事務的な告知
不快な目覚めだった。きょう休むとは知らないお母さんが、いつものようにあたしを起こしに来た。カーテンを開けて射し込んでくる朝日が、閉じた目の瞼を通り抜けてくる。
「お母さん...」
「おはよう、もう時間ないよ」
「お母さん、今日は休む...」
上半身を起こしたもののグッタリと背中を曲げて、絞り出すように呟いたあたしを見て、お母さんは続けようとした言葉を止めてあたしを見据えた。
身動ぎもせずにじっと見つめるその目はあたしの言葉の本心を見定めようとしているようで気持ちのいいものではなかった。けど深刻な寝不足とネガティブな思考に漬かった頭では、どうしても登校する気になれなかった。
「分かった。今日は休みなさい」
お母さんはさっき開けたばかりのカーテンをソッと閉めた。
「病院行く?...あ、そう。じゃあ学校には頭痛って連絡しておくから。ご飯は食べれる?」
あたしは無言で頷くとお母さんに背を向ける形で横になった。
「お母さん、今日はパートだから。お昼は冷蔵庫にあるものか、冷凍食品食べなさい。好きなの食べていいから」
「ラザニア食べてもいい?」
背中越しにお母さんがふふっ、と押し殺したように小さく笑うのが聞こえた。
「ラザニア食べられるなら心配ないね、いいよ食べても」
静かにドアを閉める音がした。お母さんに見透かされた気分になったあたしは、恥ずかしくて目をぎゅうっと閉じた。
次に気づくと、もう日は高く昇っていた。スマホを手に取るとお昼を過ぎている。
寝起きのボーッとした頭で階下へ降りると冷蔵庫を開けた。
「大好きな人が死んだのに、喉は渇くんだね」
何の前兆もなく心のなかで声がした。
大好きな綾音が死んでしまってこんなに哀しいのに、こんなに苦しいのに、あたしの体は飲みたがり食べたがる。
利己的な自分の体が嫌だ。嫌だ。嫌だ。捨ててしまいたい。
あたしは冷蔵庫を開いたまま泣き崩れた。
**********
「人の胃は3日で全ての細胞が入れ換わるそうだよ」
テーブルに落ちたペットボトルの汗を指で伸ばしながら綾音は言った。
「そうなの?」
「うん。ほかの部分も、6年位で全部新しい細胞になるんだって」
「へぇ~」
「ある意味、6年後は別人になるって事だよね」
この話をしたのは、どこだっけ。そう、あたしの家だった。
お母さんが手作りのトートバッグをあげてから、綾音はあたしの家に時々来るようになっていた。
「6年後ってことは、20歳かぁ」
20歳になったあたしは大学に行っているんだろうか。
自分の6年後を想像しようとしたけど、何も思い浮かばなかった。
近所のお姉さんがレポートだとかゼミだとか忙しそうにしているのを見て、本当にぼんやりとだけど大学に垢抜けた印象を抱いていた。髪を巻いてメイクして通学しているのを知って、素っぴんで剛毛のストレートを一本に束ねるだけの自分の姿を鏡で見ると到底追い付けない壁を感じる。
「ひゃっ」
背中がゾクゾクして、あたしは可笑しな声をあげた。左手の小指を、ローテーブルの向かいに座っていた綾音がなぞるようにくすぐっていた。
「えっ、何。くすぐったいよぉ」
綾音の顔色につられてあたしもつい笑顔になる。
「気持ちいい」
綾音はあたしの手をテーブルから持ち上げると指を絡めてきた。くすぐったくはなかったけど、とても恥ずかしくてむず痒かった。綾音の手はスベスベして、ささくれなんてひとつもない綺麗な甘皮で、手入れされた爪先で、私のむくんだ手よりも何倍にも気持ち良かった。
それに、こんな手の繋ぎかたは今までしたことがない。すれ違う男女がしているのを横目で見ていたくらいしか経験がない。
「羨ましい」
**********
そうだ。綾音はあのとき確かに言った。
あたしの手を見て「羨ましい」と。
10人が10人、いや1000人が見たら1000人が否定すると思う。
あたしの、爪切りで切っただけで手入れもしない、家事の手伝いのせい(と信じてる)で増えたシワがある、手の甲の関節部分がちょっとへこむ位のぽっちゃり手と、綾音の手を比べたら羨ましいなんて。
あの後あたしは何て言ったっけ?
綾音は何て答えたっけ?
思いだそうとしたけど、その日の記憶は霧がかかったようだった。
愕然とした。
もう思い出せない記憶がある事にあたしは絶望していた。
こんなに好きでも消えてしまった思い出がある。
来月はどれだけ、来年、6年後はどれだけの、綾音の思い出を持ち続けられるのか?
あたしはいつか綾音のことをとるに足らない『ただの思い出』として記憶の箱にしまい、思い出さなくなっていくんだろうか。
ダイニングに放置していたスマホが突然鳴動した。
学校のクラスLINEで回ってきた、綾音の訃報とお葬式の告知についてだった。