泣く女の夢
「こんばんわ」
部屋に入るなり椅子に座った女の客が話しかけてきた。唖然としたものの挨拶を返していつもの椅子に座る。
「あなたおいくつ?」
気に障る甲高い声で話す女は長い黒髪を後ろで一本の三つ編みで束ねている。かなり長く伸ばしている割には手入れが行き届いていないのか切れ毛が多い。化粧はしておらず、洗顔後に乳液をつけただけのようなテカりが気持ち悪い。笑顔を浮かべてはいるが何処かぎこちなく、こちらに目線を合わせず泳いでいる。
「…、14歳です」
私は悟られないように小さくため息をついた。
ネルシャツにアイロンを掛けていないのが目についた。ボタンが並んだ前立てや襟のあちこちに、深く入った沢山の皺のせいだ。
女は視線をくるくると目まぐるしく動かしている。
「若いわね。キレイだし、男の子にモテるでしょう?」
「…別にモテないしモテたくもないです」
「ふふっ。そんな風に言うなんてホント若いわ」
女は笑ったが、私は何も面白くなかったので黙っていた。
「わたしのお話、聞いてくれる?」
「いいですよ」
私は飲み物に口をつけた。
女はくるくる動かしていた目を止めた。私の方は見ていなかった。何もないところを見ていた。そして止めどなく語り始めた。
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わたしの最初の記憶は寝室の天井だった。夜中に起きたんでしょうね、隣にお母さんが眠ってた。それがわたしの一番古い思い出。
でもね、可笑しいの。隣に寝ていたお母さんはお母さんじゃなかったの。
……あら、うふふ、ごめんなさい。えっとね、わたしの母は静枝というの。隣に寝ていたのは静枝じゃないの。でも夜中に起きた幼いわたしは、隣にお母さんが寝てる、って思ったの。変でしょう? うふふ。理由は高校にあがって分かったわ。隣に寝ていたお母さんは実の母で、静枝は育ての親だったの。
それで納得したわ。兄弟と比べて血がつながってないあたしだけ扱いが違ったのよ。今で言う『虐待』とか『DV』ってやつ。されたことある? …そう。まだ話しても平気? …ありがとう。
父親は仕事が忙しくて殆ど家に居なかった。わたしは父親が好きだったし、あの人…、あ、静枝のことね。あの人にも好かれたかった。小さい頃は子供なりに気に入られようと家事を手伝ったりしたもんよ。でも駄目だった。逆に「ココが出来てない」とか粗探しされて打たれたもんよ。皿洗いをしたら「汚れが落ちてない」って裁縫用の物差しでバンバン打たれたし、洗濯物をたたんだら「シワだらけだ」って真冬の夜に下着だけで庭に3時間も放り出された。
その内、打たれたくないから家の事は何もしなくなった。妹と弟の世話もしなかった。
父親に虐待の事は言わなかったし寧ろ隠してた。
なぜって、父親がいる間は『普通の家族』で居られたから。テレビでしか見た事がない普通の家庭。晩御飯が出来たよって声を掛けてもらえる、お風呂空いたよって言ってくれる、不意に固くて重い物が飛んでこないし叩かれない世界、死にたくならずに済む世界に居られたから。
中学にあがってからは家に帰りたくなくて毎日寄り道してた。でも当然お小遣いなんて渡される訳ないしお金がないわけ。仕方ないから30分歩いて図書館に行ってた。今の子も図書館なんて行くの? へぇ、そう。それで、片っ端から面白そうな本を閉館するまで読んでた。毎日毎日。もう司書さんにも顔を覚えられちゃってね、いつも座る席が決まってたりしたの。今考えるとお風呂にも入ってない制服の子が毎日来てたら、イヤでも覚えちゃうよねぇ、はは。
今でも自分の好きな本の区分は覚えてる。ほら、図書館って本棚に三桁の数字が貼ってるでしょ?本の背表紙にも。ね? 230とか910とか。特にあたしは145とか147が好きでね、んふ。
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女は話しながら笑っていた。いや、あれは笑っているんだろうか。口角は上がっているけど、女は決して楽しそうではなかった。自嘲? 怒り? わからない。
自分の昔話を垂れ流す女は、話し始めてから一切こちらを見なくなった。これは会話なのか? このまま聞いていれば終わるのか? 不安を感じて無意識にタンブラーの中身を見下ろす。液体の量は戻っていない。
「色んな虐待を受けたの」
「父親が居ない時には食事は与えられずお風呂も入れない」
「誕生日やクリスマスには何も貰えなかった。妹は貰えてたのに」
「お前は死ぬ程不細工で馬鹿で無価値、って毎日言われた」
「お湯を掛けられた火傷の跡も飛んできた置時計の傷もハゲになって今でも残ってる」
「いつも栄養失調で、身長が155センチあったのに体重は38キロだったの」
これは不幸自慢だ。
確かに客は不幸な生い立ちがあったのかもしれない。
人よりも辛い経験をしたのかもしれない。
でも、だから何だというんだ。
私にだってそういう話はある。
「大丈夫? はなし聞いてる?」
女は唐突に話を止めた。
「……」
私は返事に躊躇った。
もちろん話は聞いているし、それについて色々と言いたい事もある。
体を傷つける『身体的虐待』、心を傷つける『心理的虐待』、世話をしない『ネグレスト』。これに『性的虐待』があったら完璧。パーフェクトだ。満点おめでとうございます!
拍手しながら叫んでしまいそうな自分がいる。でもそうじゃない。
客の求めている返事なんて分かりきっている。
〈大変だったんですね〉
〈可哀そうに〉
でもそれは言いたくない。どうして私が言わなくちゃいけないの。私が。
「こんな話、楽しく無いよねぇ。ごめんね、つまんない話で」
「…いいえ」
私はやっとの事でそれだけ言った。
聞くのも苦痛な話だけど、話を聞かなければ終わらない。
「母親を殺したかったですか?」
私の問いに女は驚いていた。
「いいえ」
自分で言った答えにも女は驚いていた。そして噛みしめるように同じ答えを繰り返した。
「いいえ、今まで一度も無い。人を殺す夢は沢山みた。あの人を殺す夢もみた。殺すのは夢でもう十分」
笑おうとしてヒクついた顔を両手で覆った。
「だから逃げたの。働くと言って学校を辞めて実家を出たの。ほとんどの荷物を実家に残して適当に決めた遠く離れたところに逃げた」
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働くと言った時、あの人は心配そうに自炊できるのとか、そんなに痩せて小さいのに働けるのかとか言ったわ。気持ち悪い。料理が出来ないのはアンタが怖くて台所に行けなかったからよ。痩せて小さいのはアンタが食べさせてくれなかったから。時々、本当に気まぐれに優しくなるから嫌になる。次は優しくしてくれると期待してた自分が嫌になる。死にたくなる。だから逃げた。
『何故逃げたんだ』『どうして努力しなかったんだ』
そう言う奴には分からない。絶対に分からない。
世界で一番大切にされるはずの母親から15年間「お前は無価値だ」「死んでいい」と宣言され続ける事がどんなに心を蝕むか。
将来の夢なんか無かった。そんな遠い未来の事に思いを馳せる余裕なんて無かった。今日はどうしたら殴られないか、心臓が痛くなるような罵倒から逃げられるか、この空腹をどうするか、そんな刹那をやり過ごすか、それだけで精一杯だった。
もっと強かったらと今なら思う。強かったらあの人を告発して、あの人から離れて、殴られず蔑まれず毎日ご飯もお風呂もベッドも与えられる生活、そうしたら私は幸せになれたかしら……
違う。違う。そんな事で幸せになんてなれない。
もしあの人から離れられても《虐待を受けた私》は消えない。今さら受けた虐待を無かった事になんて出来ない。今の私には《虐待を受けた》過去があるから、今の私になったんだわ。
白い肉が埋まって丸い痕が出来た肘も、蛾にも見える太腿の火傷の跡も、怪我で小さく禿げた頭も、全部否定され続けて醜く歪んだ心も、…全部私。認めたくないけどね。
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顔を覆ったまま女は泣いていた。タンブラーの中身を覗くと液体の濃度が薄くなっている気がした。