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第四話:なにも起きない温泉旅行(前)

学生を好んで描く理由は、衣服の描写がとても楽だからだ。

私服の描写になるといきなり困る。なにがどうファッション的に正解なのか

よく分からない。女の子はぐぐるくらいのことはするが、野郎の場合はキャラに

よる。今回の五郎君は非常に楽だった。

 なにもおきません。





 坪倉五十鈴は緊張していた。緊張に重ねて慎重になっていた。

(大丈夫……下品にならない程度にお洒落で普通……の、はず)

 待ち合わせの駅前で、既にガチガチに緊張しきっていた。

 淡い水色の七分丈のシャツに、動きやすいストレッチパンツ。髪はいつものツインテールではなく、後ろで丸めピンでくくっておいた。靴は歩きやすくスニーカー。荷物はキャリーバッグに詰め込んでいる。二泊三日なのでこんなものだろうと五十鈴は思う。

「ま……まぁ別に、大したことはありませんよ……ええ……私は百合ですからね」

 などと、言い訳をしながらチラチラと携帯電話の時計を見る。

 結局……あの後、どうせ全部バレたからということで、お互いに連絡を取り合うために電話番号とメールアドレスを教え合ったのだが、今の今まで電話なりメールなりをほとんどしたことがないことに気づく。

 生徒会の仕事は放課後なので、昼休みに連絡すれば済む話で……だからこそ、電話やメールを使う必要がなかったのだ。

 時間は午前の九時半。集合時間二十分前はさすがに早過ぎだったか……そんな風に思うと同時に、見覚えのある男子がこちらに近づいてくるのが見えた。

「おはよう、坪倉さん。やたら早いね」

「……おはようございます」

 近づいてくる男子は……もちろんというか待ち合わせしていたのだから当然と言えば当然なのだが、植草五郎だった。

 黒のTシャツとGパンというラフ……というか、地味な服装。

 荷物も限りなく軽装で『今からちょっと買い物行って来る』と言わんばかりの小さめの鞄を手に持っているだけである。

 ちょっと気合いを入れていた自分がアホらしくなる、普通の服だった。

「なんていうか……学校で見た印象そのまんまの、地味な私服ですね」

「野郎の服装にそこまで期待しないでよ。坪倉さんは私服の方が可愛いよね」

「っ……制服が似合っていないとでも?」

「褒めたのに怒られるって、理不尽だと思うなぁ。……ま、いいけどさ。朝ご飯食べてないから、サンドイッチでも買って電車に乗ろうか?」

 提案をしつつ、五郎は五十鈴が置いていたキャリーバッグを手に取った。

 当たり前のようにキャリーバッグを引きずる五郎を見ながら、五十鈴は溜息を吐く。

「非力くんのくせに男の子アピールですか?」

「非力だからこそ世間の風潮に流されるんだよ。っていうか、この荷物やたら重いんだけどなにが入ってるのさ? カメラ以外にもなんか入ってるでしょ?」

「ゲーム機と着替えくらいですかね。言っておきますけど、世の男性から見ればさほど重くない積載量ですよ?」

「非力で悪ぅございましたねぇ……」

「五郎君はなんか旅行をナメた感じの手荷物ですけど、なに持って来たんですか?」

「Tシャツ2枚と下着とタオルと歯磨きセット。ビニール袋が数枚。あとは遊び道具が少々とデジカメと、充電器くらいかな」

「あの……着替えは?」

「旅館の周囲に観光施設があるんだったら、着替えも持って来たんだけど……あの辺、温泉しかないよ? それなら浴衣で回ればいいだけの話だし」

「もしかして、五郎君……旅行、慣れてます?」

「慣れてはいないよ。時折ふらっと、テキトーに、ぶらぶらするだけだし。お金があれば遠出もするんだけど……人力だとなかなかねぇ。燃料代や交通費も馬鹿にならないし」

 あ、こいつ確実に旅行に慣れてる。そういう感じの言い方だった。

(意外と言えば、意外な趣味ですね……)

 あるいは、糸が切れた凧のような趣味と言えなくもない。

 例えば……高校を卒業して、どこにも進学せず就職せず、美恵子の会社にも誘われなかったら、ふらっとどこかに旅に出て消息不明になりそうな趣味である。

 サンドイッチのチェーン店でサンドイッチを購入し、改札口で切符を切る。

 電車は既に到着していたので、五郎と五十鈴は対面席に向かい合って腰掛けた。

「電車内でものを食べるって、マナー違反じゃないんですかね?」

「マナーってのは周囲の空気でありTPOのことだよ。空いてるしいいんじゃない?」

「そうですね、ゴチになります」

「おい、金払え。うちの姉さんか」

「けちですねぇ」

「なんとでも言うがいいさ。お付き合いもしてない女の子のご飯代は持てません」

「脅迫されてのこととはいえ、一応彼女(仮)なのですから……」

「脅迫してくる相手が、石村さんから姉さんに変わっちゃったぶん、彼女(笑)の性質が悪くなったような気がするよ」

 溜息を吐きながら、五郎は五十鈴にミックスサンドを渡して、自分はトマトとチーズのサンドイッチを頬張った。

 渡されたミックスサンドを見て、五十鈴はきょとんとした。

「あの……『ゴチになります』というのは冗談だったのですが……」

「貧弱な男は世間の風潮に従うんだよ」

「…………はぁ」

 なんとなく調子が狂う。五郎と顔を合わせて喧々諤々と口喧嘩に発展しないのも、男の子に親切にされるのも、調子が狂う原因なのだろう。

 ミックスサンドを一口齧って、よく咀嚼して飲み込んだ。

「そういえば……あの件はどうなりました? 気になった女の子撮影するやつ」

「一応、今日まで撮影はしてみたけど、イマイチよく分からなかったよ」

 五郎は初日でさっさと確認して欲しかったのだが、連休に突入するまでとにかく撮れという五十鈴の指示があったので、今まで『テキトー』に撮影をしていた。

 が……気になった女子がクラス内、もしくは図書委員関係にしかいなかったので、五郎としては『気になった女の子』というより『日常のスナップ写真』になってしまった。

 五郎からデジカメを受け取った五十鈴は、キャリーバッグからノートパソコンを取り出して、デジカメと接続した。

「坪倉さん? なんでノートパソコン取り出したの?」

「素人写真でも、売れるものがあるかもしれないじゃないですか」

「…………おい」

「まぁ、売れるものなんてほとんどありませんけど、私が注目していなかった美少女の写真があるかもしれないじゃないですか? 文学少女とか実は専門外ですし」

 そう言いながら、一枚目の写真を確認して、五十鈴は口元を引きつらせた。

「えっと……これは?」

「いや、知ってるじゃん。卯月水面さんだよ」

「彼女の脇に要らん物体が二つ写り込んでるんですがっ!?」

「ああ、それは水無月君……水無月正人君と如月与一。これは如月が写真を嫌がりまくったのに、二人に拘束されて無理矢理撮影された所だね」

「私としては女の子だけを撮影して欲しかったんですが……いや、確かに良い笑顔なんですけど……野郎は要りませんよ?」

「画像編集ソフトで消したらいいじゃん」

「この笑顔は野郎二人のドタバタありきで成り立ってるものですよ? 消したら意味ないでしょうが」

 ぶつぶつ言いながら、五十鈴はさらに写真を確認していく。

 二枚目を見て、口元を引きつらせた。

「えっと……この、ハンバーガー頬張ってる髪の毛ワカメな女性は……」

「相沢みやびさん。動作が小動物っぽくて可愛かったから撮った」

「かわ……え? 可愛いですか? あと、相沢みやびって……前年の文化祭で写真部からの喧嘩を買った上で圧勝した、我が部にとっての天敵なんですが……」

「その写真は欲しがってる人がいるから、勝手にいじらないでね?」

「……欲しい人がいるんですか?」

「新田って奴。相沢さんの彼氏」

「彼氏いるんですかっ!? これに!? このワカメにっ!?」

「男女間は顔じゃないっていう典型みたいなカップルだよ。見ててぶっ殺したくなる」

「五郎君がそこまで悪しき様に言うってことは……相当ラブラブなんでしょうねぇ」

 世の無常を噛み締めつつ、あるいは世の不条理を実感しつつ、三枚目を確認する。

「おっ……これはいいじゃないですか! 前髪ぱっつんのロリ系美少女と、委員長っぽい感じの清楚系美少女! こういうのですよ、こういうのが欲しいんですよ!」

「あの、ロリ系は実はショタ系なんだけど……ぼくの友達の古賀三日月君と、その彼女の佐々木桜子さん。なんとなく撮影した一枚だし」

「知ってましたよ! 制服見れば分かりますよ! ばーかっ!」

「気持ちは分からなくもないけど、現実は受け入れようよ……百合のカップルなんて現実には存在しないんだよ?」

「大体、なんでカップルばっかり撮影してんですか。アホじゃないんですか? コブ付きのコブは要りませんからねっ!? ったく……」

 五十鈴は三枚の写真を容赦なくゴミ箱に放り込んだ。

 もちろんバックアップは取ってあるのだが、それはそれとして五郎は少し感心する。

(百合なんだか商売に対する情熱なんだか知らないけど……すごいよね)

 情熱を持って一つのことに熱心に取り組む。なかなかできることではない。

 四枚目を確認すると同時に、五十鈴は目を輝かせた。

「おっ……いいですね。この子はなかなか……文学少女のような可憐な感じが実に良いですね! 彼氏はいませんよね? いたら五郎君を殺します」

「他人の恋愛事情でぼくの命が危機に晒されるとは思ってなかったな。今井周子さんには彼氏はいないよ。見た目に反して如月よりレベルが上の変態淑女だけどね。男子の着替えとか普通に見るし、男の子最高とか言ってる。ただし褒めるとやたら照れて可愛い」

「……えっと、こっちの進撃に出てきそうな人は……」

「進撃言うなよ。確かに身長高いけどさ……松井さんはバレー部エース……だっけ? 背が高いけどおっとりしてる。それは部活中だね」

「おっとぉ……出ましたよ! 純情そう! 可憐! 可愛い!」

「早乙女さんは料理マニアでクッキーとか配ってくれる。やたら旨いんだよね」

「ぐぎぎぎ……死ねばいいのに。死ねばいいのに……こちらの三つ編みの人は?」

「津村さん。満場一致で委員長押し付けられた人だけど口癖は『好きにすれば?』で、基本的に放置してるんだけど……地雷が一つあってね。成績に触れるとキレる」

「こっちの子は可愛いんですが……馬鹿の匂いがしますね。小学校低学年が持ってそうなキャラクターものの筆箱にでっかい赤いリボンって……」

「津村さんがキレる原因、牧村ゆかりさん。クラス一の才女で全国模試上位の常連。授業は真面目に聞いてるけど勉強はほとんどしてない。天才肌ってやつなのかな?」

「これはさっきのワカメと彼氏……ぐっ……確かに彼氏と一緒にいると可愛いかも……しかし彼氏と一緒にいないと可愛くないというのはなんとも歯がゆい……ッ」

「心を許してくれると可愛く見えてくるってのは、あると思うんだよね」

「それは俗に言うツンデレなのでは……おっ……この二人はいいですね! 今時の普通に可愛い子という感じが実に良い! こういうのですよ、こういう……の……」

 五十鈴の顔が一瞬で引きつったものになる。

 口元を引きつらせながら、ぐるりと首を回して五郎を凝視した。

「おい……植草。おい。ふざけてんですか?」

「え? な、なに? 声のトーンがすげぇ怖いしなんでいきなり名字で呼び捨て?」

「なんですかこれ!? 物理的に女性の尻に敷かれるとか、ご褒美ですかっ!?」

 五十鈴が見ていた写真は、五郎の背中に座っている今時女子の写真だった。

 それが二枚。つまり二人分の椅子になったということである。

 五郎は渋面になって、肩をすくめた。

溝口神流(みぞぐちかんな)と、横峰揚羽(よこみねあげは)は、悪ノリが行き過ぎる連中でね、ぼくだけじゃなく男子全員まんべんなく酷い目に遭ってるんだよ」

「くそっ……羨ましいっ! 求めている人間にこそイベントは発生させず、別にどうでもいいやと思っている野郎に限ってこれですもの……神ってのは不公平ですよね!」

「神様もそんな風に責められるとは思ってもいないと思うよ」

「ちなみに、どういう状況でこうなったんですか?」

「じゃんけん必勝法を試したいってことでなんやかんやあって……ぼくも負けてこうなった感じかな。ちなみにぼくだけじゃなく男子のほとんどがこれやられてるからね? 写真に撮られたのはぼくだけかもしれないけどさ」

「五郎君のクラスの男子は全員死ねばいいのに!」

「うわぁ……マジギレだぁ」

 いつものことと言えばいつものことなので特に気にしたりはしないが、五十鈴が必死過ぎて少しだけ引いた。それもまた、いつものことである。

 と、ようやく発車時間になったらしく電車が動き出した。

「くっ……あざといっ。さっきは可愛くないと一蹴した人物が別の写真になった途端に可愛らしく写るとは……こーゆーのも才能なんですかねェ。凹みますねぇ……」

「旅行が始まったのに人が撮影した写真をガン見し続けるのはどうかと思うよ?」

「おお、調理実習も撮ってあるとは! グッジョブ! エプロングッジョブ!」

「褒められてるのにちっとも嬉しくないのは、これが初めてだ……」

「しかしなんというか……好みの女性を撮れと言ったはずなのに、やたら広範囲に色々な人を撮影してませんか?」

「ちゃんと『これは可愛い』と思ったタイミングで撮影してるよ。撮り過ぎたからちょっと選別したけど、基本的にはぼくの好みが反映されていると思う……って、さっきの人間椅子画像は違うからね!? あれは空野君が面白がって撮影したやつだからね!」

「タイミングではなく『人』で選んで欲しかったんですが……ま、いいでしょう」

 ノートパソコンを閉じて、五十鈴は五郎を見つめる。

 射抜くような視線と神妙な雰囲気に、五郎は少しだけ気圧された。

 五郎の顔をじっと見つめながら、五十鈴は口を開いた。

「個人的な感想ですが、五郎君は洞察力が優れているんだと思います」

「……洞察力? 観察力となんか違うの?」

「洞察力とは『物事を見抜きを見通す力』を指します。観察力は『物事を自然の状態のまま客観的に見る力』ですね。……だからこそ、写真や絵には感情移入できない。お姉さまにも似た所はありますが『こういう風に売りたい』『こういう風に魅せたい』『実はこうしたい』という他者の意図、特に『どや? 俺すごいやろ?』みたいな自慢の意図が働いているものを見ると、冷めてしまうんじゃないでしょうかね?」

「………………」

 聞かれても、五郎はなにも言えなかった。

 なにも言えずに、心の中で『その通りだ』と認めた。

 洞察力が優れているという言葉には共感できなかったけど、『他者の意図が働いているもの』に、全く何の興味も抱けないというのは……心の奥底で納得できた。

 腑に落ちて、一分一厘、反論の余地もない。

「うん……そうだね。確かに昼に食べるサンドイッチに限りなく近いなにかとか、携帯電話の料金体系の、強力のごときゴリ押しのCMとか、見る度にイラッとするしね」

「それは一個人にイラッとしているだけだと思いますけど?」

「いや、ぐぅの音も出ないや。坪倉さんの言うことは的確だよねぇ……」

「そ……そんなことは、ありませんが……」

 こほんと咳払いをして、五十鈴は頬を赤らめながら話を続けた。

「そういうわけで……裏表のない素直な女の子とのお付き合いを推奨します」

「……平成の世にそんな女の子はいないよ」

「ぐっ……そ……そんなことありませんもん! 可愛くてドジで間抜けで頑張り屋でほんわかしてる感じの女の子は絶対にいると信じています!」

「その条件なら松井さんが合致するけどさ……確かにちょっと好みだけどさ」

「身長が人並外れてるじゃないですか。巨人に用はありません」

「身長で差別するなよ……っていうかさ、そもそも、なんで坪倉さんって百合なの?」

「女の子が好きだから!」

「そのわりには内面にこだわってないじゃん? 可愛けりゃそれで良い……ってのは確かにその通りだと思うけど、その理屈だと『女性は嫌いだけど女体は好き』って言い張る男と同じだと思うんだけど?」

「むっ……なかなかクリティカルな質問ですね……。ま、単純な話ですよ」

 肩をすくめて、五十鈴は苦笑する。

 何度も自分の中で反芻して、何度も繰り返して、結論はとっくに出ている。

 それをただ言葉に乗せるだけで済む話だった。

「巨乳は大変なんですよ。今はそうでもないですが、中学時代は本当に嫌で嫌でたまりませんでした。からかわれたり蔑まれたり、巨乳だからって理由で告白されたり、断ったら変な噂広められたりして大変でした。……カウンセリングのお姉さんが素敵だったので、女の子に傾倒しただけです。よくある、ありきたりな理由だと思いますよ」

「………………」

「今からそいつらを皆殺しに行くから、住所と名前を教えろって顔ですね?」

「なんで分かったの?」

「お姉さまは、今の五郎君と同じ表情でそういうことを言ったのですよ。さすが姉弟と言うべきか……あんまり言われたくないかもしれませんけど、本当にそっくりです」

「お姉ちゃんとそっくりとか……嫌過ぎる。しにたい」

「五郎君に死なれたら、私の今日のお昼ご飯はどうなるのですか?」

「なにが食べたいのさ?」

「……じょ、冗談だったのですが……なんか今日、羽振りがよくありません?」

「姉さんに貸してた五万円を回収しただけ。お金は使うべき時に使うべきだよね」

「………………」

 あっさりと言い放つ五郎に対し、五十鈴は背筋にうすら寒いものを感じた。

(あの姉にして、この弟ありですね。……お姉さまがやたら甘やかす理由も、欲しがっている理由も、段々分かってきましたよ)

 ボンクラではない。美恵子相手に一歩も引かない男を、ボンクラとは呼ぶまい。

 あえて言うなら……悪辣ヘタレ? だろうか? それも微妙という気はするが……。

(少なくとも、襲われるようなことはないですよね……)

 そんなことを思いながら、五十鈴は車窓から外の景色を眺めた。

 外は快晴。景色は穏やかに流れて行った。



 電車に乗る時間はそこそこ……というか、かなり長かった。

 九時半に出発して温泉宿に到着したのは午後の三時。そこそこの長旅で疲れた五郎はとりあえずさっさと温泉に浸かろうと思っていた。

「…………あれ?」

 二人が案内されたのは、そこそこ広い部屋だった。

 荷物を置いて、五十鈴は早速景色を堪能していた。

「おー……結構良い部屋じゃないですか。景色が良いのは温泉宿としては普通なのかもしれませんけどね。とりあえず、一休みしてから温泉入りに行きますか?」

「あの、坪倉さん……ちょっと待って」

「なんでしょう?」

「なんで同じ部屋なの?」

「お姉さまのやることですから……っていうか、聞いてなかったんですか?」

「聞いてないよ! ……ああ、はいはい。最低限の貞操観念くらいは持ち合わせてるだろうって、姉さんに淡い期待を抱いていたぼくが馬鹿だったってことだよね……」

 弟とキスをしようとする姉である。その程度は予想しておくべきだったのだろう。

 まさか他の女性でこういうことをやるとは、思っていなかっただけで。

(まぁ……独りでも二人でも同じか。特になにが起こるわけでもなし)

 溜息を吐いて気持ちを切り替えて、温泉に入ることにした。

 温泉といっても普通の硫黄泉である。男風呂の前で五十鈴と別れ、脱衣所でさっさと服を脱ぎ、卵が腐った様な匂いのする硫黄泉の露天風呂に体を沈める。

 顔を洗って息を吐き、空を眺めて、再び息を吐く。

「……なんで緊張してんのかね、ぼくは」

 体の力を抜こうとしても肩に力が入っている。その事実に呆れつつ、息を吐く。

 見上げた空はどこまでも青く広い。小さな自分を嘲笑っているように見えた。

「新田君や三日月君なら……関係を進展させようとするのかな……」

 ぼんやりと、そんなことを呟いて、彼女持ちのクラスメイトのことを思い出す。

 連休になるまで写真を撮ってきた。写真を撮りながら聞いてみた。

 なんでそこまで『好きな人』に対して一生懸命になれるのか……おふざけ半分で、本気を悟られないように、聞いてみた。

『そりゃまぁ……惚れちまったから仕方ねーよ。古賀もそうだろ?』

『そーだけどさ、多分ゴロはそういう意味で聞いてるんじゃねーだろ……おれにも上手く説明できないけどさ』

 二人の回答は曖昧だった。曖昧でよく分からないので、写真だけ撮った。

 仕方なく、敵に聞いてみることにした。

 あまり聞きたくはなかったが、敵はいつでも腑に落ちる回答をくれるのが常だった。


『そりゃ、自分が好きだから一生懸命になれるんだよ』


 コーヒー牛乳を奢ってやると、敵はあっさりとそんなことを言った。

 神妙でもなく、極々当たり前のように、牛乳を飲みながら、世間話のように言う。

『無私、無我、懸命、熱血、夢中……言葉は色々あるけど、それら全ての根幹には『自己愛』があるもんさ。『それが好き』ってのも、もちろんあるけど、『それが好きで夢中な私が一番大好き』ってのが、心の奥底の根幹にある』

 目を細める。息を吐く。

 敵はいつも通りに、真っ黒い瞳をこちらに向けて、吐き捨てるように言った。

『ただ……自分が大好きなんてのは、本当は当たり前のことなんだよ』

『当たり前だから、新田と古賀ちゃんには理解できないし説明も無理だ』

『自転車の乗り方を体で覚えてる奴は、いちいち頭で理解したりはしないもんさ』

『迷っても惑っても、自分の心の咆哮を聞き取って行動できる奴は、結局自分のことが好きなんだと僕は思う。それが当然で当たり前で……普通のことだ。自己愛だのなんだの、知識で理解しなくてもいいことなんだよ。言葉じゃなくて魂で理解すべきことなんだ』

 じゃあ、ぼくは永遠に理解できないってことか。

 自分のこと大っ嫌いだしね。

 あと、話が長いしなんか魂だのなんだの面倒な言葉が多い。こーゆーのはもっとテキトーで馬鹿にも分かりやすい感じに誤魔化してもいいんじゃない?

 本音で話しても、引かれるだけで理解なんてしてくれないよ?

『植草じゃなきゃ話さないよ。少なくとも新田や古賀ちゃんには聞かせられない。奥山さんだって同じことを言うだろうさ。植草はヤンデレや僕に信頼を寄せられているという事実を、もうちょっと重く捉えた方が良いと思う』

 は? なんでさ?

 ヤンデレてようが奥山さんは普通の女の子だし。

 如月は馬鹿でエロい普通の男だろ。

 毎日違う女の子の匂いさせたり、頭にぼくにしか見えてないマスコット乗せてるのは変わっているのかもしれないけど……それ言い出したら、誰も彼も同じだろ?

 誰も彼もが違うけど、誰も彼もが同じだとぼくは思う。

 肝が据わってる奴は、結構好きだけどね。

『以前、植草に『如月は敵だ』って言われた気がするけど……』

 そんなもん気に病むなよ。

 ぼくが一方的に敵視してるだけだ。ぼくが勝手に憎んでるだけさ。

 如月は良い奴だし、ぼくもそう思ってる。

 だから、とっとと誰かとくっついて幸せになってしまえ。鮫島さんとかオススメ。

『……植草。僕の姉貴と妹、好きな方を紹介してやる』

 嫌だ馬鹿野郎。

 如月のお姉さんと妹さんに迷惑がかかるだろうが。そういう軽率なことはやめろ。


 そんな、下らない日常会話を思い出しつつ、五郎は湯船から上がった。


 体と頭を洗って、再び湯船で体を温めて、適当な所で温泉から上がった。

 タオルで体を拭きつつ浴衣に着替えて、売店で飲み物を買って、部屋に戻る。鍵は五郎が持ち歩いているし、部屋に戻っても五十鈴はいなかった。

「長風呂だって言ってたし……女の子なら普通なのかな」

 よく分からない。姉は長風呂だが、母親はすぐに上がる。髪の長さも関係があるのかもしれないが、それ以上考えるのはやめた。

 買ってきたノンアルコールの缶ビールを開けて、自分の鞄から焼き鳥缶を取り出して開ける。五郎はおつまみ系の缶詰が結構好きだった。

「……はぁ。良いお湯だった」

 息を吐いてテレビを点ける。毒にも薬にもならない番組に回し、体の力を抜く。

 オヤジ臭いとは思ったが、誰にも邪魔されない一人の時間は心地良い。

 と、そんな風に思っていると、部屋のドアが開く音が響いた。

「ふへぇ。硫黄泉って意外と温まりますねぇ。もう限界ですよぅ……」

「……お帰り」

 独りの時間終了。さぁ、地獄の時間の始まり始まり。

 五郎はそんな風に思いながら胸の中でゴングを鳴らす。戦いはここから始まる。

 ちらりと、さりげなさを装いつつ五郎がテーブルに広げているものを見つめて、五十鈴は目を細めて喉を鳴らした。

「おっ……焼き鳥なんて売ってましたっけ?」

「ぼくが勝手に持ち込んだんだよ。食べる?」

「いただきます。私は売店でイカ軟骨と柿ピーを買ってきました。よかったらどうぞ」

 温泉で上気した横顔やらなにやら、色々と理性がぶっ壊れそうになる要素を全て胸の内で圧殺し、五郎はイカ軟骨を口に放り込みつつ、ノンアルコールビールを飲む。

 五十鈴の横顔を素直に可愛いと思ったが、その感情すら抹殺した。

「んん? もしかしてそれはビールですか?」

「ノンアルコールだけどね。生徒会メンバーの前で堂々と飲むほど豪胆じゃないよ」

「ふむふむ、なるほど……殊勝な心がけですが、私は生徒会の中では贈収賄に弱い女として、そっちの筋ではわりと有名なのですよ? 一番の不良は空野君とお姉さまですが、二番目は私だったりするのですよ?」

「素直に飲みたいと言えば、ぼくの口も固くなり、財布の紐も緩むかもしれないね」

「ビール飲みたいです」

「んじゃ、ぼくのぶんもよろしく」

「ヒャッホー! ありがとうございます! ありがとうございます!!」

 千円札を渡すと、五十鈴は目を輝かせつつ、スキップしながら部屋を出て行った。

 甘い匂いが部屋に残っていたが、五郎は感情が発生する前に全て殴殺した。

 窓を少し開けて残り香を追い出す。もちろんそんなことに意味はないし気休め以下にしか過ぎないのは、五郎も分かり切っている。

 だが、好感度100の姉と共同部屋で四年間耐え続けている男は、慣れていた。

 己の情動を殺す術。気休め以下を積み上げることの意味。

 五郎は知る由もないが、五郎のクラスメイトが一週間程度で音を上げたことを、彼は四年間続けている。その鋼鉄の自制心は並ではなかった。

 五分もせずに五十鈴は戻って来た。

「イェーイ! ルゥービィー様のお通りですよー! ついでにおつまみ追加です!」

「あ、これ絶対にお釣りとかないね。千円いっぱいいっぱいまで使い切ったね?」

「まぁまぁ、固いことは言いっこなしってことで。私もちょっとお金出して、高いおつまみを買ってきました。お肌の天敵、体脂肪の味方、鱈チーズですよ!」

「テンション高いなぁ!」

 ツッコミを入れつつも、五郎は自分のぶんのビールは、ホテルの飲み物を冷やしておくために設置してある冷蔵庫に、ちゃっかりしまった。

 五十鈴は満面の笑みを浮かべつつ、缶ビールを開けた。

「んぐっ……んぐっ……んぐっ……ぷはぁ! やっぱり風呂上りはこれですね!」

「坪倉さん、お酒好きなの?」

「祖父の影響ですね。お酒は不老不死の妙薬と言われていますし」

「お酒を過大評価し過ぎだよ! 精々百薬の長くらいなもんだからねっ!? とりあえずお酒が大好きっていうのは分かったけどさ、薬でもなんでも飲み過ぎは駄目だよ?」

「まだ一本目じゃないですか」

「飲み過ぎるペースで飲んでるから注意したんだけどねっ!? 頼むから二本目以降は夕飯の後にしてくれないかなっ!?」

「むぅ……確かにそうですね。鞄の中に日本酒を詰めてきましたが、あれも夕飯の後にゆっくりと飲むことにしましょうか。ところで、五郎君はお酒は好きなんですか?」

「うん。現実逃避にはもってこいだよね」

「その飲み方はすごく危険ですよっ!?」

「家だと禁止されてるし、普段はお茶ばっかり飲んでるから大丈夫。お姉ちゃんに言わせるとわりと強い方らしいんだけど……度を過ぎた飲み方もしてないと思うし」

「それならいいのですが」

 言いながら、あっさりと二本目を開けて口に運ぶ五十鈴だった。

(面倒なことにならなきゃいいけど……)

 酔っ払いに絡まれると我慢や手加減ができそうにないので、五郎は慎重に行動することに決めた。

「しかし……意外と言えば意外ですねぇ。私はてっきり、五郎君はお酒を飲んだりはしないものだと思っていましたが……」

「姉さんの前で飲まないだけで、ぼくも普通の高校生だからね……」

「おや、お姉さまはアルコールが苦手なので?」

「お姉ちゃんが飲む時は独り飲み限定。酒を飲んだ他人に絡まれるのが心底嫌なんだってさ。修学旅行の時に酔っ払った桜庭先輩に絡まれた時、ベランダに叩き出して寝たって言ってたし」

「ああ……確か、お二方が帰って来た後にギスギスしてましたね……」

「そこまでやらなくてもいいだろうとは思うけど、どうしても我慢ならないことは人によって違う。地雷を踏んだら誠心誠意謝るしかないんだよね」

「五郎君はそういうのありますか?」

「……無茶振りが、ちょっとね。特に『なにか面白いことやれ』が死ぬほど嫌いでさ」

「ほ、ほぅ……それはまた、危なかったですね……」

「あれ? もしかして言うつもりだった? 冗談半分で言うつもりだった? ぼくは酒の席だからこそ容赦ない人間だよ?」

「ちなみに、それを言ってしまうとどうなるのですか?」

「親戚のおじさんのカツラを外した時は、ちょっと悪いと思ったな……」

「あはっ……あはははは……」

 笑いが空回る。『ちょっと悪い』とは言っているが、五郎の表情には微塵も後悔といったものはない。むしろ『ざまぁみろ』といった感じの黒い怨念がにじみ出ていた。

(怖っ! やっぱりこの男、間違いなくお姉さまの弟ですよ……っ)

 お酒は控え目にしておこうと、五十鈴は誓った。

「坪倉さんにはそういうのないの? これやられたらキレる、みたいなさ」

「んー……写真撮ってる時に邪魔されたらキレるかもしれませんね。昔はまぁ……胸に視線を向けられるだけで半ギレでしたけど、それはもう仕方ないことですしね」

「女の子は大変だよね」

「いや、私や普通の女性より五郎君の方が絶対に大変だと思いますけどね?」

「坪倉さんが姉さんとくっついたら、ぼくの代わりに大変になるのか……あれ? そう思った途端になんだか心が軽い。清々しい……すごく清々しい気持ちだ」

「明らかに生贄ですよねそれ!」

「そもそも、男どもがだらしなさ過ぎるんだよなぁ……意中の女への告白が成功したからって辛抱が足りなさ過ぎるんだよ。ヤりたいのは分かるけど四年くらい我慢しろよ」

「百合から見ても四年はキツ過ぎると思いますが!?」

「実際キツいけど我慢しろよ。ぼくはしてる」

「いや、五郎君は実の弟ですし、社会倫理的な意味でブレーキが利くので……」

「そうだね。ノーブラで風呂から上がって来て『五郎ちゃん頭拭いてー』とか言う女相手に自制が利いているのは、社会的倫理観のおかげみたいな所があるしね? ああ……いっそのこと坪倉さんに代わってもらって、ぼくは旅に出るのも手なのかな……」

「そ……それより夕飯はなんでしょうね? なんだかんだで期待しちゃってもいいんでしょうかねっ!? あ、あはははははははっ!」

「ヘタレズめ」

 ヘタレズと言われようが、クソ百合と言われようが、道徳や倫理に反しかねないヤバ過ぎる話に踏み込む覚悟など五十鈴にはない。笑って誤魔化すのが精いっぱいだった。

 あと、こういう話をする時の五郎は地味に目付きが荒んでいて怖い。

(普段は結構いい感じなのですがね……)

 それだけ追い詰められている証拠なのかもしれない。そんな風に思った。

 五郎は少しだけ溜息を吐き、いつもの『結構いい感じ』の表情に戻った。

「夕飯はバイキングだって。六時くらいから食べられるみたいだけど、どうする?」

「七時まではダラダラしてましょうか。それともゲームでもします?」

「坪倉さんのオススメのゲーム、買ってみたんだけど頭おかしいよね……」

「美少女フィギュアからパーツ強奪してるだけです。アーマーブレイクがあるだけです。モンスターぶっ殺して素材を剥ぎ取るのと理屈は同じですよ?」

「アーマーブレイクねぇ……要するに、追剥ぎだよね」

「アーマーブレイクです」

 そんなこんなで……妙な所にこだわる五十鈴とゲームをやって時間を潰し、七時になったら食堂で夕飯を食べた。

「五郎君、ローストビーフ食べ過ぎじゃありません?」

「ちゃんと野菜も食べてるから問題ないと思うけど」

「……それだけ肉を食べてるのに、この腕の細さは一体……」

「昔からどう足掻いてもスタミナと腕力だけは付かないんだよね……なんでだろ?」

 当たり前のように話して笑って、夕飯を済ませた。

 部屋に戻って、ゲームをしながら酒を飲み、適当に笑い、時に愚痴って、薬にも毒にもならない、有益なことはなにもない、無益だけど五郎にとっては楽しい時間だった。

 こうやって、姉以外の誰かと一緒にはしゃぐのは新鮮だった。

 悪戯っぽく笑いながら、五十鈴は五郎にこんなことを聞いてきた。

「そういえば……五郎君って友達いるんですか?」

「いるよ。失礼なことを言うなよ。……向こうはどう思ってるのか知らないけどさ。生徒会の空野君とは、結構仲良く飯食ったりしてるよ」

「……想像を絶しますね。空野君が五郎君と……」

「生徒会じゃどういう評価か知らないけど、ウチのクラスだと空野君は大層な問題児なんだけどね。一年の頃とか洒落にならなかったもん。龍崎さんと喧嘩したりさ」

「げっ……マジですか? 龍崎火難と? ウチの学校の要注意人物じゃないですか」

「そもそも、生徒会って要注意人物に対応できるように武闘派で構成してるって姉さん言ってたよ? 空野君は歩く凶器みたいな奴だし、荒瀬先輩は拳が人を殴る仕様になってるしさ、桜庭先輩は人に間接極めて喜ぶサディストだし」

「桜庭副会長は良い人ですよ? 私、副会長から護身術とか習いましたし。『五十鈴は女性として隙が多いから男に襲われたら使いなさい』とかなんとか」

「……それ、もしかして狙われてるんじゃない? 百合的な意味で」

「そんなわけないじゃないですか。普通に引きますよ、それ」

「百合のくせに同類には厳しいってどういうことなんだろうね……訳が分からないよ」

「人に憧れてキャーキャー言ってるような女は、ステータスを攻撃に極振りしてるようなもんですからね。防御がからっきしで迫られると逆に困ってしまうのです」

「客観的に他人事のように言ってるけど、今の状況でそーゆーことを言うとぼく以外の男だと普通に迫られるんじゃない? 自分から弱点バラしてどうすんのさ?」

「……おや?」

「女性として隙が多いってのも、あながち間違いじゃないのかもね」

「ふ、ふん! いいんです! どーせ五郎君以外には話しませんし! 五郎君なら襲われてもぐーパンで解決できるって、お姉さまも言ってましたし!」

「ウチのお姉ちゃんの言うことを真に受けちゃ駄目だよ? アホになるから」

「ま、真顔でツッコミをされるとは……」

「大体、そう言う坪倉さんこそどうなのさ? 友達いるの?」

「付き合いは浅く広くって感じですね。本性を見られたら普通に引かれます。……ま、所詮はマイノリティですからね。本音で語り合う友達なんていませんよ」

「ぼくがいるじゃん?」

「……いやまぁ、五郎君を友達と言っていいのかは微妙ですが……」

 照れ隠しに五十鈴は日本酒を飲んだ。気恥ずかしいと言えば、気恥ずかしい。

 さらりと言われた一言を、喜んでいる自分がいるのが……恥ずかしい。

(ぬぅ……五郎君のくせに生意気な……)

 パタパタと手で顔を煽ぎながら、ピーナッツを口に放り込んでヤケクソ混じりに思い切り噛み砕き、ビールで流し込んだ。

 と、そこで、五郎は不意に神妙な顔つきになって、口を開いた。

「坪倉さん。ちょっと頼みごとがあるんだけど、いいかな?」

「な……なんですか? 一発ヤらせろとか、そういうエロス方面はなしですよ?」

「誰がンなこと言うか! じゃなくて……旅行が終わってからでいいからさ、勉強教えて欲しいんだよ。中間はなんとか凌いだけど、期末が本気でヤバそうだから」

「私よりお姉さまの方が圧倒的に頭良いですよ?」

「そのお姉さまが邪魔で、家じゃ勉強できないんだよ」

「……ちょっと待って下さい」

 五郎は嘘やブラフを使うタイプの人間ではない。良くも悪くも素直だった。

 五十鈴にもそれは分かっている。一週間やそこらの付き合いではあるが、目の前の男は親しい人間に嘘を吐くような男ではない。あえて言わないことは数多あるだろうが、他人が不愉快に思うことを心にしまえる男だということも、五十鈴は分かっていた。

 少なくとも『ぼくがいるじゃん』と言えるような相手を、悪しき様には言わない。言ったとしても言い慣れた悪口だけだ。こっちが反論できる程度の、軽口だ。

 だからこそ、五十鈴は違和感を感じ取っていた。

「お姉さまが邪魔って……どういうことですか?」

「ストレスなのかなんなのかは分からないけど、試験期間になると異様に甘えてくるんだよ。勉強しようとすると『私と勉強とどっちが大切なの?』とか、滅茶苦茶言うし。……家で勉強できないから仕方なく図書館とかでやってるんだけど、そもそもぼくの頭の性能が微妙だからね。試験結果は毎度のごとくボロボロですよ」

「………………ッ」

 ここに至って、ようやく五十鈴は納得した。納得できた。

 五郎の頭は確かに良くはない……しかし、決して悪くはない。馬鹿ではない。

(足りないのは後半の追い込み。常日頃の勤勉さでそれをカバーしてただけ)

 勉強時間を奪っているのは、明らかに彼の姉だ。

 邪魔なのは当然だ。美恵子は明らかに『勉強の邪魔』をしている。意図は分からないが邪魔を続けている。五郎は自分の時間を削って成績をカバーする。悪循環が続く。

 いや……そもそも、最初からそうではなかったか?

(私は、それに気づいていました……よね)

 悪循環。閉じた人間関係。五十鈴はそれに気づいていながら見て見ぬふりをした。

 関係ないと切って捨てて、高みの見物を決め込んで、少しどころかかなり羨ましいと内心で嫉妬しながら、五郎の話を『話半分』程度に聞いて、自分なりに真剣ではあったけど他人事としてアドバイスをしていたのではなかったか?

 やり過ぎだと美恵子に言ったが、それだけでなにもしなかった。

 言われただけで、あの美恵子が自分の行為を悔い改めるわけがないのに。

(私は、私なりに精一杯、ちゃんと考えて……っ)

 心の中で言い訳をする。悪くはない。当たり前だ。『他人』としてやれることはやっている。少なくとも五郎のためになにかしてやろうとは……思った。

 それでも、心には罪悪感が突き刺さる。ちくちくぴりぴりとした、執拗な痛み。自分のことを友達と思ってくれる誰かを見捨てているのだという、切なる痛み。

 他人なら見捨てられる。友達は見捨てられないという、当然の痛み。

「坪倉さん、どうしたの? なんか、怖い顔してるけど……」

「いえいえ……なんていうか、お馬鹿に勉強を教えた経験がないもので、はてさてどうしたものかと思っていたわけですよ。私自身、あんまり勤勉な方でもないですしね」

「や、ちょっと考えておいてってだけの話だから。旅行中に無粋な話だったかな?」

「学生の世間話としては、ちょうどいいですよ」

 それでも、心の痛みとは裏腹に、口は勝手に動いた。

 勝手に動いて、勝手に笑って、いつも通りに心を置き去りにして、ぺらぺら喋る。

 それは五十鈴が生きて行く上で身に付けた技術。心の痛みに振り回されずに、周囲に溶け込むための術。

(……私は、心底嫌な女ですねぇ)

 その技術を、初めて心の底から嫌悪した。

 自分が嫌いになりそうなほど、嫌悪した。



 夜は更ける。当然のごとくなにも起こらない。

 色っぽいことはなにも起こらない。

 なにも起こらないが起こりながら、二泊三日の旅は続く。

なにも起きません。当たり前です。節度ある旅行なんですよ?

……そういうわけで、次回に続くww

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