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第五話:なにも起きない温泉旅行(後) そして、彼女は激怒した

五十鈴ちゃんは激おこぷんぷん丸。


使用BGM:爆走夢歌(確かソウルイーターのEDテーマ)

 長い間抑え込む。自覚無自覚に関わらず、己の心を殺し切る。

 人はそれを抑圧と言う。





 植草五郎の朝は早い。

 いつも通りの時間に起きて、旅先であることを悟り、息を吐く。

 もう少し寝ていられる。その事実に少しだけ安堵して、体を起こした。

「………………」

 あっちこっちがはだけた女の子を見たが、思う所はない。

 あったがない。ないということにした。ないということにすればない。

 飢え、渇くものが心の中にはあるが、魂の絶叫が聞こえるが、聞こえないふりをすればいい。目を閉じて耳を塞ぎ、いつも通りに対応すれば問題はない。

「…………はぁ」

 熱っぽい息を吐き、五郎は再び布団に寝転んだ。

 眠気はある。意識は薄い。ぼんやりと五十鈴の顔を見つめて、息を吐く。

 湧き起こった感情を、いつも通りに、見事に殺し切った。

「寝よう」

 五十鈴に背を向けて、布団を被った。

 いつも通りに力を抜いて、体を弛緩させ、再びまどろみに落ちて行った。



 本日、坪倉五十鈴の朝は普通ではなかった。

 五十鈴が朝一番でやった行動は、五十鈴自身を追い込む羽目になった。

 その結果が、布団の上で土下座である。誠心誠意の土下座である。普段はもちろん土下座などしたくもないし、相手が悪かろうが開き直る五十鈴ではあるが、今回やったことは開き直る余地がない。

「釈明をさせてください」

「発言を許可します」

 股間を抑えながら、五郎は悪鬼の如き低い声色で言った。

 目付きが尋常ではない。そこにあるのは不貞腐れている弟でも、優しげでヘタレな男でもない。近づく者全てに危害を加える、手負いの獣のそれである。

 恐る恐る、五十鈴は口を開いた。

「と……とりあえず、朝起きて隣に男の子がいるなんて、びっくりじゃないですか」

「坪倉さんの寝相が悪いせいだよね? ぼくはぼくの布団から一ミリもはみ出しちゃいないし、背中を蹴られようが見て見ぬふりをするくらいはしてるんだけど?」

「ゆ、百合にとっては男子なんて汚物も同然ですし?」

「それならそれで汚物らしく扱ってくれない? 布団離すとか、色々あったでしょ」

「お酒が入っている時に、百合だの汚物だの考えている余裕などありませんよ。眠くてそこに布団がある。ならば誰が隣に雑魚寝しようが寝るしかないのです」

「うん、そうだね。気を付けなかったぼくにも確かに非はあると思うよ? でもさ、それとこれとは一切関係ないよね? 興味本位でやりやがったよね?」

「……はい。興味本位でやりました」

 仰向けで寝ている男子。朝の生理現象。

 顔をしかめると同時に、ギャグ漫画でやっていた行動を思い出す。

 興味本位で、でこぴんをした。想像以上に悶え苦しむ五郎と困惑する五十鈴。

 起き上がった五郎の目は尋常ではなく怒っていた。今まで見たこともないほど、怒り狂っていた。当然と言えば当然だ。

 急所にでこぴんをされれば、誰だって当然のように怒り狂う。

「汚物だろうが、寝込みに内臓を一撃されりゃ普通にキレるよね? 分かるよね?」

「な、内臓? 私が一撃したのは……えっと、多分股間の竿の方だと思うんですが……」

「ぼかした表現にしてんのに普通に言うなや!」

「いや、話には聞いてましたけど、あんな鋭角的にそびえ立つモノだとは思わないじゃないですか? 汚物だからこその対応なので、むしろ私は悪くないのでは?」

「………………」

「ごめんなさい」

 冷たい視線に耐え切れず、五十鈴は土下座の姿勢のまま謝った。

 もちろん、別に土下座じゃなくても五郎は許してくれるだろうという目算はあるが、五十鈴なりに興味半分で最大級の痛苦を味わわせたことを気にしているのだった。

 五郎は小さく溜息を吐いて、ぼんやりとした口調で言った。

「いやまぁ、土下座してもらう程のことじゃないし、いいんだけどさ……百合にしてみりゃ汚物かもしれないけど、ぼくの体の一部だし人体急所の一つだからね?」

「いっそ、切り取ってしまうというのはどうでしょうか?」

「ひぃっ!? なんつう発想をするんだ! やめて差し上げろ!」

「ウチの飼い猫のひでまるも、タマタマを取ったら大人しくなりましたよ?」

「猫の去勢手術は大事だけど、それは大人しくなったんじゃなくて、全てを失っただけだからね!」

「全てを失ってこそ得られるものも、きっとありますよ」

「お? なに? やっぱり反省してない感じ? 今ここでボーダー越えてみる?」

「あははは……すみません。反省してるんで許して下さい。あと、朝ご飯の時間がそろそろヤバそうなので食べに行きましょう。ホントすみません。だからその目はやめて?」

「最初からそうやって素直に謝っておけばいいのに……」

 五郎は呆れ顔を見せたが、もう怒ってはいないようだった。

(朝から悪いことをしちゃいましたね……)

 寝ぼけていたとはいえ、我ながら残虐なことをしてしまったと五十鈴は反省した。

 少しだけ気が咎めたが、黙っていても気まずいままなので話題を振る。

「そういえば、朝食ってなんでしたっけ?」

「洋食バイキングだったかな?」

「バイキングばっかりだと食べ過ぎで太りそうですね……怖い怖い。さすがに昨日は飲み過ぎ食べ過ぎましたし、今日はサラダ中心にしましょうかね」

「あー……坪倉さん、確かに昨日はちょっと飲み過ぎだったよね。意識があるんだかないんだか、ふらふらのままゲームやってたし」

「記憶が曖昧なんですが……変なコトとかしてませんよね?」

「具体的には?」

「……む、胸を揉んだりとか……ですかね? というか、別に具体的に聞かなくても『変なコト』は大体想像が付くでしょう?」

「いや、変なコトはしてないけど、色々されたからそれが変なコトか、素面の坪倉さんに客観的に判断してもらおうと思ってさ。世間の常識なのか、女子の常識なのか、あるいは本当に後悔するような行動だったのか……ぼくじゃイマイチ判別がつかないし」

「……い……色々?」

「まぁ、その辺は食堂に着いてから話そうか」

 五郎の様子は『本当に分からないから聞いている』という感じだった。間違いなく怒ってはいない。あるのは、ほんの少々の困惑くらいである。

 一方、五十鈴の方は今すぐ逃げ出してしまいたい衝動に駆られていた。

 冷静に考えると、ある時点から寝るまでの記憶がほとんどない。若さ故の過ちのようなことはやっていないだろうが、酔っ払った自分がどんなことをやったのか全く想像すらできないことに、戦々恐々としていた。

 逃げ出したい衝動に駆られてはいたが、逃げることはできずに食堂に到着。

 良い匂いが鼻孔をくすぐったが、正直それどころではない。

 最後に好きな物食っていいぞ。存分に食え。食った後に処刑な♪

 そんな風に言われたような気分になりながら、食べ物と飲み物をテーブルに並べて、二人は食事を始めた。

「あ、このオムレツ意外と美味しい」

「あの……五郎君。食事を楽しむのは結構なのですが、早々に言っていただけると私も助かるというか、さっきから死刑執行される直前の心境なのですが……」

「いや、そんなに怯えなくてもいいでしょ。単純にぼくが聞きたいだけだしさ」

 もぐもぐとクロワッサンを齧りながら、五郎は言った。

「その1、膝枕を強制する」

「……え……っと? それは、五郎君が、私にではなく?」

「坪倉さんがぼくの膝を叩きながら『ひーざーかーせー』みたいな感じで」

「……ええ……それ、変なコトです。間違いなく変なコトです」

 顔から火が出るとはまさにこのことである。全く覚えはないが、五郎の表情は平常そのものであった。そういった行為に慣れている雰囲気さえ感じられる。

「その2、なんか噛まれる」

「……か……噛まれる?」

「肩のあたりとか、鎖骨のあたりとかを重点的に噛まれる」

 五郎が浴衣をめくると、肩や鎖骨のあたりに薄紅色に腫れた歯型が残っていた。

 その歯型を見て、記憶が薄っすらと蘇る。げらげら笑いながら手加減なく五郎をばしばし叩き、生意気だと言っては噛んだり顎を押し付けたり……酷い有様だった。

「あ、あの……坪倉さん? 顔の色が赤くなったり青くなったり、信号機みたいになってるけど大丈夫? 飲み物とか持ってこようか? 具合悪くない?」

「いえそのあの昨日の自分がいかに醜態を晒していたのか、ちょっと思い出して泣きそうになってしまったもので……五郎君こそ、大丈夫なんですか?」

「なにが? 坪倉さんはわりと大丈夫な方の酔っ払いだったけど?」

「……あの……大丈夫じゃない方の酔っ払いって……」

「第一位がブッチ切りで桜庭副会長。二位が姉さん……で、越えられない壁があって、クラスメイト数人の次くらいに坪倉さんかな?」

「………………」

「っていうか、やっぱり変なコトじゃないか……姉さんめ、また嘘吐いて、全く……」

 本当はその3以降もあったのだろうが、五郎は独りごちた後、話を切り上げた。

 悪いことだと責められたりもしない。

 恐らく、五郎にとって『酒が入ってる状態でのわがまま』は普通のことなのだろう。

 酒の入った美恵子に『これはお酒が入っている女の子なら普通のことだ!』とか、なんとか、理不尽なことを言われてきたのだろう。

 その理不尽を、やれやれ仕方ねぇなと肩をすくめて、許してきたのだろう。

 昨今の漫画やアニメや小説の、優柔不断な主人公のごとく。

(……むぅ)

 心の奥底から湧き上がってきた感情は、五十鈴にとっても意外なものだったが、その感情には逆らわずに、溜息を吐いて、五郎に頭を下げた。

「変なコトしてすみません。……朝のことも含めて、重ねてごめんなさい」

「いや、別にいいってば。お酒が入ればあれくらい当然でしょ」

「勘違いされては困るのですが『当然ではない』から謝っているのです。食事をしながらでいいので、ちょっと聞いてください」

「…………うん」

 小さく頷いて、五郎は食事の手を止めて五十鈴に向き直る。

 五十鈴は言葉を考えつつ、普段は朝には食べないように気を使っているオムレツにフォークを突き立てた。なんとなく食べないとやっていられない気分だったのだ。

「一般的に『お酒の席での乱痴気』は、とても恥ずかしいことなのです」

「うん……まぁ、知ってるけど」

「五郎君の場合『知っているだけ』なのですよ。お酒の席での乱痴気騒ぎが常態化しちゃってて麻痺してるんです。本来なら目くじら立てて怒って良いのです」

「でも、別に迷惑ってほどでもないし、男としてはほら、役得みたいな所もあるし?」

「本当にそう思っているのなら、もっとだらしない表情をしてもいいのですよ」

「………………」

 嬉しくないと言えば嘘になるし、嬉しいと言えばその通りだ。

 しかし、その内心を占めているのは……困惑。実際の所、嬉しいより困っていた。

 困るだけ困って、内心では少しだけ怒っていた。

 五十鈴は視線を逸らしながらパスタをパクパクと食べて、飲み込んで口を開く。

「まぁ……なんていうか、その……嫌なら、ちゃんと言ってください。私はお姉さまとは違います。他人ならともかく、友達に迷惑をかけてへらへら笑っていられるほど……神経太くないんです」

「……はい」

 なぜか、五郎は神妙な表情で頷いて、五十鈴を見つめて意地悪っぽく口元を緩めた。

 普通の男の子のように、笑っていた。

「百合のなんたるかを教えてあげますって言って、説教形式で正座させるのは勘弁」

「……しにたい……私、思った以上に気持ち悪い百合だったんですね……自分の嗜好を『教えてやる』って……恥ずかし過ぎて消えてなくなりたいです……」

「ヤンデレ好きだけはちょっと賛同しかねるかな?」

「恥ずかしい話を広げないでください! ……まぁ、それはそれとして、私にヤンデレ語らせたら、酒が入ってなくても結構すごいですよ?」

「それじゃあ、ぼくの友達のヤンデレの話を今からするから、評価をよろしく。……正直アレに萌えられたら大したもんだと思うよ?」

「いや……その……さらっと、とんでもないこと言ってません? なんで友達にヤンデレがいるんですか? 大丈夫なんですか、それ?」

「ぼくは大丈夫。……ぼくはね」

 怪談を話す時のような物々しい雰囲気を出しながら、五郎は語り出す。

 少ない友達の中の……さらに少ない女友達の恋愛話を。

 ヤンデレによる決死の恋愛話を、語った。



 結果は、アウトだった。

 他人事としてもアウトだし、仮に自分がその立場にいたら自殺しかねない。

「現実のヤンデレ舐めてました。ごめんなさい……っていうか、かさぶたを少しずつ丁寧に剥がすような恋愛、他人事としても聞きたくありませんでしたよ」

「女性関係を一人ずつ丁寧に清算していくあたりが、ぼくとしても怖かったね」

 五郎は曖昧に笑っていたが、五十鈴には笑う余裕などない。

 朝食を済ませて温泉に一度入り、さっぱりしたところで、旅館の周囲を見て回ることにした。なんにもないと五郎は言っていたが、足湯や温泉地独特のお土産屋のような施設はあるので、五十鈴としては見ていても結構楽しい。

「っていうか……前々から思ってましたけど、五郎君のクラスおかしくないですか?」

「おかしいけど、実際の所は気の良い連中ばっかりで、奥山さんみたいに『条件付きで危険』ってのが多い」

「条件付き?」

「例えば、神谷真っていうぼくの友達がいるんだけど……基本的に気難しい奴だけど一度デレると際限なくゴリ押しする肉食系……いや、捕食系って言った方がいいのかな?」

「ああ……五郎君とよく一緒に写ってたホモっぽい男子ですよね?」

「ホモじゃねぇよ!?」

「いえ、しかしべたべたし過ぎで密着率が半端じゃないのですが……クラスの女子からホモだと思われててもおかしくないと思いますよ?」

「ぼくも神谷君も熱狂的かつ狂信的な女体崇拝者だよ。神谷君に至っては携帯ゲームに課金しまくってるし……なにが楽しいのか知らないけどさ」

「その辺に関してはエロ本の一冊すら持っていない五郎君の方がアレですよ?」

「ぐぅの音も出ないなぁ……」

「ツッコミが細かいようですが、女性崇拝ではなく女体崇拝なのですね? 女性もいいものだと思うんですがねぇ……性格悪そうな女性とか、ガラスのハートを抱えていたりして叩き割ろうとすると必死になるので結構愛おしいのですよ?」

「ガラスのハートだって分かってて叩き割ろうとするのはサディストの発想だよね……ぼくはともかく、神谷君は中学時代にとんでもねぇトラウマ背負い込んでるらしいからねぇ。詳しくは知らないんだけど、基本的に女の子嫌いなんだってさ」

「さっき捕食系って言ってましたけど、どういう意味ですか?」

「えっと……捕食範囲内に踏み込むと、体ごとごっそり持っていかれる感じ?」

「怖っ!? っと……おお、ゴマ団子が売ってるじゃありませんか! ゴマ団子ですよ、ゴマ団子! この辺は屋台も多いですね!」

「ゴマ団子好きなの? 何個か買って行こうか?」

「いや……こ、ここは私が奢りますよ! 昨日のお詫びも兼ねてのことですけどね」

「ゴマ団子十個とモツ炒め二つ、それから焼き串の鳥皮、腿、ハツ、ミノ、それぞれ五つずつ、あとはソフトクリーム一つで」

「容赦ないですね! ソフトクリームは二つでお願いします!」

 ヤケクソ混じりに自分のぶんのソフトクリームも注文した。

 荷物を抱えたままソフトクリームを食べるわけにはいかないので、テーブルと椅子の用意してあるフリースペースに座ることにした。

「さすが、観光地だけあって普通に高くて普通に美味しいね」

「昨日から食べ過ぎって気もしますけどね……あと、さりげなく結構買いましたね」

「部屋におつまみがもうなかったし、これくらいなら食べ切れるでしょ」

「結構前から思ってましたけど、五郎君ってさりげなくかなりの量食べますよね? 贅肉にしろ筋肉にしろ、付かないのが不思議で仕方ないんですが……」

「あー……なんでだろうね。確かに太ったことはないなぁ」

「ん? それは殴ってもいい発言ですよね?」

「いや、ウォーキングとかで足腰は鍛えてるよ? 昔は道場とか通ってたんだけどね」

「道場? 空手とか、柔道ですか?」

「今考えるとよく分からない道場だった……かな? 色々習ったけど、そもそもぼくに才能がなかったからなぁ」

「腕力女子以下ですもんね」

「それもあるけど……スタミナや持久力が死んでるからね。とてもじゃないけど、ルール決まってる試合形式で、三分以上仕合うとか、絶対に無理だし」

「……その気持ち、ちょっと分かりますね」

「え?」

「私は中学校時代、陸上部だったんですけど……まぁ、胸が大きくなったことによってこすれて痛いわ、走りづらいわで、結局辞めちゃったんですよね」

「……それはきっついね」

「そうですねぇ。辞めたおかげで写真と出会えたのは、悪くないんですけどね」

 ソフトクリームを舐めて、五十鈴は微笑んだ。

 陸上を辞めたのは悔しかったし色々言われたりもしたけれど、それでも次に夢中になれることが見つかって良かったのだと、五十鈴はそんな風に思う。

 熱中や夢中を知らずに、ただ茫洋と日々を過ごすよりも、生きている実感がある。

 手放して初めて分かることもある。失って初めて見つけられることもある。それが分かっただけでも、陸上を諦めることには意味があったのだと、思える。

 ふと、思い付いたことを口にした。

「そうだ。いっそのこと、五郎君も写真部入ります?」

「盗撮はちょっと……」

「盗撮ばっかりやってるわけじゃありませんからね? まぁ、私も写真は本格的にやっているわけじゃありませんよ。あくまで趣味です、趣味」

「趣味、ねぇ」

「クラスの子以外も女の子をばしばし撮影してくれると、私が嬉しいです」

「結局自分の趣味じゃん!」

 やや呆れながらも、趣味なら仕方ないと五郎は思う。

(趣味だしね。命や人生くらい捧げても、仕方ないよね)

 例えば、五郎の母親は弁当屋をやりたいという己の趣味のために、キャバクラで働き子供の人生をある程度犠牲にしてまで、弁当屋を建てた。

 クラスメイトで生徒会所属の空野博はあくせく働いている。恐らく『人の面倒を見るのが趣味』なのだろうと五郎は思う。博自身に自覚はないようだが。


『趣味ってのは悦楽だ。独りよがりの自己満足……だからこそ、意味がある』


 敵である如月与一は、そんなことを言っていた。

 趣味。今まで五郎にはそういったものはなかった。積極的になにかに興味を持つようなこともしてこなかった。どうせ無駄だろう。駄目だろう。自分には無理だと最初から見切りを付けて、接することすら拒否してきた。

(でも、独りよがりでいいなら……できるかな?)

 今ここが楽しければそれで良い。誰かに認められる必要のない、孤独の世界。

 それは五郎にはとても眩しいものに見えた。考えるだけ考えようと思える程度には。

「まぁ……いいけどね。考えておくよ。考えた結果やめるかもしれないけどさ」

「よーし、部員一名ゲット。これで来年までは廃部を免れそうですね」

「まだ入るとは言ってないからね?」

 五十鈴らしいといえばらしい強引さに、五郎はほんの少しだけ口元を緩める。

 五十鈴と話をするのは楽しい。話を聞いてもらうのは楽しい。

 五郎には『女性と付き合う』という感覚がよく分からなかったが……今は、なんとなく分かるような気がする。

 楽しいから続く。辛くなったら終わる。趣味と同じだ。

 違うのは『本気』でやらなくてはならないということ。相手に認められたいと願い、失望を恐れること。相手の隣に立っていたいと……渇望すること。

(ぼくには無理だな)

 そう結論付けて、五郎は口を開いた。

「さて……ソフトクリームも食べ終わったし、まだ見て回る?」

「いえ、戻りましょう。……この場所には、旅館の受付のお姉さん以外に見るべき所はないようです。彼女だけこっそり撮ってから戻りましょう」

「ブレないなぁ」

「百合ですもの」

 そんなことを言い合いながら、二人は笑いながら旅館に戻っていく。

 その様子は……控え目に見て、カップルと言えなくもない程度には。

 ものすごく、仲が良さそうには、見えた。



「オレ様は疑問に思う。なんでどうしてオレ様はこんな所でバカップルに見えるバカップルを監視しなきゃいかんのか? 本当はあそこにいるのはオレ様と彼氏だったはずなのにどうしてこんなことになってしまったのか。彼氏は笑うだけだし、会長は相も変わらず訳が分からない」

「間違いを犯してないか、ついつい気になる姉心ってやつだよ。まぁ、五郎ちゃんにはそういう発想がそもそもないし、五十鈴ちゃんは百合だし心配ないと思ってたけどね」

「会長はなにがしたいんだ?」

「私は安心したい。五郎ちゃんは基本的に私のだからね。応用的には誰かのものだけど、私に所有権があるということを忘れない誰かのものなら……まぁ、許容範囲?」

「……前々から思っていたが、あなたは最悪だな」

「ま、五十鈴ちゃんなら大丈夫でしょ。百合だし人の男に手を出すような度胸はない。本当は文枝ちゃんあたりとくっつける予定だったんだけどねー……五郎ちゃんが思った以上に切れ味鋭いのなんの。あそこまで研いだつもりはなかったんだけどねー」

「人の話を聞け。オレ様は、あなたのことを最低だと思うぞ」

「知ってるよ? なにを今更」

「五郎君には五郎君の人生がある。駄目なら駄目で自分の足で踏みしめて戦わなきゃいけないとオレ様は思う。会長のやっていることは、やらなくてもいい手出しを散々やって、五郎君からやるべきことを奪い、五郎君の意志を奪い、五郎君に依存しているだけだ」

「知ってるよ? なにを今更」

「…………っ」

「こんなこと、百も承知でやってるに決まってるじゃない」

「……なんでそこまでするんだ? オレ様にも兄貴はいるがさっぱり分からんぞ」

「分からなくてもいいんじゃない? 未来ちゃんにとっては他人事でしょ」

「だからなんだ。他人事でも悪いものは悪い。気に食わないことは気に食わないだろ」

「あっそ。んじゃ、話を聞いて欲しいなら五万円。理由を話して欲しいなら十万円。五郎ちゃんを私から解放したいのなら一兆円払うか、覚悟を見せてもらう。……気に食わないから話を聞け? そんな横暴はどこにも通らない。通したいのならそれなりの対価を払ってもらうよ。私にとっては無駄な労力なんだから、無駄じゃないようにしないとね?」

「あなたは最低だ」

「ほら、他人事だから五万円払えない。口だけならなんとでも言える。自分にリスクがないのなら人はなんだってできる。リスクがあるから迷う。リスクがあろうが五郎ちゃんを欲しいと言う人はいない。だったら私がもらう」

「……欲しがる女くらい、そのうち出てきそうじゃないか?」

「出てくるわけないじゃん。格好良い男子に浮かれポンチになってる女子高生風情が、五郎ちゃんの良さに気付くわけないでしょ? あ、時間制限は高校卒業までです」

「いやぁ……そーかなー……オレ様はいると思うぜ?」

「いたとしても、学生には一兆円も覚悟も払えない。そういう目算はあります」

「やっぱり、会長はサイテーだな」

「ふっふっふ……サイテーは、褒め言葉よ!」



 その後、旅行はつつがなく終わった。

 何事もなく……普通に終わった。

 あれから酒量を控えたので迷惑をかけることもなく、さりとて変なイベントが挟まるようなこともなく、普通に、楽しくお喋りやゲームをして、それで終わった。

 色っぽい展開などあるわけもない。強いて挙げるなら帰りの電車が混み合ったにも関わらず、横に座った五郎が寝てしまい五十鈴にもたれかかったことくらいだ。

 ちょっとだけドキドキしたが……まぁ、それは反射行動だろう。人と接するのにあまり慣れていないからドキドキしたのだと、五十鈴は思っている。

 それでも、本当に楽しかったと、五十鈴は思っている。

 週明けの昼休み。今日は生徒会の日だった。その代わりに放課後は暇だ。

 あるいは……これからずっと、暇になるのかもしれないが。

(なにやってんでしょうかね、私は)

 生徒会室に行く前に、トイレに向かう。

 ツインテールを解いて一つにくくる。切腹をする武士のような心境だった。

 弱気になる自分を叱り飛ばすように……両手で頬を張った。

「……よし。行きましょう」

 なぜこんなことをするのだろう? どうしてこうすると決めたしまったのだろう?

 今なら引き返せる。やめろ。こんなことをしてなんの得がある?

 得なんてない。損ばっかりだ。そもそも自分は百合のはずだ。口を出しても意味なんてない。お姉さまに嫌われる。嫌だ。絶対に嫌だ。五郎君とお姉さまだったら、どっちが優先順位が上かなんて、分かり切ってるじゃないか。

「全く……全くですよ。私は、私がこれほど善良な人間だなんて、思っていなかった」

 分かり切っている。分かってしまった。自覚してしまった。

 旅行から帰って来た直後に思い知った。


『あ、そういえば写真撮り忘れましたね。……ま、それは次の機会……に?』


 それは、ただの独り言だった。土産を整理している途中に、独りで呟いて気づいた。

 五十鈴は『次』があると思っていた。ごくごく自然に『次』もあると呟いていた。

 最初は嫌々のはずだった。そもそも知り合って一週間くらいしか経っていない。長い付き合いでもなんでもない。一ヶ月経ったら解消する関係。そう思っていた。

 割り切っていたはずだったのに……もう、この時点で割り切れなくなっていた。

 彼氏彼女になりたいとは、今でも思わない。男は怖いし気持ち悪いと、思っている。

 でも……それとこれとは別だった。

 五郎のことは、あんまり怖くない。シスコンはちょっとキモいが、脱却しようと足掻いているぶん、自分の百合ほどじゃない。

 話していて楽しい。身構えなくてもいい。自然でいい。趣味の話を存分にしても少しくらいしか引かない。引いてもすぐに元に戻る。そういう……信頼が自分の中にある。

 拒絶されずに受け入れてくれるのが、嬉しかった。

 そして……嬉しさの奥底、胸の内に燻ぶるものがある。

 罪悪感。後ろめたさ。言葉にしてしまえばそんなところだろう。

 五郎の背後にあるものに怒りを感じている自分がいる。拳を握って親指を下に向けて、憤怒の表情で怒り狂う自分がいるのだ。

「ああ……でも、良いかもしれませんね。たまには」

 女性特有の『敵排除スイッチ』をオンにしながら五十鈴は獰猛な表情を浮かべる。

 友達のために、憧れを敵に回すのも、たまには悪くない。

 怖いし辛いが……あの後ろめたさは、罪悪感は今はどこにもない。優先順位はひっくり返ってしまったけれど、それはそれで仕方がないと切り捨てた。割り切った。

 五郎を見捨てられなかったら、憧れの方を割り切った。

 生徒会室の扉を開く。既に全員集まっていた。

「なんだ、坪倉。今日は遅かったじゃないか。さっさと席に着いて……」

「ごめんなさい、空野君。少し荒らします」

「は? え……おい、坪倉?」

 博の困惑を振り切って、五十鈴は憧れの生徒会長である、植草美恵子の前に立った。

 足が震える。手が震える。震えながらなお、美恵子の前に封筒を叩きつけた。

 その封筒には『退会届』と書かれていた。


「私こと坪倉五十鈴は生徒会を退会します。お世話になりました」


 美恵子は封筒を手に取って、ゆっくりと息を吐く。

 そして、ちらりと五十鈴を見た。

「……どういう風の吹き回し、かな?」

「一身上の、私個人の理由です。具体的には……あなたの弟である植草五郎君に勉強を教えるので、今後生徒会活動に専念する時間がなくなります。だから辞めるのです」

「極端に言えば、彼氏とイチャイチャしたいから辞めるってこと? 無責任だね」

「はい」

 きっぱりと断言すると、美恵子の眉間に皺が寄った。

 明らかに怒っている。が……五十鈴は構わずに話を続けた。

「お姉さまは言っても聞かないでしょう? だから、行動することにしたんです」

「へぇ……踏み込まないとか言ってたくせに。情でも移っちゃった?」

「有体に言えばその通りです」

 怒りの視線を真正面から見返す。そんなことができたのは、もちろん。

 五十鈴も、怒っていたからだ。

「自分でも意外ですけど……私は友達を侮辱されて、酷く腹が立っています」

「侮辱? 私は五郎ちゃんを侮辱した覚えはないけど……」

「嘘を教え、もたれかかり、時間を搾取して、奔放に振舞い、ふざけ半分で尊厳を踏みにじる。許容してくれるからといって、それに依存するのは他者に対する侮辱でしょう。……分かりやすく言えば、お姉さまは五郎君の人生を食い物にしている毒婦です」

「へぇ……言ってくれるじゃない?」

「覚悟もなく、退会届など出しはしません」

「でも、五十鈴ちゃんは別に五郎ちゃんと付き合うつもりはないんでしょ? それとも、この週末で気が変わっちゃった? やっぱり、五十鈴ちゃんもただの女だったってことよね。ああ……この場合は雌豚かな? 普通を見下して悦に浸ってたくせに、いざとなったら持論をひっくり返して手の平返し。正直、みっともないと思うよ?」

「どのように見られようが反論の余地はありませんし、お好きなように解釈してください。私が百合だろうがなんだろうが、五郎君はありのまま、そのまま接してくれる。それはお姉さまが一番良く知っていることでしょうけどね?」

「確かに、五十鈴ちゃんの言う通りだね……でもまぁ、私と五郎ちゃんは家族だし? 五十鈴ちゃんがなにをやっても無駄な努力だと思うけど? 接している時間がそもそも段違いだしね」

「ええ、ですから少しずつ崩していくことになるでしょうね」

「へ?」

「物置になっている部屋が一つあるそうですね? その部屋を五郎君の部屋にします」

「五郎ちゃんの動作を逐一把握している私に隙はない。邪魔してやるもんね」

「当然、私も手伝います。鍵を付け変えればお姉さまでも侵入は不可能。いくら邪魔をしようが二人でやればいつか終わります」

「……は? ちょっ……なんでそこまでするの?」

「さぁ? なんとなくですよ。あとはLANを引いて、パソコンを繋げば、静画公開サイトなんかでえっちぃ画像を収集するような、普通の男子高校生の完成です」

「ちょっ……待って! そんなことしたら五郎ちゃんがエロサイト閲覧してパソコンをウイルスに感染させるようなお馬鹿になっちゃうじゃない!」

「もう手遅れなくらい馬鹿だから問題ありません! むしろ、今のこの状況の方が不健全過ぎて、言葉もありませんよ!」

「不健全じゃないし! ちょっとスキンシップ過剰なだけだもん!」

「その結果が『女の子の好みとかよー分からん』って言っちゃう男を育てちゃうんでしょうが! 未来に言われて初めて気が付きましたけど、私の胸をチラ見すらしない男とか明らかにおかしいでしょ! 男子としては確実に不健全でしょ、そんなもん!」

「……チッ……あの女、余計なことを……五郎ちゃんは『女の子の嫌なことは徹底的にしないやらない発想すらしない』ように散々躾けてきたのに……」

「そういう躾は世間じゃ虐待っていうんです!」

「だ、大体五十鈴ちゃん百合じゃん! 彼女でもないのに割って入らないでよ!」

「今は付き合ってるって名目だからいいんですよ! 大体、情が移らなきゃ簡単に見捨てられたのに! あんな男を育てたお姉さまが悪いんですからね!」

 喧々諤々。生徒会室は怒号と絶叫に包まれていた。

 当事者ではない人間が口を挟む余地などない。二人がどのようなことで口論しているのかは分からなかったが、少なくとも一人の男を巡っての戦いだということは分かった。

 これは……よくある痴話喧嘩であると、男の取り合いなのだと、悟っていた。

 と、その時だった。

「ほいっ」

「ひぐぅっ!?」

 その男は、口は挟まなかったが、手を出した。

 どのようになにをしたのか美恵子も副会長の二人も全く理解できないまま……五十鈴の首の後ろに拳を叩きつけて、気絶させた。

 シン、と生徒会室が静かになる。

 五十鈴を昏倒させた男……空野博は、脱力した五十鈴の体を抱えながら溜息を吐いた。

「あー……めんどうくせぇ」

「……よし! 空野君、よくやったわ。この毒婦をフ●ックする権利をあげましょう」

「話聞いてる限りじゃ会長の方が毒婦なんスけど……」

 博は溜息を吐き、目を細めて、美恵子を見つめた。

「無理だと思いますよ? 坪倉……完全にマジですよ、これ。坪倉が開き直った時の爆発力は会長も知ってるっしょ?」

「……そりゃ、そういう所を買って私が勧誘してきたからね」

「んじゃ、無理なんスよ。明智光秀に謀反くらった信長公くらい無理です。会長が折れて諦めて生徒会に留まるように懇願するか、坪倉を手放して生徒会が空中分解するか、好きな方を選んでください。坪倉が辞めるなら俺も辞めます」

「おやおや? まさか空野君、五十鈴ちゃんのこと……」

「作業量の問題だアホ。今坪倉が抜けたらマジで色々回らなくなるんだよ。代わりの人材育てるにしても、坪倉に二週間はいてもらわないと困ります」

「…………はぁ」

 美恵子は深々と溜息を吐いた。溜息を吐いて目を細めて、再び溜息を吐いた。

 コツコツと指でテーブルを叩いて、口元を緩めた。

「んじゃ、信長は信長なりに本能寺で最後の抵抗を試みるとしましょうか」

「は?」

「文枝ちゃん、柔道部に連絡取って剛力君借りてきて。空野君は柔道場で待機。荒瀬君は空手部他格闘技系の道場で待機。私は五十鈴ちゃん見張ってるから。四対一だけど微妙……いや、空野君次第かな?」

「ちょ……会長? いきなりなに言い出すんだよ!?」

「空野君、最近退屈してるでしょ? だから、最高の相手を用意してあげる」

 にやりと、まるで悪魔のように笑い。

 美恵子はきっぱりと命令を言い放った。


「生徒会の総力を持って、私の弟を……植草五郎を、叩き潰します。五郎ちゃんの情けない姿を見れば、命乞いの一つも見せれば、五十鈴ちゃんも冷めるんじゃないかな?」


 悪魔のように笑ってはいたが、今にも泣きそうな目のままで。

 美恵子は、訳の分からない、乱心したとしか思えない命令を、下した。



 少女の戦いは終わる。

 少年の戦いが始まる。

さて、問題です。


『植草五郎君は、どうやってこの状況を切り抜けるでしょうか?』


①:賢い五郎君はスタイリッシュな解決方法を思い付く。

②:完全にブチ切れて真正面から乗り込む。

③:誰かが助けてくれる。あるいは助けを求める。

④:フルボッコにされる。現実は非情である。


回答は、次の物語でww

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