白い女の夢
ハッと我に帰ると、また赤いカーテンの部屋だった。
あの夢以降、時々明晰夢を見るようになった。夢の中で今は夢を見ていると自覚できている。普通の夢のように状況に流されるだけではなく拒否したり反論出来たりもする。
だからといって何でも思い通りにはなる訳ではない。例えばハリー・ポッターのように魔法が使えるようになれない。折角夢の中で意識があるんだから、そのくらい出来てもいいのに、と思う。
夢はいつも通りだ。部屋の中央には丸いダイニングテーブルがあり、椅子は2脚、テーブルの上には白い液体が入ったタンブラーが1個。テーブルの向かい側には『客』が座っている。毎回座っているのは別人だから、そう呼んでいる。
今回の客は中年の女性だ。もしかしたら疲れた顔が老けてみせているだけで実は30代なのかもしれない。地味な白のカットソーとベージュのガウチョのような長いスカートを履いている。髪は後ろで一本に結んでいるが何度も頭を掻いたのか後れ毛が飛び出したりボサついている。
この夢のルールのひとつ『テーブルの飲み物を飲み干す』という仮面の男の話には前提条件があった。あの男が意図的に隠したのかは知らないが何度思い出しても腹が立つ。
飲み干すには、部屋の客の話を聞かなければならなかった。
ある日私は抜け道を思いついて、客を無視して飲み物を一気に飲み干した。生ぬるくわずかに苦味のあるトロリとした正体の分からない液体を飲み干して、私は勝利を確信した。客に向かって大声で怒鳴った。あんたたちには付き合ってられないと。こんな夢もう沢山だと。
ひとしきり怒鳴ると、テーブルの上を見て目を疑った。空のはずのタンブラーには、いつの間にか並々と液体が注がれていた。
夢なのに、ここにはハッキリとしたルールがある。どうやら、客と話をしてから飲むと液体の量は元には戻らないようだ。私は客の話を聞いて、ちびちびと飲み物を飲んでいくのが一番確実にこの夢から覚める方法だと気づいて以来そうしている。
「別にあの子が嫌いだった訳じゃない」
白い服の女は話し始めた。
今日の客は話したがりのようだ。助かった、と私は思った。勝手にベラベラ話しているのを聞いて、適当に話し相手になってやれば今回は簡単に終われそうだ。
「あの子のことは愛してた。可愛がってたのよ」
信じて欲しい、と女は言った。私は鸚鵡返しのように、何故信じてもらえなかったのか、と問う。
女はうつむいて背中を丸く強張らせた。その問いには答えたくないようだ。私は椅子に座り女に向き直った。液体を一口飲んで女が話し出すのを待った。
「あの子はまだ5歳だった。二重の大きな目がとても可愛い子だった。花柄のワンピースが好きで、そればかり何着も持っていた。
あの子の笑顔は誰よりも愛らしかった。あの子の笑顔に私はゾッとした。世の中には怖いこと、嫌なことが沢山ある。この子は何も知らない。」
「自立心が旺盛で何でもやりたがった。私が台所に立てばあの子も立ちたがった。泡立て器を持ちたがった。包丁を持ちたがった。ガス火をつけたがった。私は危ない事をさせたくなかった。止めてもあの子はやりたがったから私は怒った。怒鳴った。勝手に火を付けた時、私は初めてあの子を叩いた」
「そのうちフォークを持ったまま振り回したり、陶器の皿を落としたり、危ないことをした時に私はあの子を叩く事にしたのよ」
話に不穏な流れを感じて密かに眉をひそめた。
「あの子はお菓子が貰えなかったりテレビを消されたりすると、私を殴るようになった。信じられない。親を叩くなんてあり得ないでしょう?外でお友だちを叩いたりなんかしたら大変でしょう。そういう時はお尻を叩くの。泣いても喚いてもお尻が真っ赤になっても叩くの。気に入らない事があると暴力に出る子にだけには、なって欲しくなかったから」
「どんどん出来る事が増えていって、叱らなきゃいけない事がどんどん増えていった。あの子を叩く回数は増えていった。だって仕方ないわ。子供だもの。何が悪いことで何がしていけないことか分からないものね。私が教えてあげないと」
「お菓子を隠した時、歯を磨きたくないと愚図った時、親の顔色を伺った時、お皿洗いで汚れが残ってた時。叩きすぎで私の手はとてもヒリヒリしたから、日に何度も叩く時は仕方なく、スリッパか竹定規でするように...」
「ちょっと待って。それが本当に子供のためだと思ってるの?」
黙って聞いているのが耐えられなかった。
「はっきり言って、それは虐待って言うの。わかってないの?」
女は生気のない顔を上げ、ボンヤリした表情で私を見た。
「虐待...?そんなのと一緒にしないで頂戴」
「は?」
「私はあの子のためと思ってしているの。良くなって欲しいからしているの。傷つけたくてやってる事じゃないわ。泣かせたくてやってる事じゃないわ」
「夫と義母さんもそう言った。あの子の様子がオカシイって騒ぎ初めて、私の躾に気づいてやり過ぎだと言ったの。あの子が悪い事をしたからなのに、あの子が良い子になるように私は努力してるのに。2人には止めるように言われたけど、躾を止める訳にはいかないでしょう?
今までよりもっと上手く隠れて躾するようになった。あの子にはお前がいけない子だから叩いている、これはお仕置きだから叩かれて当然だ、他の人に言ったらみんなにお前が悪い子だとバレてしまうよ、って言い聞かせたわ」
「言い聞かせたのに、それなのにあの子は夫に言いつけたのよ。信じられない。私を追い出した。一番あの子を愛してた私を」
女の言い分を聞いている内、自然と眉間の皺は寄っていき、知らず知らず奥歯をギリリと噛み締めている自分に気づいた。
言葉を飲み込み残りわずかになっていた飲み物を飲み干すと、タンブラーを持ったまま立ち上がった。
「違う、あなたは子供を愛してたんじゃない!」
言い切ると同時に空になったタンブラーを女に投げつけた。
音も立てずタンブラーは女のこめかみに当り床に落ちた。赤黒い絨毯の上に落ちたタンブラーは、割れずに部屋の端に転がっていく。傷み故か、女は顔を両手で覆うと体を縮ませた。
「あんたは子供をコントロールしたかっただけ。子供との楽しい部分だけを愛していただけ。あんたは子供を愛してない。あんたは子供のことなんか考えてない、自分の事だけしか考えてない!」
思い付くまま大声を張り上げる私を、女は驚きに目を見開き固まって聞いていた。
反論されないだろうとでも思っていなかったのか?そう考えるとますます頭に血がのぼる。
「危ない事をしたから、暴力に出たから、悪い事をしたから、気に入らないから。その度に叩く事で躾られると思ってるのはあんただけ。子供からみたら、叩かれる理由がわからないから、訳もなく殴られてると思うのよっ」
言いたい事を明文化すると怒りは増し、口から言葉に出して呆けた相手の反応に腸が煮えくり返るのを自覚した。
頭の中では『女が子供にした虐待を100倍にして与えてやろうか』、いや『与えたい』と望む自分がいた。しかしそれではこの女と同じになってしまう、それだけが残酷な欲求を押し止める拠り所だった。
「あんたは親じゃない。大人ですらない、ガキよ!」
テーブルの上に置いた右手を振り上げると、怒気の赴くままに叩き下ろした。テーブルが揺れ、想像していたよりも大きな音が部屋に響く。
水を打ったようにシンとした空気に、私は感情が静まっていくのを感じた。もう出よう。全て飲みきったのだから、もう女の話を聞く義理はない。
「違う」
踏み出した足は女の言葉を受けて1度止まったが、再びドアに向かって進みだした。
「私はあの子を愛してた。世界で一番、愛してた」
虚ろな女の独り言に明確な殺意を覚えながら、私は後ろ手でドアを閉めた。