無口な男
「こんばんわ」
私は、テーブルの向かい側に座り俯いた客に話しかけた。
顔は見えないが若い男のようだ。頭はボサボサで2、3日髪の毛を洗っていないのか油でテカテカと光っている。灰色のTシャツの首周りは、荒い洗濯を繰り返したのか、生地が伸びきっている。
「こんばんわ」
繰り返しながら(夜の挨拶でいいのだろうか)という、どうでもいい疑問が頭に浮かんだ。夢の部屋には窓が無いので、今が夜なのかどうかわからない。
しばらく客の反応を待ったが、男は私の顔を見るどころか目を伏せたままピクリともしない。私は溜め息をついた。今日は長くなりそうだ。
「...本を読むのは好き?」
最近読んだ本の話をしたが、男は無反応だった。
「他の話がいいかな。じゃあ......」
今朝出会った猫の話にも、学校の先生の話にも、美味しいパンケーキの話にも乗って来なかった。
私は深い溜め息をついて一度口を閉じ、一口も減っていないタンブラーを見下ろした。対話の入り口に辿り着けない焦燥感に駈られながら、ゆっくりと目を閉じて思い付いた話題を口にする。
「パンケーキを一緒に食べたのは、大事な親友なの」
期待せずに瞼を開けると、男は猫背のまま頭を上げてこちらを見ていた。その瞳に生気は無く、だらしなく口を開けたままだが、これで活路が開けたかもしれない。
「彼女と初めて会ったのは図書館で、本の趣味がお互いに合ってたの。それで話が盛り上がって段々話すようになった。太宰とか、村上春樹とか。読んだこと、ある?」
男に問いかけると、だらしない口元のまま軽く首を横に降った。よし、会話は成立している。このままいこう。
「クラスの子みたいにスマホのゲームやLINEに興味が無かったのも、話してて気が楽だった。最初の頃は、お互いにお勧めの本を交換し合って読んでたの。他の子と居るときは無言の時間がどうしても落ち着かなかったけど、彼女とふたりの時は気にならなかったな...」
タンブラーを持ち上げ、唇を濡らす程度に液体を飲む。私が飲んでいる間も客の興味はこちらから動いていないようだ。
「彼女と本以外の好みは合わなかった。音楽の趣味も、好きな教科も、観る映画も。でも、だからと言って話が合わなかった訳じゃないの。彼女は何でも楽しそうに話してくれた。私の話も、彼女は何でも聞いてくれた」
「彼女のことが大好きで、ずっと見ていたくて、眩しかった」
話しながら、自分の気持ちを言葉にしていく。眩しかった、そう、私は彼女みたいになりたかった。
「私には、彼女は光り輝いて見えた。私に無いものを持ってた。彼女と一緒にいる時の私は彼女の世界に居られた。幸せだった」
「彼女が笑うと、体がポカポカ暖かくなるみたいだった。だから私も自然に笑えた」
少しずつ飲み物は減っていく。目の端で残りを確認した、その時。
「その友達はあなたが無いものを持ってた」
客が突然話し始めたので、私は驚いて話を止めた。
「そ、そう」
なんでもない返答なのに言葉が詰まる。
「どうして。友達にあってあなたに無いのは何故ですか?」
言葉では私の話に興味を持ったように聞こえるけれど、男の目は変わらずどんよりと曇り生気が無い。そんな死んだような顔つきで自分の事を聞かれるのが気持ち悪く思えた。
私はその嫌悪感を誤魔化そうと、何度かゆっくりと深呼吸をしてから液体を半分ほど飲み干した。
「何故って、欲しくてもどうしようもないモノってあるでしょ?」
「あなたは本当に欲しがりましたか? ほんとに?」
「どういうこと?」
胸がざわつき黒い感情が沸き上がってくるのを感じた。
「あなたに、私の何が分かるっていうの?」
「わかりません」
男は俯いてしまった。
「僕は右手と左手に1つずつ人形を持っていました」
「は?」
意図しない話題のズレに、私は思わず聞き返した。
「人形です」
男は構わず話し続ける。
「そして谷に掛かっている細い板の上を歩いています。人形同士は離して持たないといけません。だから僕は両腕を肩の高さまで上げ、1つずつ人形を持ちます。時々、片方の人形が重くなったり軽くなったりするので、バランスを取るのが大変です。でも頑張って毎日歩きました」
「でもある日、片方の人形を落としてしまいました」
男は顔を上げて私の目を見た。話を聞いているか確認したようだった。男の目は痛みを堪えているように見えた。
「咄嗟に手を伸ばせば拾えたかもしれません。でも僕には出来なかった。僕まで落ちてしまうかも知れない。最後の人形を落としてしまうかも知れない。僕はこれ以上失うのが怖くて、人形が谷底へ落ちていくのを見ている事しか出来なかった」
男はそこまで言い終わると、口ごもり、視線を泳がせた。私は最後の一口を飲み干して話の終わりを待った。
「今でも僕は谷底を見ています。手にはまだ1つ、人形を持っているのに、僕の目には入りません。無くした人形の事ばかり考えて、傍にある人形が見えていません。どうして拾おうとしなかったのか、そればかり考えています」
「本当に欲しかったら、手を伸ばすべきでした。あなたも僕も」
「一緒にしないでよ」
私は、空のタンブラーを確認してから立ち上がった。
「じゃあね、ばいばい」
ブラブラと片手を振ってドアに向かう。
「そんなに好きだったのに」
背後で男はボソボソと喋り続けているが、構わずにドアを開き中に入る。
「どうして」
その続きは聞き取れなかった。