立ちと、普段無表情というギャップが相乗効果となり、大抵の相手はぴたりと動きを止める。きっと女性がそれを見たら、大抵の者が頬を染めるだろう。
その隙に相手を蹴るなり殴るなりするのだが、その時浮かべる表情は先ほどのものとは違い、『悪魔のような』という表現が、とてもよく似合う。
「テメ……、いきなり何しやがるっ!」
残ったもう一人が我に返り、とっさにヒースの肩を掴み、殴ろうと拳を振り上げる。
途端、悪そうな笑顔を浮かべていたヒースが、一瞬の内に真顔に戻ったのを、リトは見た。
「俺に触るな」
氷のような冷たい声が放たれた途端、その天使の視点は反転した。
気付かない内に背中が床に叩きつけられ、息が止まる。痛みが遅れて来る頃になって、ようやく彼は、ヒースに投げられたのだと気付いた。
逃げようとするも、叩きつけられた際の衝撃が尾を引いて、身体を起こすことが出来ない。
そしてこれで済むほど、相手は甘くなかった。
ヒースが彼の胸に右足を載せ、ぎりぎりと体重を掛けていく。
「……うあ……っ!」
「恥ずかしいな、元人間の俺にこんな目に遭わされて。なぁ、センパイ?」
ヒースはただ笑っていた。しかしその声と視線は氷のように冷たい。普通に怒るよりも、何倍も怖かった。
「確かアンタ、俺と同じランク六だったよな。センパイの癖に後輩……、しかも元人間と同じなんて、本当に笑えるよなぁ?俺よりたくさん仕事してるはずなのに、何でランクが上がんねぇんだろうな、不思議だよなぁ?」
言葉を紡ぐ度に、気絶しない程度の絶妙な力加減で、足に体重を加えていく。
最初は踏まれ、見下されていることに羞恥で顔を赤くしていた天使も、ようやく自分達は大変な相手を怒らせたのだと、理解し始めたらしい。
血の気が引いて青くなったり、息苦しくて赤くなったりと忙しい。
「わ……るかった、もう何もしない、から……っ!許してくれ……!」
「ヒースさん、本当にそろそろ止めてあげて下さい」
同時に二人から声が上がる。相手はいうまでもなく踏まれている天使と、ヒースの傍らで、先ほどまで遠い目をしていたリトだった。
ヒースはリトの方に首を向け、それから自分が踏みつけている天使をちらりと見てから、ようやく足を退ける。
解放された瞬間、その天使は必死で、いまだ気絶している天使の元へ後退る。
その怯えたような青い顔を見て、ヒースはすぐに興味を無くしたように、顔を背けた。
「最後に言っとく。二度と必要以上に俺に話しかけるな、関わるな。不意に触ったりしたら、さっきと同じような目に合わせる」
そう言って、一人でさっさと歩いていってしまう。
「あ、待って下さい!」
リトはもう一度二人の天使を振り返るが、すぐにヒースを追いかける。
ルイスの命令を受けてから三時間。恐らく首を長くして待っている事だろう。それにリトは気付かなかったが、きっと先ほどの騒動を見ていた天使がいるはずだ。その者は十中八九、ルイスに報告する。
(……ルイス様になんて言い訳しましょう)
気が重くなるのを感じながら、リトはヒースと共に執務室へ急ぐのだった。
「遅い」
執務室のドアを開け、開口一番に言われたのは、やはりその言葉だった。
あの後マイペースに歩くヒースを急かし、早足で執務室へ向かった。
やっとの思いで辿り着き、ドアを叩いて入室の許可を取って中へ入ると、待っていたのは、青筋を浮かべながら微笑み、さらに部屋の中央で仁王立ちをしていたルイスだった。
「すっ、すみません!」
怖くてルイスの顔を見ることが出来ない。しかし反射的にリトは、腰を四十五度に曲げるという、最敬礼の形を取って謝っていた。
それを見たヒースは、呆れた顔をリトに向ける。
「お前……、別にそんな畏まらなくていいんじゃねぇ?」
「何言っているんですか!貴方が謝らないからでしょう?それに相手はルイス様ですよ!?」
「だから、ルイスだから謝んなくていいって言ってんの」
「だから、呼び捨てにするなと何度言えば分かるんですかっ!いくら旧知の仲といっても無礼にもほどがあります!」
上司そっちのけで言い合いを始めてしまった二人に、ルイスのこめかみがぴくりと動く。だが、それに二人は気付かない。
音も立てずに二人に近付くと、ルイスは握りこぶしを作り、おもむろに両腕を上げ……、それを勢いよくヒースとリトの頭に向けて振り落とした。
――ゴチッ!
そんな音が、二つ同時に響く。
いわゆる拳骨を受けた二人は、頭を押さえて蹲った。
「~~~~~~っ!!頭、割れる……っ」
「~~~~っ!!……てめ、ルイス……っ」
ヒースが蹲ったままの体勢で睨むが、痛みでうっすらと涙を浮かべているのでは、怖さも半減してしまう。しかも相手は旧知の仲であるルイスなので、全く意味がない。
「さて、二人とも頭は冷めたかな?」
先ほどの拳骨で少し気が晴れたのか、ルイスは魔王のようだった笑顔を消し、いつもの人の良さそうな、それでいて本心の見えない笑顔を浮かべる。
それを見てリトは、素早く起き上がり自分の佇まいを正し、ヒースも舌打ちをしながらも立ち上がり、話を聞く体勢に入る。
そんな二人の様子に満足したのか、ルイスは一つ頷くと、自分の机に戻り、椅子に腰かけた。
「まずはそうだな。リト、ご苦労だったね」
「いえ、そんな……。それよりも、遅くなってしまい申し訳ありません」
リトは再び深々と頭を下げる。ヒースはそんな彼に複雑そうな顔を向けると、髪をガシガシと乱暴に撫ぜる。
遅れた原因はリトではなく自分にある。だが、なにも悪くないこの青年に、自分の非を謝られては居たたまれない。しかしルイス相手に素直に謝るのは、己のプライドが許さなかった。
「で、俺を呼んだ理由は?」
ヒースは、気まずいこの空間から早く逃げ出すためにルイスを急かそうと、本題を切り出した。
呼び出された理由は見当が付いている。十中八九仕事の件だろう。ならば早く内容を聞いて、あの薔薇が咲き誇る庭園の奥で惰眠を貪りたい。
ヒースの頭には、もうそれしか浮かんでいなかった。
そんな彼の考えが分かったのか、ルイスはため息を一つ零し、職務机に置かれた書類をヒースに手渡した。
「ヒース、仕事だ」
「はいはい」
ヒースは嫌そうな顔をしながらも書類を受け取り、目を通し始める。
リトが気にしているのが視界に入り、彼にも教えるように、ルイスは書類に書かれている内容を声に出した。
「今回の相手はエルレスト王国に住む十七歳の少女、エリカ・シュナルツ。執行日は一ヶ月後。時間は午前一時」
「一ヶ月後?」
普段より長いそれに、リトが思わず声を上げる。丁度ヒースもそこを読んでいたようで、書類から顔を上げルイスを見やる。
普通、このように上司から仕事を振り分けられる時、執行日は長くて一週間後だ。仕事内容がハードな場合もあり、失敗のないように集中させなければならないため、掛け持ちはさせないのが鉄則となっている。
「……何か裏でもあんのか?この間に、他の仕事入れるつもりじゃねぇだろうな?」
「そんなことはしないさ、規則は守る。……私も詳しい事は聞かされていないが、お前にぴったりの内容ではないか。それとも……」
――……断るのか?
声に出さなかったその言葉は、しっかりヒースに伝わったようだった。
今までで一番大きな舌打ちをして、彼はルイスを睨みつける。それはいつも一緒にいるリトでさえ、思わず肩をビクつかせるような鋭い目つきだった。
先ほど絡んで来た天使達に向けた、氷のようなものとはまた違う。苛立ちや怒りなど、燃えたぎる様な激情を込めた目つき。
「……っは、ンとに死神なんかにならなきゃ良かったぜ」
「だがシュテルベント様の下に就くと決めたのは、お前自身だ」
その言葉に、ヒースは皮肉気な笑みを浮かべる。
「……そもそも俺は、天使になんかなりたくなかった」
そう言い捨て、彼はリトとルイスに背を向けると、そのまま部屋を出て行こうとする。
「ヒースさん」
ヒースがリトの横を通り過ぎ、彼も後を追おうと声を掛ける。
しかしヒースはリトの方を見もしないで、的確に彼の額を指で弾いた。本日二度目のデコピンに、再び彼は蹲った。
「~~~~いっつ……!ヒースさん……!」
「追いかけて来んな」
その言葉とは裏腹に、優しく頭を撫でて部屋を出ていこうとするヒースを、リトは思わず見上げる。
その時浮かべていた皮肉気な笑顔が、リトには何故か泣きそうに見えた。
ぱたんと静かにドアが閉まり、リトは蹲った体勢のままルイスを見上げた。
それに気付いたルイスは苦笑し、彼に椅子を勧める。
「ヒースは相変わらずのようだな」
丁重に礼を言うと、リトはまだ痛む額をさすりながら勧められた椅子に座り、気まずげ頷いた。
「……それで、ここに来る時に何があったんだ?」
それを見て再び苦笑すると、ルイスはこの宮殿で、ヒースがやらかしたことについて聞きたがった。やはり知らせに来た者がいたようだが、事の顛末は詳しく知らないらしい。
「あ、はい」
そう返事をしてリトは、やっとヒースを見つけて宮殿に連れて来たこと、その途中で二人の天使に絡まれたこと、その時彼らがヒースの地雷を踏んでしまったらしく、それにキレたヒースが二人を蹴り飛ばし、投げ飛ばしたということを、出来るだけ細かく話し始めた。
「……と、こんな感じです」
「……そうか」
五分後、話し終えたリトに紅茶を淹れながら、ルイスは深いため息をついた。
オールバックにされた金色の髪を撫でつけながら、彼は重い口を開く。
「……彼らは近頃任務の失敗が目に付くようになってね。シュテルベント様から達しがあって、今日ランクを下げたんだ。きっとその腹いせをしたかったんだろう」
「そう……だったんですか」
シュテルベントは死を司る大天使。その下に就く彼らの仕事は主に、人間界にて寿命の来た者の魂を狩り、天界まで守ることだ。
魂を狩らないとそれは身体の中で消滅し、生まれ変わることが出来なくなってしまう。それはこの世の理に反することだった。
しかし狩り取った魂は堕天使に狙われやすい。彼らは天界で罪を犯したために追放された天使や、自ら堕天した元天使達だ。神に復讐を誓い、力を付けるために魂を狙っているらしい。
近年堕天使達の動きが活発になっていて、仕事を達成するのに彼らと一戦交えるのは、必須になりつつある。戦うのが苦手な天使達は、ヒースに絡んできた天使のように、任務を成功させる事が出来ずにランクを下げられてしまう。
「……ルイス様、私悔しいんです」
ぽつりと、リトが漏らす。その視線はティーカップに注がれていて、膝に置かれた両手は小刻みに震えていた。
「…………」
ルイスは無言で先を促すと、それを察したのかリトは更に言葉を発する。
「あの天使たちみたいに、元人間ってだけで見下す……。けど、数年間ずっと近くで見ていた私は知っているんです。ヒースさんってランクはあまり高くないけど、難易度の高い仕事もそつなくこなす実力があるってこと。知ってるんです、本当はとても優しいってこと……」
性格も粗暴で口も悪く分かりづらいが、ヒースは一度懐に入れた者を、とても大切にする。そうでなければリトに笑顔を見せたりなどしないだろう。
そんなヒースが誤解され続けるのは、とても悔しいし、悲しかった。
「元人間で何が悪いんです!?彼らにヒースさんの何が分かるっていうんですか!純潔の天使の、何が偉いっていうんだっ!」
顔を伏せたままリトは叫ぶ。
元人間とは文字通りの意味だ。五十年から百年に一人の割合で生まれるという、神に選ばれた魂を持つ人間は、死んだあと、記憶もそのままに天使として転生する。天使の寿命は千年近いが、その代わり人間としての生涯は短い。
だが天使は一点の穢れもないものを好む傾向があり、純潔である事に重点を置く者も多い。元人間だった天使たちの風当たりは、決して弱くはない。
人間界でも天界でも、自分たちとは違うものは奇異の目で見られ虐げられる。それは生き物として、当然のことかもしれない。
それでもリトは納得できなかったし、分かりたくないと思ってしまう。
「……そうだな、君の言う事は正しいよ。平等を掲げてはいるが、歴代の大天使の中に、いまだに元人間の天使がいないというのがいい証拠だ」
ルイスの顔は、本当にその事実を憂いているように見える。
それを見て、リトはすぅ……っと興奮した気持ちが落ち着いていくのが分かり、「すみません」と謝った。
ルイスは気にしていないといったように笑い、紅茶を口に含む。それを見て彼も同じようにカップに口を付けると、ふと疑問が湧き上がってきた。
「……あのルイス様、少し聞きたい事があるんです」
「おや、なんだい?」
「絡んできた方たちが言っていたんです。同じ元人間でもルカさんは凄かったって……。どんな方だったんでしょうか」
あの天使たちがあんな風に言うなんて余程すごいのだろが、リトはその天使のことを知らなかった。リトはまだまだ新米なので、自分が入る前に活躍していた天使なのだろうと見当を付ける。
だがその名前を出した時、ルイスが悲しげに眉を寄せたのを、彼は見てしまった。
「……ルカは、私が魂を狩った元人間の天使でね。転生したあとも、それが機で指導していたんだ。真面目で一生懸命な子だったから、ランクも順調に上がっていってね。他の天使からも一目置かれていたよ」
そこで言葉を区切り、ヒースはすっかり冷めてしまった紅茶を口に含んで、喉を潤す。
「ヒースの魂を狩ったのも彼だ。私の時と同じように、そのまま彼の教育係をしていた」
「え、そうだったんですか?私はてっきり、ヒースさんの教育係はルイス様がしたのかと……」
「ヒースのことはルカと同じように気に掛けていたよ。なにせ、ヒースはあんな性格だったからね。ルカにはまだ懐いていたようだけど、なかなか手を焼いたよ」
あぁ、手を焼いているのは今もか、と苦笑するルイスに釣られ、リトも渇いた笑いを返す。昔からヒースは変わっていないらしい。
しばらく二人で笑いあい、話が反れたことに気付いたルイスが咳払いをする。
「しかし、彼は八年前、任務の途中で行方知らずとなってしまったんだ」
「……え?」
その場を、静寂が包んだ。
「…………」
ルイスとリトが話している頃、ヒースは自室のベッドの上に仰向けで寝転んでいた。
言い合いをしたせいで、日のあたる庭園で昼寝をする気分が、すっかり萎えてしまったからだ。
「……ルカ」
最近、ルカと初めて会った時の夢を見る。といってももう朧げにしか覚えていないが。
初めて会ったのはまだ人間だった時。しかも自分が死ぬ時だ。正直あまり思い出したいものではない。
ただ印象的だったのは、美しい銀色の髪と紫水晶のような瞳、そして雪と見紛うばかりの純白の羽が、雪景色の中で舞う幻想的な光景。
薄汚れた世界の中で、それだけがひどく美しく見えた。
「……お前、今どこにいるんだよ」
行ってきますと、最後にそんなありきたりな言葉を残して、ルカは消えてしまった。
おかえりと言い返せないそれは、ヒースの頭の中で虚しく響く。
「…………ッチ」
舌打ちを一つ零し、ヒースは目を瞑る。
今はただ、泥に沈むように深く眠りたかった。