眠る場所 (ヒュー視点・第三章 第七話)
「陛下。どうか少し休んでください。このままではお体を壊してしまいかねません」
旅から戻って早々侍医が歳を理由に城を下がり、俺とほぼ歳の変わらない若医師が汗を拭きながら執務室の扉近くで声をかけてきた。
「俺が今休めばこれらは誰が片付けるのだ。休んでこの倍以上を突きつけられるより今少しでも減らしておきたい」
「しかし……」
「大丈夫だ。死にはせぬ」
以前の侍医であれば子どもの頃から知っているよしみもありこの後も色々と口を出すのだろうが、まだこの医師にはそれだけの技量や度胸がない。
手を振って邪魔だと言うと医師は礼をして部屋を出ていった。
また目の前の書類に目を落とす。
嫌でも目につく一番上の紙切れはバザーン王国の件だ。
早急に署名がほしいと復帰した宰相と副宰相が泣きついてきた。
あと一月足らずで例の王女がやってくるのだ。いくら敗戦国とはいえ、王女がやってくるのだから一つでも誤りがあってはならないとあいつらは慌てふためいていた。
ほとんど機能していない後宮についてもグチグチと文句を最後に付け加えるのを忘れずに部屋をやっと出て行ったのは数時間も前のこと。
アンバー第二王女。
王女しかいなかった亡きバザーン国王で後継者として幼き頃から統治者となるべく鍛えられた女。
戦では顔を合わせることはなかったが、透き通る黄褐色の短く切り揃えられた髪を振りかざし、踊るように剣を振るう舞姫のようだと部下は言っていた。
ずっと目を背けていたその一番上の紙切れに乱暴に署名をし、侍女を呼んでそれを押し付けた。
女が扉の奥に消えてから俺は椅子の背もたれに体重をかけ、伸びをした。
――――たしかに疲れてはいるな。
疲れているのに、眠れない日が続いているから疲れが取れない。それでなのか一日中イライラとして落ち着かない。
体を使うよりも頭を使っているから眠れないのかと思い、昨日は軍将達と剣を交えたが、一向に眠気はやってこないまま夜明けを迎えた。
水差しから直接口をつけて飲み、肩を何回か回してまた目の前の紙切れに目を落とす。
それは処理を待っている他の案件よりも小さめの紙で、少し青味がかった色をしていた。
侍女頭のレネーからの報告書だ。
そこには彼女の性格を表すように丁寧で流れる文字が書き連ねてある。
昨日と代わり映えのない内容だった。
『ここへ行き、あそこへ行き、何これをして、楽しそうでした』
じっとしているのが性に合わないのか出入りが可能なすべての場所へ毎日ちょこまかと出かけているようだ。館の者ともすぐに打ち解けている様子が目に浮かぶ。
そう。旅の途中、同じように恐れることなく近衛隊に話しかけていたように。
一点昨日の報告と違ったのはレネー自身がイメルダ語を指導したく、そのための書籍を屋敷に運びたいとして締めくくられていた。
俺は白紙の紙を取り出し、すぐにでも書庫管理に彼女の訪れを知らせる旨をしたため、今度は近衛を呼んだ。
イヴァンとゴウの両方が入ってきた。イヴァンが昼間の担当で、ゴウはたまたま居合わせたといったところか。
イヴァンは代わり映えしないが、問題なのはゴウだった。元々細長のこいつの顔からさらに頰がこけ、なんとも生気のない顔をしている。
いや――自分の顔もそうとう酷いだろうから人の事など言えないか。
ゴウが取りに来たと思われる軍関係の書類の束を彼の目の前に置いた。
「残りをざっと見て、サマラヤとバザーンの後処理に関する物を先に済ませた」
「ありがとうございます」
一枚一枚めくり、すべてに俺の署名が入っていることを確認するとゴウはほっと息をついた。
こいつは長旅の後のくせに俺に付き合って仕事を黙々とやっているのだろう。
真面目で頼れる臣下だが、どうにも真面目すぎる。どうせ俺が仕事をしているから私も、とか言って家にも帰っていないのだろう。
「ゴウ。お前は今日はもう家に帰れ。その束はイヴァンでも処理できるだろうが」
「はっ……いや、しかし」
「その萎れた顔に生気が戻るまで城には来るな」
「はっ……はぁ……あの、それはどういった意味で……」
「とにかく家に帰って休めと言っているんだ!」
ゴウは手にした書類の束と俺の目を見比べ、またも「いや、しかしこれがまだ」と粘る。
全く。この男は。
「それが終わったから俺も少し休むことにする。だからお前の仕事はない。休める時に休め」
ここまで言って分からないのなら近衛を首にしてやる。
そんな冗談を考えた矢先、ゴウはおずおずと束をイヴァンの胸に押し付けて、俺に礼を言い、部屋を後にした。
ゴウに続いて出ていこうとしたイヴァンを呼び止め、先ほど書いたレネー宛の手紙を投げ渡す。
色が他のものと違うので彼はすぐに気がついた。
「昨日は勝手に厨房に入ってシャールに怒られていたと妹が言っておりました」
「腹がすいて盗み食いでもしたか」
「いいえ。いつも作ってもらって悪いからお返しに自分が作りますと言われたそうです。しかしながら厨房にあった食材には目新しいものがたくさんあって、どうにもこうにもならなかったようです」
「村では貧相な食事をしていただろうからな」
「はい。それでシャールに怒られた後もしつこくつきまとった挙句、あれこれ食材について質問を繰り返しているようです」
「あいつは潔癖な所があるからな。あんなじゃじゃ馬が相手じゃ嫌な顔をしているのだろう」
イヴァンは俺の返事に笑いを漏らして頷く。
「それでも徐々に屋敷の人間とは打ち解けているようです。特に妹なんかは彼女に質問された時に上手く答えられるよう前もって食材の復習をするようになったと言っていました」
「はっ――――とんだ好奇心の塊だな」
「はい」
あそこに配置している人間は誰一人取っても身分には申し分のない人間ばかりだった。
特に古の言葉に精通している人間、もしくは習得を可能とした人間は数少なく、揃えるのには骨が折れた。
城に勤める人間ならばサマラヤ、バザーン、エシュト語を使いこなせるが、それでも古の言葉となると途端に難しく、ゴウがいなかったら少女と意思疎通を図るのは難しかっただろう。
それにしても……不思議な言葉だ。
そう思った時、ふと俺の頭に一つの言葉が蘇ってきた。
『ずるい』
果たして自分は誰かに言われたことがあっただろうか。
こうも面と向かって言われたのが新鮮だと思ったと同時に、どす黒い苛立ちが募った。
嫌な響きだ。意味も決して良いものでは無く、欲の塊のような言葉でしかない。
少女が言った瞬間、古の清い言語でも己のイメルダ語と同様、人の感情を逆なでする響きがあるのだと悟る。
こめかみがピリピリと痛み出す。
紛らわせるために立ち上がり、窓の外に立った。
あっちの林の方角には…………少女がいる。
そういえば……顔を見なくなって、いや、口を利かなくなって一月近くが立つのか。
『まだ今、この時は私、生きてる。生かされてる。だったら明日もそうなるように祈って前を向くしかない。私にはそれしか出来ない』
レネーの初めての報告書にあった少女の言葉。少女はレネーに『気に入った』とまで言わせたようだ。
生きてる。
生かされている、か。
どの顔を持って生かされているのか、その顔を見に今夜辺り出かけてみるのもいいかもしれん……
そのためには残った書類を夜までに仕上げなければ。
――――――――――
午後の休憩を一回も取ることなく机の紙切れをすべて片付けた時、陽はとっくに落ちて暗かった。
夕食を食べる気分にもなく、木杯にかすかに残っていた酒を飲み干すと俺は立ち上がった。
「今晩は後宮へ?」
まさか、と俺はケイの質問に鼻で笑う。
そして馬を用意させろと命令した所でケイはすぐに俺の意図を理解したようだった。
少し駆ければすぐに見えてくるこじんまりとした林の館――
ここにはいい思い出も悪い思い出もたくさん詰まっていた。
あの少女を連れて国に戻ると決めた時、後宮に入れるという考えはなく、とっさに頭に浮かんだのはこの館だった。
なぜかあの目を誰にも触れさせたくない。おぞましい城から離れて置きたい、という気にさせられた。
これは欲望か? 男としての?…………まさか!
あんな少女に誰がその気にさせられるというのか。
年だけは成人とはいえ、体つきは十ほどの子どもにしか見えない。
今日はただ様子を見るだけなのだから。ただそれだけだ。
そう己に言い聞かせるようにして納得した時、馬はすでに足を止めていた。
「ようこそ、陛下。お待ちしておりました」
屋敷管理のバークリーに迎え入れられ入り口をくぐると、香の仄かな匂いに気がついた。
少し酸っぱく、それでいて甘く。南のベーレ・マールで取れる果実が目の前にあるようで、嫌な匂いではなかった。
「夕食はもうお済みで」
「いや。だが何もいらぬ」
「では……何か温かいお飲み物でもご用意しましょう」
夜風を切って馬を駆けてきたのだから体が冷えているだろうとのバークリーの配慮だったが、彼の申し出に反して俺の体は燃えるように熱かった。
ああ。
ここには二度と来ることはない、と思っていたが……
なんだ。このふわふわと水の中を漂うような感覚は。この香のせいか……?
毒性のあるものではないのは確かだが……なんとも甘くて纏わりつく。
ああ。それにしても――
辺りを見回し、どこも変わっていないことを認める。
昔のままだ。
あの時と何も変わっていない――――
「ヒュー……陛下」
その時。
突然耳に飛び込んできた小さな小さな声。
遅れて視界に入ってきたのは階段を降りてくるあの村の娘だった。
旅の途中では黒ずんだ村の服を着て、うねる黒い髪が四方八方に跳ねていたのに。
みすぼらしく田舎者の村娘にしか見えなかった少女は……今では眼を見張るほど違って見えた。
大きな黒の目が驚いたように見開かれる。
この女は……誰だ。
「上着を」
バークリーが差し出した手に脱いだ上着を押し付けるようにして預ける。
階段の途中で立ち止まっている少女に釘付けになっている自分がいた。
ゆったりとした室内着を着ていても体の線はまだ細いのがよく分かる。
でも以前よりも頰がふっくらしているのはここの食事が合っているということだろう。
ここでの生活がもう少し経てば、歳相応に成長するのかもしれない。
黒髪は以前と同じように波打ち、豊かで艷やかで。
それに――――彼女の目が。記憶の海の底に沈めた女と重なる。
――――まさか。あるはずがない。
馬鹿げた思考を消し去るように俺は階段を駆け上がった。
「お前の部屋はどこだ。案内しろ」
「え……?」
「お前の部屋だ」
「いっ! 痛い!」
「どこだ」
「……廊下の一番奥の右です」
一番奥の、右?
少女の手を引き、目的地に辿り着いた俺は、扉を開けて愕然とした。
そこは俺が以前使っていた部屋だったのだ。特に使用禁止と命令していたわけではない。ましてや自由に使えと言ったのは他ならぬ己自身。
しかしながら……ここ以上に良い部屋があるのにも関わらずここがこいつの部屋となっているのがなんとも不思議に思えた。
広くもなく、狭くもなく、こじんまりと必要最低限の物が揃っている部屋。
あの窓から見た何度も見た夜明けの赤橙の星。
記憶の扉が大きな音を立てて開かれ、次々にあの頃の思いが胸を占めてゆく。
「あの……」
声の方へぼんやりと視線を向けた。
少女の肩がびくりと飛び跳ね、「やっぱり……いいです」と呟いた。
さっきの姿はどこへやら。
やはり目の前のこいつはみすぼらしい小さな村の娘にしか見えなくなっていた。
全く、どうにかしている。
疲れている。そうに違いない。
もう一度ぐるりと部屋を見回し、寝台へ足を向けた。
思えば、これと同じ事が旅の途中であった。
監視の目的で部屋に入れたこいつは部屋の隅から一歩も動こうとはせず、栗鼠のように丸くなって俺が眠る前にスゥーと寝息を立てたのだ。
しかし、今晩に限っては俺の方が早く眠れるかもしれぬ――――少女に分からぬように自嘲し、寝床へ入る。
「あの……? 何をしてるんですか」
どことなく部屋の隅々から香が俺の体を包むように感じられた。
一気に睡魔が俺の手を引くのが分かった。
「寝る。灯りを消せ」
そう言うと少女が慌てて部屋中の灯りを消しに歩きまわる足音が聞こえてきた。それがトトンと子守唄のように俺を引き込んだ。
――ああ、そうか。初めからこうすれば良かったのか……
すっかり忘れていた。
長い旅の帰り、行きと違ってよく眠れたのはこいつが同じ寝室にいた夜だったことを。
――なんとおかしなことか……
甘い香が誘う――――
この後、俺は明朝まで一度も目覚めなかった。