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第六話:ぼくの心が折れなかった理由

前回の後書きからの続きですが、回答は『②』になります。

正解者の人はおめでとう。

間違っちゃった人は物語にてご確認ください。


自己否定が行き過ぎているはずの少年の心が、折れなかった理由を。

 ひとつだけあったから、ここまで生きられた。





 剛力武。ごうりきたけると読む。太い男である。

 柔道部所属。昨年は全国大会個人戦三回戦敗退で、今年こそはと意気込んでいる。全身が鋼のような筋肉に覆われている。足も腕も首も太い。身長は百九十センチ。もみあげが太く眉も太い。一般的に言われる格好良さとは無縁の巨漢にして巨躯の男である。

 有体に言えば『ごつい』をそのまま体現したような男である。

「なぁ……空野。これは一体どういうことなんだ?」

「会長命令だ。しゃーねぇよ」

 本日、柔道部は休部を言い渡された。生徒会によって柔道場は召し上げられた。

 唯一……武だけが生徒会に招集され、こうして訳の分からず座らされている。

「意味が分からん。なぜ俺だけがこうやって招集されたんだ?」

「会長の男に彼女ができそうだから、会長がブチ切れて男を〆ろと命令を受けた。男が情けない所を見せれば、その彼女とやらも呆れて諦めるだろうとのことだ」

「会長殿に彼氏がいるのかっ!?」

「いない」

「…………は?」

「事情は詳しく聞いてくれるな。俺もよー分からん。傍から聞いたら痴話喧嘩のようにも聞こえたが、他人が踏み込んじゃならん領域だ。坪倉はそいつに覚悟を持って踏み込んでこうやって巻き込まれた……大した女だよ……ったく」

「……帰っていいか?」

「もう遅い」

 博が言うと同時に、柔道場の扉が開いた。

 姿を見せたのは、見た目ひ弱そうな男。博と武にとっては、クラスメイトでもあるし友達とも言える間柄の……見た目通りの、貧弱な男だった。


 植草五郎が、スポーツバッグを片手に、柔道場を訪れていた。


 五郎の姿を見て、博は立ち上がる。

「んじゃ、武。後は手はず通りに頼む。成否に関わらず来年の柔道部の部費はちょっくら色を付けてやるから……頼んだぜ?」

「ちょ……待て! 空野!」

「ああ、それから手は抜くなよ? ……死ぬぜ?」

 言いたいことだけ言い放って、博は五郎が入って来たドアとは別の扉から、さっさと柔道場を出て行ってしまった。

 柔道場に残されたのは、事情も飲み込めない武と、五郎だけだった。

 先に口を開いたのは、五郎の方だった。

「剛力君。なんでぼくはここに呼び出されたのかな?」

「いや……詳しくは知らんし、訳が分からん。空野の奴はここでお前を叩き伏せろとか訳の分からないことを言っていたが……冗談だよな?」

「冗談なわけないじゃん」

「…………え」

 不意に、背筋に寒気が走る。

 柔道場で先輩に立ち向かう時とは違う。全国大会で立ち合った猛者たちとも違う。

 ただただ、真っ直ぐに、純粋に、否応なしに認識させられる『其れ』の名を、武は知っている。認識はしたくないが……確かに、知っていた。

「ぼくは、柔道場に来ないと坪倉さんが酷い目に遭う。やめて欲しかったら柔道場にいる誰かを叩きのめせと聞いたからここに来た」

「お、俺がそんなことをするはずないだろうっ!?」

「知ってる。でも、ここに坪倉さんはいない。……だったら、剛力君から無理矢理聞き出すしかないでしょ? 指示書なり封筒なり、預かっているはずだ」

「……た、確かに預かっているがっ……」

 会長命令とは別に、部長から預かっている封筒が、確かにある。

 なにもせずに、立ち合いもせずに相手に渡すようなことがあれば、即座に退部させると冗談交じりに言い含められ、渡された封筒が、ある。

 五郎は、目を細めて手を差し出した。

「立ち合う気がないなら、封筒をさっさと渡してくれない? 邪魔だし」

「訳が分からん。なぜ俺がお前と試合をしなきゃいけないんだ?」

「…………ハ」

 そこで、武は見てはいけないものを見た気がした。

 植草五郎は気の良い奴だった。いつも曖昧に笑ってはいて、勉強も運動もからっきしで武とは正反対の男だと思っていたが……今は、違った。

 冷たい目で武を見据えて、嘲笑うように、口元を歪めていた。

「普段練習ばっかりしてるくせに、本番になると尻込み? 随分呑気だね」

「なっ……!?」

「用具室借りるね。いざって時のために持ち歩いてて正解だったかな……」

 吐き捨てるように言い放ち、五郎は用具室に入った。

 三分後……用具室の扉が開いて、五郎は姿を見せた。

 胴着と袴を身に付けていて、その立ち振る舞いは堂に入っていた。

 素足のまま柔道場に上がって、武の正面に立った。

「ルールは……目突きとか人生に影響のある技は禁止でいいかな? 柔道に目を突く技はなかったような気がするけど、当て身はあるんだっけ?」

「植草、お前一体なにを……」

「強奪」

 三歩ぶんの間合いを放して、五郎は真っ直ぐに武を見つめた。

 真っ直ぐに、敵意と殺意を持って、武を見据えた。

「今から剛力君をぶっ飛ばして、封筒を無理矢理奪おうと思う」

「……本気なのか?」

「本気に決まってるじゃん……ああ、それと『弱者』を見るような目は、いい加減やめてもらえるかな? 対手の力量も分からない程、未熟者なのかな?」

「っ!?」

 その言葉は、武の闘志を湧き上がらせるのに十分過ぎた。

 はっきりと……今、五郎は武がやっている柔道を侮辱したのだ。

 武は真っ直ぐに五郎を見据えた。そこには、いつも気安い笑顔を浮かべて、控え目に三歩下がって和を大事にする友人はどこにもいない。

「後悔するなよ、植草!」

「後悔はしてるよ。いつでも、どこでも……ここでも!」

 身長差は三十センチほど。体重差は絶望的。武という分野においては体重差は絶対である。力が違う。重さが違う。威力が違う。

 体重差による階級という制度があるのは、そもそも『高くて重い』のが強いからだ。

 それを分かっていながら、武は五郎と組み合った。案の定軽い。柔道部に五郎のような矮躯の少年はいないし、授業で行った模擬戦でも実際に弱かった。

 腰を落とし、五郎を投げようとした、その時。

「え?」

 いつの間にか、宙を舞っていた。コントで転ぶ芸人がごとく、古典芸能でバナナを踏んで転ぶモブキャラのごとく、武はバランスを盛大に崩して足を滑らせた。

 それでも、どんな状況でも修練は裏切らない。武は受け身を取った。

 すぐに起き上がる。五郎は組み合った位置から微動だにしていなかった。

「倉敷流暴行術、(すか)し体」

「植草、お前……今、なにをした? 合気道……か?」

「合気道じゃない。そもそも武道じゃない。(わざ)だ。人生の最終手段……実力行使。ぼくにこれを教えてくれたばーちゃんは、これを『倉敷流暴行術」と呼んでいた」

「っ!?」

 柔道に始まり、どんな武術においても、名乗りとは理想を繁栄するものだ。

 柔道の道とは道である。人を倒す『術』ではなく人が歩むための『道』であり、己が歩むための道を作るために肉体を修練し、精神を鍛え上げるのだ。

 五郎はきっぱりと『暴行術』と言い放った。

 人に暴力を行使するために編み出された術。それを、五郎は遠慮なく使っている。

「勘違いするなよ、剛力君。勘違いしたのは君だ。勝手にぼくを無力だと勘違いして、実力を計り違えた君が悪い。腕力がない? 体力がない? 背丈が足りない? 体重がない? そんなモノは『弱い』理由にはならない……どんな人間だろうが、全力で急所を踏まれれば死ぬんだよ」

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!!」

 武は咆哮した。叫んで、五郎に掴みかかった。

 そんなはずはない。今だって掴んだ感触は軽い。投げ飛ばすのは容易で、圧倒的に自分の方が勝っている。

 こんな『ひょろい男』に、柔道を頑張って来た自分が負けるはずが……。

「げぐっ」

 奇妙な音が鳴った。武自身の喉から漏れ出た……悲鳴だった。

 五郎の膝が武の股間に突き刺さっている。あからさまな急所攻撃。柔道にはありえない反則……いや、そもそも最初から気づくべきだったことに気づけなかった過失。

 五郎は最初から、柔道をするつもりなどない。

 激痛にうずくまる。立ち上がることなどできない。

 金的はいつの世もどこででも絶大だ。抵抗などできようはずもない。

 武が痛みと戦っている間に、首になにかが巻き付いた。いつの間に外したのか、武が着ていた柔道着から帯を取り、五郎はその帯を武の首に巻き付けていた。

「降参しないと殺す」

「っ……うぐっ……がっ……」

「こうでもしないとぼくは剛力君に勝てない。力と体重差は絶対で物理法則には逆らえない。柔道じゃ絶対に勝てないだろう。……でもね、ぼくも必死なんだ。必ず死ぬと書いて必死だ。暴力を行使するくらい必死だ。ぼくのためになにかをしてくれた女の子が危機に瀕しているとか……男として、そんなもん、耐えられるわけねぇだろうがッ!!」

「っ!?」

 感じた怖気は本物だった。背筋の震えに嘘はなかった。

 其れの名を『恐怖』と人は呼ぶ。

 闘志なら耐えられる。敵意も我慢できる。殺意だって受け止めてきた。柔道はそんなに甘いものではない。誰も彼もが必死で相手を倒そうと、殺すつもりでやってきた。

 しかし『今ここで、この場で殺される』などと、思ったことはなかった。

 鍛え上げてきた強靭が、鍛錬してきた精神が、頼りにしてきた肉体が、それら全てを誇りに思っていた心が……盛大に音を立てて、折れた。

 武は懐を探って、部長から託された封筒を、五郎に手渡した。

「俺の負けだ……だから、これ以上はやめてくれ」

「…………」

 五郎は封筒を受け取り、中身を見て、溜息を吐いて武の首から帯を解いた。

 帯を解いても立ち上がろうとしない武を一瞥して、背を向ける。

「ごめんね。……でも、ぼくは引けない」

 本当は嫉妬していた。

 それでも、敵意を剥き出しにする前に、曖昧な笑顔で誤魔化してきた。

 自分が欲しいものを持っている武に嫉妬した。体力とスタミナと身長があって……誰かと戦うことができる武に嫉妬して、嫉妬を、心の赴くままに圧し潰した。

 友達だと、思っていたから、圧殺した。

 それでも、今は友達が相手でも……引けなかった。

「……一人目」

 敵意で友情を打ち捨てて、五郎は歩き出した。



 桜庭文枝は、板間の弓道場に胴着と袴姿で座っていた。

 文枝は植草五郎のことを嫌っている。嫌っているから、彼がボコボコになればいいと思うし、お気に入りの後輩の五十鈴と知り合いなのも気に食わなかった。

 理由は簡単だ。彼はとことん逆らう。なにがなんでも逆らう。逆立てる。

 文枝は自分が潔癖であることを自覚している。確かに行き過ぎた部分があると思ってはいるが、それは正しさに裏付けられたものだと、信じている。

 正しさが行き過ぎれば、友達が止めてくれるとも思っている。

『綺麗でいいね。でもさ、そーゆーのって卑怯じゃない?』

『お綺麗でいいですね。そーゆーの。安全地帯から正論吐いて満足ですか?』

 姉弟から問われた疑問は、今なお文枝の心の中にわだかまりとして残り続けている。

 安全地帯にいたことなど一度もないと思っている。生徒会選挙に敗れはしたが、美恵子と一緒に仕事をすることで、矢面に立っていると自負している。

(まぁ……この際、拘りは捨てましょう。気に入らない男を一人ぶちのめせるチャンスなのだから、今更目くじらを立てる必要もない)

 もっとも……五郎の最初の相手は、柔道部でも屈指の凄腕、剛力武だ。

 美恵子がなにを思ってそんな配置にしたのかは知らないが、勝てるわけがない。

 弓道場の扉が開く。自分の役目もこれで終わりだと、内心では人を殴らずに済んだことに安堵して、出て来た人物を見て仰天した。

「やっぱり……生徒会との総力戦なんて、ぼくは聞いてませんよ……ったく」

 弓道場にやって来たのは、植草五郎だった。

 文枝は口元を緩めて、五郎を睨みつけた。

「剛力君といえど……友達にはお優しいみたいね? 確かに無茶な招集でしたが、敵を無傷のまま通すとは、武道家の風上にもおけない」

「人に道を譲ることを是とできないあなたこそ、ぼくは武道家失格だと思います」

 そんな細かいことを指摘しながら、五郎は構えを取った。

 拳は握らず、右半身を前に差し出し、半身の構えを取って、真っ直ぐに文枝を見た。

「そして……剛力君は優しいけど、侮辱されて黙っていられるほど、弱くはない」

「じゃあ、どんな手段を使って通ったのかしら?」

「見ての通り、実力行使です」

「ふざけないで。あなたのような男が柔道部屈指の男を倒せるわけないでしょう?」

「その答えは、文化祭の時に言ったと思いますけどね」

 その言葉を聞いて、文枝は奥歯を噛み締める。

 屈辱的な言葉だった。胸を掻きむしり泣いた程悔しかった。苦しいと思った。

 女装喫茶は許可できないと言い放った文枝に、五郎はこんなことを言い放った。

『自分が理解できないものは許容できない。自分が理解できないものはつまらない。それでいいと思いますよ? そんな副会長を……ぼくは、心底つまらない人だと思います』

 その時点で、五郎は文枝の敵になった。嫌いになった。心底嫌った。

 いちゃもんだと思おうとしても無駄だった。いつまでも心に突き刺さっていた。突き刺さって今も抜けなくて、今も苦しい。

 五郎は顔を紅潮させた文枝に向かって、きっぱりと言い放つ。

「ぼくは、剛力君に勝ったし……桜庭先輩にも、勝てます」

「ふざけるなぁ!」

 怒号と共に、文枝は間を詰めて五郎の腕を取り、逆関節を極めて投げた。

 合気道は護身術として一般的には知られているが……確かに護身の部分はあるが、その実は関節を極めながらの投げなど、危険な技を多数搭載している。

 少なくとも素人相手に逆関節を極めながらの投げなど、行ってはならない。

「っ!?」

 が、不意に腕に走った激痛に、文枝の注意が逸れる。

 その一瞬で腕を引き抜き、受け身を取って転がり、五郎は立った。

「いざ尋常に? 良い言葉ですよね……不意打ちにはちょうどいい」

「っ……なるほど……こうやって、汚い手段で剛力くんを敗退させたってこと?」

 文枝の腕には錆びた小さな釘が突き刺さっていた。どこかで拾ったのだろう。

 釘を引き抜く文枝を見つめて、五郎は口元を歪めた。

「釘を不意打ちで刺されるのは汚くて、武道で武装するのは汚くないんですよね? つくづく……自分だけはお綺麗でいたいと思っているんですよね、先輩は。そういう所、本当に虫唾が走るくらい嫌いです」

「なにをっ……!」

「そもそも」

 パァン! という音が鳴り響くと同時に、文枝の頭が真っ白になる。

 カウンターのように、文枝が一歩踏み出したのに合わせて、平手で顔を張り飛ばされた。かなり強くどころではなく……鼻血が出る威力で、手首の捻りと、遠心力と、全身の筋肉の運動をを手の平に集中させた、掌底だった。

 張り飛ばされたのは頬ではなく、顔の中心。

 人体急所が集中している顔面の中心を、思い切り張り飛ばされたのだ。

「どこかで手加減してもらえると思ってる……その甘っちょろい根性が気に入らない」

 文枝の頭が激痛で真っ白になった刹那の間に、五郎は技をかけた。

 先ほどの文枝と同じ、逆関節をかけての投げである。

「ッ……ぐァっ!?」

 腕の筋が伸び切った感覚と激痛。受け身が取れず板間に叩きつけられる衝撃。体中と腕を走る激痛に転げ回り、それでも歯を食いしばって立ち上がろうとして……。

 目の前に足の裏が迫って来た。

 反射的に目を閉じた。顔を踏まれると思った。

 痛みはなかった。目を開ける。足は顔の真横の地面を叩いていた。

「続けます? 続けるなら次は折ります」

「……うぐっ……うぅ……っ」

「泣いたから降参でいいですね? 封筒なりなんなり、さっさと寄越してください」

 文枝は泣きながら、部屋の隅を指差した。

 五郎は泣いている文枝には頓着することなく、封筒を開けて溜息を吐く。

 封筒を懐にしまいながら、大きく息を吐いて座り込んだ。

「はぁ……疲れた。ホント……参るよね。こういうのは」

「……許さない」

「ん?」

「絶対に許さない……許すもんですか……何回も恥をかかせて! 私になんの恨みがあるのよっ!? あなた、私に……なんの恨みがあるのよ!?」

「うるせーよ。知るかよ」

 吐き捨てるように、恨みと敵意を込めて、五郎はきっぱりと言い放つ。

「お前のことなんて知るか。ぼくは坪倉さんが無事ならなんでもいいんだよ」

「………………っ」

「副会長のくせに部下をかばわないお前なんか知ったこっちゃねぇよ。お前は強くて綺麗なのがいいだけで、部下がどうなろうが知ったこっちゃないんだろ? お姉ちゃんに尻尾振って、ずっとお綺麗でいりゃいいさ。ぼくはアンタが嫌いだけどな」

 ほんの少しだけ休んで立ち上がる。

 なにか言われたからといって、追撃をかけたりはしない。トドメを刺したりもしないしなにか言いたいこともない。泣いている事実に思う所もなんにもない。

 言いたいことは言った。知ったこっちゃないし嫌いだった。

 お綺麗な風に生きて……恥をかきたくないと叫んで。

 それは、恥をかきつづけて生きている五郎にとっては、全ての否定に等しかった。

 だから……少しだけスッとして。

 誰かを自分のためだけに傷付けた罪悪感が積み重なった。それだけだ。

「二人目」

 極まる寸前だった左腕に少しだけダメージが残ったが、気にしないことにした。



 荒瀬智也と植草五郎には、接点があまりない。

 智也が武術を嗜んでいることくらいしか、分からない。

 思う所もなければ、悪意も敵意もない。……だから、空手道場で立ち合った智也に対して、五郎は一切の容赦をしなかった。

「はぁっ……はぁっ……ぐっ……くそっ」

 当たらない。どうあがいても智也の拳も蹴りも、五郎には一切当たらない。

 空振りをして、ぎりぎりで完全に見極められて、見透かされ、疲労だけが重なった。

 五郎は軽快に動いてすらいない。地面に根を下ろすようにどっしりと構え、智也の動きをじっと見ているだけだ。

「くそっ……なぜ戦わないっ!? 三十分も逃げ続けて、お前はなにがしたいっ!?」

「戦っていますよ。先輩の武の未熟をぼくのせいにしないでください」

 そう言われ、智也は奥歯を噛み締めた。

 分かってはいた。分かってはいたが認めたくはなかった。

 技術に天と地ほどの隔たりがある。目の前にいるひょろい男は……技という点においては自分など比較にならないほどの腕前を持っている。

 だが、認められない。認めたくない。

 こうして立ち合いながら……『休まれている』などとは、認められない。

「せィやあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!」

 破れかぶれで放った渾身の一撃を、五郎は半歩体を横にずらすだけで、かわした。

 そして……ここで初めて、智也は五郎の胴着の襟首を掴んだ。

(取ったっ!)

 智也は武道全般に長ける。組技も投げ技もできる。相手は体格に劣る。寝技に持ち込んでしまえば疲労困憊のこの状況でも勝機はあると踏んでいた。

 五郎は一歩引いた。智也は襟首を掴んだまま一歩踏み込む。

「ほいっ」

「え……」

 踏み込んだ足を、払われた。見事な出足払いだった。

 体がバランスを崩す。転倒は免れないと察したが襟首は放さない。寝技ならこちらが圧倒的に有利だ。そう思っていた。

 五郎は無表情のまま、転倒する智也の頭に手を添えた。

 鈍い音が響く。智也は受け身は取ったがそんなことに意味はなく……頭を畳の上に叩きつけられた智也は、脳震盪を起こして気絶した。

 そんな彼を慮ることなく、懐を探って封筒を取り出し、中身を読む。

「最後の男に勝ったら生徒会室に……か。すごろくで振り出しに戻された気分だね」

「あるいは、チルチルミチルの『青い鳥』かもな」

 いつの間にか、入口に見知った誰かが立っていた。

 生徒会長を除けば、最後の生徒会メンバーである空野博が胴着姿で、五郎を見つめながら気だるげに頭を掻いていた。

「やっぱりっつうか……洒落にならねぇな、植草」

「なんのこと?」

「武道経験者相手に三戦三勝。手傷は桜庭先輩の投げが一つだけ。どう考えても尋常じゃねぇ。荒瀬先輩で見せたあの身のこなし、寛永御前試合で黒江剛太郎の飛竜剣を破った、二階堂流の『垂れ糸の構え』じゃねぇか?」

「詳しいことは知らないよ。ぼくに人の殴り方を教えてくれた先生は、オマージュが大好きだったからね。人をおちょくれるならどんな流派でもパクったし」

「武術なんて、パクろうと思ってパクれるようなもんでもないだろ……」

 口元を引きつらせながら、博は五郎に向かって歩み寄っていく。

 五郎は溜息を吐いた。

「やっぱり……空野君はおかしいよね。頭イってると思う」

「本音出すと結構毒舌だよな、植草は。神代や古賀には滅法甘いくせに……」

「いや、だって、現代で空手家とかマジで頭イってるじゃん」

 見る人間が見れば、分かる。

 面持ち。太い指。歩き方。重心。雰囲気。間合い。筋肉の付き方……あるいは、空野博と呼ばれる人物の全てが、男子高校生に似合わぬなにかを示していた。

 ちらりと五郎を見て、博は口元を緩めた。

「目的地は分かったんだろ? なんなら逃げてもいいんだぜ?」

「背中を向けた途端に、後ろから殴られるのはちょっとね……」

「敵意のないダチ相手にそんなことするかよ……それとも、坪倉に惚れてんのか?」

「……んー……どうかな?」

「はっきりしねェな。会長と坪倉と植草の間になにがあったのかは知らんけど、間違いなくお前を巡っての口論だったぜ? 坪倉は生徒会辞めるとか言うし」

「………………」

 五郎は少しだけ眉をしかめて、首を捻った。

 いつものようなぼんやりとした表情を浮かべながら、口を開く。

「……ごめん。マジで心当たりがない。なんで坪倉さんがそんなことすんの?」

「お前に勉強教えるって言ってたぞ」

「生徒会辞めなくてもできるじゃん、それ」

「うん……なんつーか……ヒューッ! 植草もってもてじゃん! 羨ましいな!」

「気の毒なモノを見る目はやめてくれない!?」

「ごほんっ……まぁ、それはともかく、剛力の時と同じく、目突きだけ禁止。制限時間は三分な。制限時間いっぱいまで植草が立っていられれば、植草の勝ちってことで。俺も忙しいからそれ以上は付き合ってやんねぇ。表向き付き合ってやるだけだ」

「空野君は優しいなぁ」

「んじゃ、開始……っうぉあっ!?」

 開始の合図と同時に、五郎は真っ直ぐに博に向かって拳を突き出した。

「おいおい、植草……話聞いてたか? 俺は『三分間逃げればいいじゃん?』って暗に言ってるんだぞ? 俺とお前が立ち合う理由なんてどこにもねぇしよ……」

「いや、殺気が隠せてないから。むしろ背後から襲撃するつもり満々だよね? なんでそんなに怒ってんのさ? 空野君こそ坪倉さん好きなんじゃないの?」

「仕事が増えるんだよ。あと、坪倉は嫌いだけど、坪倉のおっぱいは大好きだ」

「如月か」

「おっぱいが嫌いな男の子はいません!」

 馬鹿げたことを言いながらも、二人はジリジリと間合いを測っていく。

 五郎は疲労を感じていた。もう間合いを計っているだけで息が上がりつつある。そもそも五郎には三分間戦う体力などないのだ。ルール無視の実戦形式、相手が完全にこちらをナメているという前提で、今までなんとか凌いできたに過ぎない。

 博の拳が放たれる。微妙に避け損ねる。普通以上に痛い。

(……こりゃ勝てないなぁ)

 手心がなく容赦もない。拳が人を殴る仕様になっているのはもちろんのこと、指先の鍛え方が尋常ではない。一体誰と戦っているんだと聞きたくなる。

 息を吸う。息を吐く。いつも通りに諦めて、三分間逃げるべきかと思案を巡らせる。

 と、その時……不意に博は口を開いた。

「植草。もうやめちまおうぜ?」

「………………」

「さすがに四連戦は無理だって。俺の勝ちってことにして、やめちまおうぜ? 坪倉の安全は保障するし、意志もそれなりに尊重するよ。二週間は誰かに引き継ぎしてもらって、それから勉強なりなんなりに専念してもらうことになるけどさ」

「……空野君。一つ聞かせてくれない?」

「ん?」

「坪倉さんになにかした?」

「ちょっと気絶させただけだ。目は覚めたら、謝らなきゃいけないけどな」

「分かった」

 五郎は口元だけで笑って、博に向かって一歩踏み込んだ。

「っ……おいっ! 人の話を聞けっつってんだろうがっ!」

 繰り出されたジャブを、牽制の一撃をまともに受けて、五郎は博の手首を掴んだ。

「っ!? ぐっ……おおっ!?」

 博の天地が逆転する。なにをされたのかも分からないまま、体を反転させて着地。着地と同時に足に受けた衝撃に顔をしかめて、間合いを取る。

 着地と同時に五郎に足を踏まれたのだ。五郎の体重や筋力がもう少しあったなら、下手をすれば足の骨が折れていたかもしれない。

 口を開こうとして、博は息を呑んだ。

 さっきまでそこにいた、冷徹に無表情に敵を屠る武道家はどこにもいない。

 曖昧な笑顔を浮かべて、クラスメイトに優しい友人の姿もない。

 そこにいたのは……憤怒の形相を浮かべる、博の知らない誰かの姿だった。

 我知らず、博は口元を緩めていた。

「ハッ……お前でもそんな顔するんだな、植草。ちょっと気絶させただけでそこまで怒るってことは、やっぱり坪倉に惚れてんじゃねぇか」

「………………」

 なにも返答せず、五郎は博に向かって一歩踏み出した。

 鍛えられた拳がまともに五郎を打つ。痛いし苦しいが微動だにしない。激痛なら耐えられる。苦しさ程度はどうってことない。自分はどう足掻いても駄目だったが、どんなに拳を鍛えようがどうしようが、人体を一撃で破壊できる人間などいない。

 痛いだけなら耐えられる。後々の痛みを放棄するなら、耐えられる。

『最低限だけ守りなさい。決死、必死になっても、即死は駄目よ』

 人体に数多存在する急所の知識を体と頭で叩き込まれた。攻撃を食らっていい箇所、悪い箇所、そういったものを何年もかけて学んだ。

 急所に繰り出される『立ち上がれなくなる攻撃』だけを避けて、五郎は耐える。

『武道には必ず得意手が存在する。空手なら打突、柔道なら組技ね。極めればどんなモノであろうと多面的総合格闘技になるけど……武道だろうが武術だろうが全く関係なくなるけど、特徴は頭に叩き込んでおきなさい』

 そう言って、五郎の師は五郎に散々技をかけた。腕が外れたこともある。

 今思えば……あの人は単に技をかけたいだけったんじゃないだろうかと、思う。

『今から教える技の総称を倉敷流暴行術という。暴行術。人に暴力を振るう術よ。武道でも武術でもない。精神を育てるものじゃない。人を殴るための術よ。闘争に打ち勝つための術。人生のどうにもならない時、最後の手段、戦争に打ち勝つための(わざ)よ』

 体力のない自分に、徹底的に叩き込まれた技の数々。

 腕力のない自分に、徹底的に叩き込まれた戦術の数多。

 意志のない自分に、徹底的に刻み込まれた、生き抜く術。


『いざとなったら、殺せばいい。……はい、復唱なさい』


 姉に縛られ続けた人生の中で、たった一つ許された最後の許容。

 善性の排除。悪業の需要。いざとなったら……相手を殺しても良いという許容。

 抑圧だらけの中で、駄目な自分に失望し続ける中で、それでも曖昧に笑って生きられたのは『戦って倒しても良い』という、ひとつだけ許されたことがあったから。

「…………ハ」

 全身を叩かれて、全身痣だらけで、それでも最低限だけ守り、五郎は笑う。

 気に食わない。徹底的に気に食わない。強いくせにだらけてて、強いくせに有能で、生徒会所属のくせに……坪倉さんの隣にいるくせに。

 それが心底憎らしい。心底妬ましい。心の底からそう思う。

 友達だろうが関係ない。憎らしく妬ましく……そして、羨ましい。

 放たれた渾身の一撃を、ぎりぎりでかわし、五郎は博の腕を掴んだ。

 数多の打突の中、それはまごうことなき渾身で――術理に沿う『差し出された』一撃だった。


 ゴギィッ!!


 体で巻き取るように博の腕の関節を極め、腕をへし折った。

 修練に従って体が動く。折った腕を放し、五郎は中指一本拳で博の喉を突き、足を払う。バランスを崩して転倒する博の頭を抑えつけ、そのまま地面に叩き付けた。

 再度鈍い音が響く。下手すれば即死に至る技を、五郎は躊躇なく行った。

「倉敷流暴行術……腕壊薙(かいなかいな)

 ゆっくりと、五郎は体を起こす。博は起きて来なかった。

 肩で息をしながら、全身の激痛に顔をしかめながら、五郎は歩き出す。

「空野君の言う通りだね……ぼくは……坪倉さんが好きだ。でなきゃここまでむきにならない。胸とかどーでもいいけど、笑った顔が可愛い」

「……面食いなだけじゃねーか……いや、俺は可愛いとは思わんがな?」

 博は、ゴロリと身を起こす。額から血を流しながら、口元だけで笑った。

 意識はあるようだが、起き上がることはできないようだった。

「行けよ……お前の勝ちだ、植草。龍崎と戦った時より楽しかった。今までで一番だ」

「こんだけ人をサンドバックにすりゃ、そりゃ楽しいだろうさ」

「いや、そういう楽しみ方じゃねぇからなっ!? ……どっちが勝つか負けるか、よく分からん戦いってのは初めてだったんだよ……植草、お前滅茶苦茶強いんじゃん」

「ルールに縛られたら弱くなる。そんな強さには何の意味もないよ」

「………………」

「そして……ぼくは、強さを誇れたことなんて、一度もない」

 相手を打倒していい……そんな機会など、生きていてもほとんどない。

 そんな機会を心の底から渇望する誰かがいて、そんな誰かがルールを作って、危険がないように枠の中で、死なないように遊ぶようになったのだ。

 全身全霊で、命懸けで、でも……命を失うのはもったいないから、武道を作った。

 人を倒せることは、自分を支える最後の柱でもあったけど。

 今の今まで……おそらく最後まで、五郎はそのことを誇ることはできない。

 意味がないから。無意味だから。

 人を倒せても、女の子一人守れないから。

「救急車呼ぼうか?」

「んにゃ……剛力と遊んでて折れたことにするよ。元々俺が売った喧嘩だ」

「……分かった」

「五人目は強敵だぜ? 最強かも分からん。多分俺は勝てない」

「知ってる」

 倒れたままの博に背を向けて、五郎は歩き出した。

「三人目……ついでに、四人目……っと」

 先ほどの闘志は消え失せて、いつも通りにぼんやりとした表情のまま。

 体中に走る激痛を堪えながら、歩き出した。



「って、なんでお前がここにいるんだよ! 邪魔するなら本当に容赦しないぞ!」

「いや、待て! 本当に待て! とりあえず話を聞けって!」

 その日……僕こと如月与一は、わりと酷い目に遭いそうになっていた。

 なんやかんやあって雑務をこなし、最後に生徒会室で待機を命じられ、その通りに行動したらボロボロの植草に葬られそうになっている。そういう状況である。

 僕としては手伝うとお金が出るということで、バイト感覚だったが……美味しい話には裏があるとよく言ったもんで、樋口一葉さんと引き換えに命を危険に晒している。

 血走った目で、植草は僕の胸倉を掴み上げた。

「お姉ちゃんはどこ? 坪倉さんは? 答えられなかったら腕を折る」

「……か、帰っちゃった……よ?」

「帰っただぁっ!?」

「ま、待て、植草サン……マジで、僕も巻き込まれただけですし……バイト代目当てにほいほいここまで来たら、なんやかんやで色々ありまして」

「バイト? 何の仕事やったのさ? 如月に頼む用事なんてないでしょ?」

「相変わらず植草は、僕に対しては妙に風当たり強くないか?」

「毎度毎度すっげぇムカつくこと言うのが悪い」

「……あ、はい。すみません……毎回反省はしてるんですけど……すみません」

 心当たりしかないので誠心誠意謝りながら、僕は自分の仕事について説明する。

「僕がやったのは防犯システムの確認だけだよ。最近は物騒らしくてさ、なんか柔道場とかに監視カメラ設置することになったんだって……んで、そのシステムがきちんと動作してるか、マニュアルを見ながら確認して……植草は仮の暴漢役だって知らされてて……」

「あのさ、如月」

「ん?」

「セキュリティの確認を生徒に任せる学校が、どこにあるの? あるわけないでしょ? これ、確実に姉さんに一杯食わされてるよ?」

「ウチの学校の生徒会ならやりかねないかなーと思ったんだけど……空野君や剛力も一緒だったし、じゃあいいかと思って」

「身内のことになると途端に信頼度を上げるのは、すごく悪い癖だと思うよ?」

「……あ、はい。すみません。仰る通りです」

 植草はキツい。なんか、僕に対してだけ特別にキッツい。敵視されているのは分かっているんだけど、敵を敵として扱わない。その上でツッコミがやたらキツい。

 非常にやり辛い。

「で、なんかよく分からないけど、巨乳の子と会長がテスト運用だって言って、監視カメラが写しだす映像を見てて……しばらくしたら、なんか顔を赤くしたり青くしたりして、二人とも疲れたって言ってさっさと帰っちゃった……って、植草?」

「………………ッ」

 植草の顔が見る見るうちに赤く染まり、目を見開いて僕を見つめていた。

 明らかにテンパっていた。

「……あの……キサラギ=サン」

「な、なに? いきなり片言の敬語使われるとすげぇビビるんだけど……」

「その、防犯カメラだかなんだかって、映像以外に音声とか、聞けちゃう?」

「そりゃまぁ、聞けるよ」

「柔道場とかって言ってたけど……弓道場とか、空手部の道場とか……」

「そりゃ、大体の場所には設置するんじゃない? っていうか、この学校柔道部だけ優遇し過ぎなんだよな……柔道部だけ道場一つ丸々割り当てられてるしさ」

「………………」

「う、植草? 本当に大丈夫か? なんか顔色が……」

「如月」

「……お、おう?」

「如月はさ……卯月さんや鮫島さんに、惚れたりしないの?」

「へ?」

 虚ろな目のままで、茫洋とした笑顔を浮かべて、植草は……植草五郎は、怨嗟のごとき声色で、深く、深く絶望しながら。

 ぽつりと、泣きそうな顔で、言った。

「女友達にうっかり惚れちゃってさ……でも、好きな人がいる人に、そんなもん迷惑でしかないじゃん? 少しだけ苦しいけど、今の関係も結構……すごく、楽しくてさ……一緒に話したりするだけで、すごく楽しくてさ。それだけでいいなって思ってたんだよ」

「………………」

「本当に、それだけで良かったんだ」

 恐らくそれは、植草五郎にとっての本音で……魂の叫びだったのだろう。

 好きだけど、別に好きだと伝えなくても良い。友達としての好意だけ伝わっていればいいと、そう思っていた。

 付き合いたいとは思わない。今ここで少しの間、一緒にいるだけで満足だ。

 誰かから見ればヘタレで、誰かから見れば……僕から見れば、それはただの純愛で、誰かを一途に思い続けることに慣れた、駄目な男の、当たり前の好意だった。

 伝えれば関係が壊れるから、伝えない。

 笑顔で我慢して、苦しいけど耐えて、痛いけど今が楽しいからそれでいい。良くはないけどそれでいい。ちっとも良くないけど……ずっと、そうやってきた。

 ずっとそうやって、諦めてきた。

 植草は溜息を吐いて、息を吸って吐いて、頬を両手で叩いて、顔を上げた。

 そこには、死にそうな表情の男は……どこにもいなかった。いつもの植草だった。

「……帰るか」

「お、おい、植草……帰るかって……そんなに簡単に引き下がっていいものなのか?」

「いいんだよ。最初から期待してなかったことが、今こうして現実になっただけだし」

 最初から諦めていて、最後まで諦めていた。

 それが早々に現実になっただけ。遅かれ早かれ痛いのは同じ。

 そして……植草は、苦笑いを浮かべて、想いを語った。


「坪倉さんが無事なら……友達が無事なら、ぼくはなんでもいいんだよ」


 想いは報われない。自分に返るものなどなにもない。

 いざって時に頑張ったって、日常の駄目さで差し引きゼロなのだから、自分が誰かに好かれることなど絶対にない。……そう確信している、男の顔だった。

「植草。そんなこと言ってさ、実際に好かれてたらどうするんだよ?」

「ぶっ殺すぞ、如月」

「いや……ぶっ殺すって……キャラに合わない暴言はびっくりするだろ」

「あと、今日泊めてください。家に帰りたくないんです」

「暴言の次はへりくだったお願いかよ……別に泊めるのはいいけどさ、姉貴と妹は可愛いから、襲うなよ?」

「ぼくにそんな度胸はない」

「植草……僕は、暗に『姉貴か妹、どっちでもいいから早々に引き取ってください』って言ってるんだからな? ちゃんと空気とか読まないと駄目だぞ?」

「如月の言う『空気』は難しいよ……」

 友達を家に呼ぶことなどほとんどないけれど、植草なら、まぁいいかなと思った。

 姉貴と妹、どちらか……あるいは両方を引き取っていただきたい。是非。是が非にでも引き取っていただきたいけど、それは叶わぬ願いなんだろう。

 というか、家に泊めないと、この男は普通に野宿しそうだった。

 さすがに全身まんべんなく紫色に染まりつつある男を、外に放り出したくはない。

「少し時間を置いた方がいいね。植草は冷静じゃないし、会長も巨乳さんもまぁまぁ冷静じゃなかったから、僕の家に泊まるってのは非常に良いアイディアだと思う」

「巨乳さん言うな死ね」

「死ねと申したか……」

「坪倉さんはテンション高くクソ百合っぽい所を発揮してる時が一番可愛いんだよ」

「百合と申したか……」

 難儀な恋愛をしているようだった。植草らしいと言えば、らしい。

 しかしまぁ……ぞっこんだなぁ。僕に言わずに坪倉さんとやらに言えばいいのに。百合でもここまでの一途さを発揮されたら落ちるんじゃなかろーかとか思ったりする。

 立ち上がるのすら難儀そうな植草に肩を貸しつつ、僕は言葉を続ける。

「ま、今日はお疲れさん。どんな戦いだったのかは知らんけど、勝ったのか?」

「喧嘩には勝った。勝負には負けた。生徒会と総力戦はさすがにキツい……」

「……想像を絶することを平然と言うよな……ま、今日の所は泊まっていけ。親父殿や姉貴と妹は嫌な顔するかもしれんけど、お袋は寛大だからな」

「ああ……矢宵さん、元気か?」

「……お袋のこと知ってんのか?」

「師匠が同じなだけ。兄弟弟子だからなぁ……」

「世間って広いようで狭いよなぁ!」

 妙な繋がりや縁にびびりながら、僕は植草に肩を貸しながらよろよろ歩く。

 誰からも褒められることはなく、誰にも称賛されず、誰も得をしない戦を終えた。

 僕に褒められても嬉しくはないだろうけど。

 僕くらいは……植草がやったことを、ただの暴力行為ではなく自分のための戦いを終えた植草を、ねぎらってやろうと思った。



 万事を尽くしても、天命は来ない。待てど暮らせど願いは届かない。

 それでもまぁ……時間が解決することもあるのだと、僕は思う。

 だから、ほんの少しの間だけ、植草を家でかくまうことにした。

はい、そういうわけでここで切っておけばいいのに、性懲りもなくあと

一話ありますww

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