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月に咲く花

作者: 広河陽

 この世界でユカリが心から安らげる場所が、ひとつだけある。熱帯魚の水槽の側だ。

 ユカリは、自分の心にさざなみが起こるのを感じると、部屋の照明を落とし、水槽の傍らに両膝を抱えて座った。水槽からにじみ出る冷気が少しずつ体にしみて来るのを感じながら、ひたすら水音を聞く。水音は、魚たちのためにポンプが水中に気泡を放つ音だ。

 が、ユカリにとってその音は、幼い頃に聞いた母の子守唄であり、遠く離れた所にいる恋人のぬくもりだった。

 時が一瞬もとどまらず、永遠に向かって確実に流れていることを途切れることのない水音で実感できる、安心できる場所。それが、水槽の側。

 その場所で、ひとしきり膝を抱えた後、ユカリは唇をかすかに動かして小さな声でこう呟くのが常だった。

「人は必ず変われる。時間の流れと共に。絶対に」

 3年が経った。

 ユカリが兄のハルヒトと月に住むようになってから。

 ユカリがカケルに出会ってから。

 ハルヒトが心を閉ざしてから。

 ――そして、ミチルが姿を消してから。


 ユカリが月でハルヒトと一緒に暮らす前、ハルヒトと暮らしていたのはミチルだった。

 ハルヒトとミチルが出会ったのは、月面上に建設されたドームの中だった。そこは月面環境を研究する二人の職場でもあった。

「ユカリ、俺、同僚と結婚して月に住もうと思うんだ」

 ひさしぶりに月と地球間の星間長距離電話を使って、弾んだ声で言うハルヒトに、ユカリは「おめでとう」とか、ありきたりの祝いの言葉を言ったと思う。

 表面は嬉しそうに、しかし、気持ちがこもらない言葉を。

 兄の結婚の報告を喜べなかったのは、判っていたからだ。

 月のような新しい環境に住むのを志願するなんて人体実験だ、と、両親が反対するだろうこと。そして両親を説得する役目を自分が果さなければならないこと。

 兄の幸せを願う妹として、兄の決断には反対したくはない。でも、瞬時に役目を自覚していたから、祝いの言葉に喜びの気持ちだけを込められない。

 やはりユカリの思った通りに両親は兄の結婚に反対し、ユカリは忍耐強く接して両親を納得させることになる。星間長距離電話から4ヶ月目のことだった。

 両親の承諾を得て、ハルヒトは月に家を持った。

 そんな頃にユカリは、ハルヒトとミチルに会うために月に来たことがある。

 星間シャトルに乗って月ターミナルからバスで、新設されたばかりの居住エリアへ。その外れに二人の家はあった。

 ほんの二階建ての小さな庭付きのこじんまりとした家。

 それが、ユカリの正直な感想だ。

 フィアンセのミチルが望んだというその家は、前世紀の遺物となった「庭付き一戸建て」の家。地球では、家と言えばマンションという巨大な構造物の一室を指すのがあたりまえの時代だった。

 庭には植物学の研究をしているミチルが研究室から分けてもらってきたという名も知れぬ木が一本、植えられていた。木は、秋に設定されたドーム内の季節に合わせて、落ち葉を落としていた。

「木は面倒くさいんだ、本当に。若葉の時期には毛虫がつくし、こうして秋になれば落ち葉だし。落ち葉はまとめて掃いて寄せておかないと、隣の家に迷惑をかけることになるし」

 ぶつぶつ言いながらハルヒトは、ほうきで庭の落ち葉を掃いている。

 すると義姉になるはずだった新米の植物学の研究者は言った。

「木だって、動物並に手をかけないといけないの。それに、こうして掃き集めた落ち葉は腐葉土になって、庭の植物たちの栄養にもなる。木はこれで、ひとつの世界なのよ。無駄なものなんて何もない」

 木と、未来の夫になるはずの人をみつめる優しいまなざしは、ユカリの中でミチルに関する唯一の記憶となった。

 3年前のあの日、地球に住むハルヒトの両親と妹であるミチルに会うため、ミチルは月から地球へのシャトルに乗った。そして、月と地球の間でシャトルごと消えた。原因不明の事故、としか言いようがなかった。

 葬儀の列にミチルの親族として、彼女の弟のカケルが並んでいた。それがユカリとカケルの出会いであり、その後、二人は互いに惹かれるところがあって、約束を果たせなかった兄と姉に代わってというわけでもないが結婚の約束をした。

 人は必ず変われる。時間の流れと共に。絶対に。

 忘れることは罪でも裏切りでもなく、生きていくための知恵。

 そう信じていなければ、ユカリは大切な二人の男性の心を思うと、ただ辛くなってしまう。

 ミチルと言えば、木とハルヒトをみつめていたあの優しいまなざしをユカリは思い出す。そのまなざしに支えられて生きてきたであろうハルヒトとカケルにとって、ユカリがいなくなってからは生きることは辛かっただろう。

 だからこそ、決してミチルの物に手をつけようとしない二人に代わって、ユカリはミチルの遺品を整理し続けてきた。

 3年経った今では残っているのは家と、庭の木だけ――。


「兄さん、あの木、切った方がいいと思う」

 ユカリはそう言い続けて来た。

 その度にハルヒトはこう言い返すのだった。

「彼女が言っていたんだ。木の手入れがどんなに大変でも3年は頑張っていこうと。春になれば、この木はすばらしい素晴らしい贈り物をしてくれる、と」

 しかし、3年目の春に変わったことは起こらなかった。

 ユカリは、ミチルの同僚だったという植物学研究者に木を診てもらったことがある。

 診断はこうだった。

「これは桜という名前の木で、春に花を咲かせるはずなんだ。花は古来から色々な歌に読まれ、物語にされるだけのことがあって、綺麗だよ。しかし、この木に花は咲かなかった。この状態だとこれから先も咲かないと思う。月という、地球とは違う環境のためかもしれない」

 ユカリはフィアンセのカケルに言った。

「お姉さんの木、切ろうと思うの。花が咲かない木を兄さんがこれから先も世話をし続けるのかと考えると……いたたまれない。お姉さんには申し訳ないけど、木を切って、兄さんを開放してあげたい。あの木がある限り、兄さんはミチルさんにしばられたままだと思う」

 月-地球間の星間長距離電話の向こうで、カケルはしばらくの沈黙の後、言った。

「木を切ったから亡くなったあの人を忘れられるとはいかないだろうけど、ユカリの気持ちは判ったよ。俺からも兄さんに言ってみる。兄さん以外にあの人の関係者と言えば、俺くらいしかいないだろうから」

  ハルヒトとカケルは、ミチルの誕生日でもあるクリスマスの日に木を切ることに決めた。


 クリスマスの前の何日間かを、ユカリは月から離れ、地球で過ごした。それは自分の結婚式の準備のためだったが、ハルヒトと桜の木の最後の時間を邪魔したくなかったからかもしれない。

 地球に帰っていたユカリが、カケルと共に月に戻ってくると、思いがけず、ハルヒトがステーションまで迎えに来ていた。

 しかも、3年前のあの日以来、笑顔を忘れてしまったかと思っていたハルヒトが、わずかに笑顔に近い表情を顔ににじませている。

「兄さん、いったい何があったの?」

 訊ねるユカリにハルヒトはただ、「もうじき判るよ」とだけ答えた。

 ユカリは困ったようにカケルに顔を向けたが、カケルは「妹の君にわからないことは他人の俺にはわからないよ」とユカリに耳打ちした。

 ハルヒトは自分の楽しい考えに耽っているようで、二人の様子にも気づかず住居エリアに向かうバスの窓から外の景色を眺めていた。

 近づいてくる家の外観に、ユカリとカケルは歓声を上げる。

 庭の一角にはうす桃色の雲のようなものがかかっていた。その場所には、桜の木があるはずだった。

 桜の花が咲いたのだ。

 バスを降りると3人は誰からともなく庭の桜の木に向かった。

 ハルヒトは桜の幹にそっと手を触れると言った。

「植物学研究者は、奇跡と言っていたよ。本来、春に咲くはずの桜が、冬に設定されたドームの中で満開になるだなんて」

 ハルヒトの口調はどこかしら誇らしげで、桜の木をみつめるまなざしは、この上なく優しいものだった。ユカリの頭の中で、ハルヒトの姿があの日のミチルの姿と重なって見えていた。

 立ちつくしていたユカリは、一歩踏み出し、桜の木に近づいた。

「ミチルさん……姉さん、私、カケルさんと結婚します」

 満開の桜の木に結婚の報告をするユカリに、ハルヒトもカケルも違和感を持たなかった。

 桜がうなずくように、揺れた。

 3人には、そう思えた。


 それから一週間ほど経ち、桜の花は新しい年になるのを待たずにすっかり散ってしまった。それどころか木自体が力尽きたかのようにあっという間に枯れた。


 ユカリは、カケルとの新居を月に持ち、その庭に桜の木を植えた。

 いつしか桜の木の下で、ぼんやり時を過ごすのがユカリの日課になっていた。そこが、ユカリがこの世でいちばん心安らげる場所になっていた。


Fin

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