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王道嫌いの薬師は異界で神を嘲笑す  作者: N氏
【壱の章】薬師は異界を睥睨す
7/9

第陸話 薬師は時間の裁量にありとあらゆるモノを委ねる

 俺はこれまでとは違い巨大で装飾も豪華な娼館を見つけたとき、裏路地を抜けた。

 体中に腐敗しきった匂いがこびり付いている様な気がしてならない。

 匂いを落とす様に軽くローブを叩きながら盛大に篝火の焚かれている建物へと入る。

 明るい店内は火を使われておらず、魔法の明かりが天井から店内を煌々と照らしている。

 店内は扇情的な赤を基調としている、灯りも、絨毯も。

 更に、微かに嫌な気分にならない、寧ろ清涼感すら感じるスッキリした甘い香が焚かれているようだ。

 流石高級娼館と言うべきか赤を使っていたり香を焚いていても嫌味な感じはせず上品な、いや、寧ろ情欲が静かに掻き立てられる。

 そういう目的で来たわけでもないのに俺の中にもかなり小さくだがそういう欲情の火が灯る。

 しかし、己の欲を満たすことより重要な用事がある事を忘れた訳ではない、直ぐにその火を理性で消し止める。

 店内の空気を深く吸い込まないように気を付けながら、俺は赤い絨毯の敷かれた道を、奥に向かい歩む。

 入り口周辺の道は無人のように見えるが、所々に点在する柱の影に従業員らしき人影がそれぞれ隠れ、こちらを監視している。

 中には屈強な体格の持ち主もおり、剣をぶら下げている者もいる。

 きっと、真っ正面から向かっていっても敵わないだろう。

 【解析(アナライズ)】で見たら俺の方が能力は高い、だが、俺が思うにこの数値はあくまでポテンシャル……、潜在能力、その個体の限界なのだと思う。

 そう、鍛えれば、本気で努力し続ければそこまで行けると言うだけで、常に、努力もせずにそれだけの力を出せるわけではない。

 そうでないと、扶助ギルドで男達の急所を蹴り上げた時にそれこそ雄として死ぬ事態に陥っていたはずだ。

 もっとも、元々足は鍛えてあったから手加減していたのもあるだろうが。

 ともかく、此方をぶしつけに眺めてくる視線を無視しつつ、堂々と進んでいく、俺は犯罪者でもない、金も持っている、恥じる必要は無い。

 ……、門番を買収……、もとい罰金の先払いをしたことに関してはしょうがない。

 ともかく、こういう場所へはこのフードのように顔を隠しながら入店する人間なんてそれなりにいるのだろう、柱の影からこちらを見ている奴も一切動揺する様子もない。

 高級という事はそれなりの身分の奴も色に耽りに来るというわけだ、顔を隠しておかないとまずいのだろう。

 そして、ある程度進むと店の従業員、というには派手だから概ね副支配人辺りだろう、結構上質な服を纏った長身の男が傍らに屈強な男を二人連れこちらへと歩いてきた。

 髪の色は薄い緑、軽く頬が削げている。

 俺は歩調を落としゆっくりとその男へと近づく、といっても進行方向に居ただけで向きを変えたわけでもないが。

 男が立ち止まり、俺もちょうどいい位置で立ち止まる、近づいて見てみると男は長身痩躯という言葉が相応しいほど痩せており、髪もぱさぱさ、深い緑の瞳は落ち窪んでいる。

 しかし、食べていないという訳ではなく、過労気味ということで痩せているようだ。

 その痩身の男の口から、結構高めの声が漏れる。


「ようこそ、薄紅の鮮華へ」


 腰を軽く曲げながら発せられた声は高いのにどこか重く、威圧的な色を帯びていた。

 俺は何かを言うわけでもなくただ小さく頷いた。

 それを見て男はゆっくりと腰を戻すと「用件は何ですかな?」と聞いてきた。

 俺は躊躇わず、こう告げた。


「身請けをしたい」


 その言葉に男は右眉を跳ね上げた、器用な奴だ。


「ほぉ? 誰の使いかは存じませんがうちの華達は全員お高いですよ」


 軽く落ち窪んだ瞳はこちらを品定めするかのように細められ、声に含まれる威圧の色も強くなる。

 しかし、これぐらいどうと言う訳でもない。

 俺は軽く肩を落としながらローブから見える口元をニィッと吊り上げる。


「高い華を摘み取ろうという訳ではない、枯れかけた花を分けてもらいに来た」


 そういうと男は呆気に取られたと言わんばかりに目を開いた。

 背後に控えている屈強な男達にも、柱の影でこちらを伺っている従業員にも軽い動揺が走る。

 わざわざ枯れかけた華、つまり死を待つだけの娼婦を引き取ろうなんて言いに来た男、それだけなら質の悪い娼館で買ったほうが遥かに安い。

 しかし俺はそのことを疑念に思う前に畳み掛ける。


「かつて一番綺麗だった華に会わせてもらえないか、金は弾もう」


 そういい、影で紅ロット二枚を取り出し、見せ付けるかのようにその二枚を手の中で揉む。


「は、はぁ……、お客様がお求めになられているのは……」


「アリスリアという名前だ、唐突ですまない、どうしても買い取りたいんだ」


 相手が誰かの使いと誤解しているのならそれを利用しない手はない。

 俺が誰かの使いだということを誤解させるような発言に、痩身の男はどこか哀れむ様な目を向けてきた。

 しかし、俺は周囲の空気が妙な空気になっていることに気が付いた。

 当然だ、病気か何かでもう表に出られない娼婦を求める奴なんかそうそういない、だからこれ以上疑われる前に軽い事を言って煙に巻くことにした。

 俺は両手を肩の高さまで上げて小さく息を吐きながら首をヤレヤレといわんばかりに横に振る。


「酔狂だろう? いつの御時世も上の方の考えは分からない、そうだろう? 分かるなら早く案内してくれませんか? 首が飛んでしまうかもしれないからな」


 少年が目覚めたときに側にいないと周囲一体が焼き滅ぼされそうという意味だが、痩身の男はちょうどいい具合に誤解してくれたようだ、「それではこちらへ」というと、何も問いかける事無く屈強な男を引き連れ館の奥へと進む。

 その男に付いて、ある程度進み、【関係者以外立ち入り禁止】と書かれているらしい扉を潜り抜ける。

 そこは正しく殺風景、何も無いと言ったらいいだろうか。

 壁紙も張られてはいるようだし床も綺麗だ、道の両脇には様々な荷物も置かれているがなんだかじっとりと湿ったい、重い空気が溜まっているような気がする。

 そこからさらに有る程度進むと、下へと向かう螺旋階段があった。

 痩身の男はカンテラを取ると火を入れ、俺に渡してきた。

 俺はそれを受け取ると、促されるままに螺旋階段を下る。

 後からは痩身の男と護衛の屈強な二人組みがきちんと付いてきているようだ。

 まあ、早々こんな狭いところで背中を見せることはしないだろうな、襲われたら一溜りもないだろうし。

 そして、別に長くもない階段を降りると、今度はいろいろな匂いの入り混じり、臭い廊下へと出た。

 腐臭とは違い、汚物の匂いと死に掛けた人間の放つ死臭が交じり合っている。

 俺は咄嗟にローブの袖で鼻を覆い、覆っていないほうの手でカンテラを持ちながら前へと進む。

 そこは上とは違い、完全に粗末としか言いようのないものであった。

 壁紙なんか張られておらず、床は魔法で固めた謎素材のまま、壁や床の染みも酷い。

 後ろを振り返ると痩身の男は顔を顰めている、鼻を覆わないところはさすがと言うべきか……。

 ちなみに、護衛の二人組みは一切表情を変えていない、まあ、職業柄嗅ぎ慣れた匂いなんだろう。


「ここです」


 男は唐突に俺を早足で追い抜かし、一つの扉を指差す。

 顔を顰めているせいか、若干鼻声の声に俺がその扉へと顔を向けると十九という数字が刻まれているだけだった。

 何度も入れ替わるのにわざわざ扉の名前を変える必要は無いということか。

 その男に示されるままに扉を開ける、むっとした匂いが鼻につく。

 人間の匂いは、死を前にして一番強い、俺はそう思う。

 実際にどうかは知らないが、俺は死の近い人間に強烈な匂いを感じる。

 少年からは感じ取れなかったその匂いは部屋の隅で抜け殻のように地面に座っている女性からはありのままに感じられた。

 おそらく、少年はあのまま放っておけばかなり長い間あの高熱に苛まれたまま死ぬ、つまり死への期限が長かったのだろう、しかし、目の前の女性は何時死んでもおかしくない、例え肉体的に死ななくても、精神が死ねば肉体は精神に引きずられるのだ。

 そう考えると、あの苦しみの中でも精神は生き続けた少年の精神力に驚嘆するが、それは今関係ない。


「あの女性は幾らだ?」


 俺は痩身の男を振り返り、そう訊ねる。

 男は若干考えた後に、こういう。


「紅が一、蒼が五枚でどうでしょうか?」


 俺の今の所持金は紅ロットが二枚と蒼ロット四枚に翠ロットが四枚になっている、十分足りる。


「わかった、買おう、紅が二枚でいいか? 釣りは蒼が五枚になるな」


「はぁ……、はい! 分かりました、少々お待ちを!」


 そういうと男は豪華な財布を取り出し蒼ロットを五枚取り出す。

 俺が紅ロット二枚を渡すと男は蒼ロット五枚を渡してくる。

 これで残高は蒼ロット九枚に翠ロット四枚。


「あと、それと顔を隠せる黒い服はないか、せめてそれ位はつけてほしいのだが」


「は、はいっ! 少々お待ちを!」


 男はそういうと護衛の男に取りに行かせればいいにもかかわらず自身が走っていってしまった。

 護衛の男達は顔を見合わせると片方はこっちに残り、もう片方は男を追いかけるようだ。

 俺は、護衛の男を尻目にカンテラを持ったまま部屋へと入り、女性へと近づく。

 女性は俺が近づいてもまったくの無反応、と言う訳でもなく、ゆっくりと虚ろな瞳をこちらへと向けてきた。

 目じりからは涙、半開きになった口からは涎が垂れた跡が付き、顔は所々が(ただ)れている。

 かつての美貌はなく、皮膚は荒れ、ヒヨコの様な薄い黄色の髪に艶はなく、鳶色の瞳はくすんでしまっている。

 俺は地面に膝をつき、女性の頬に手を当て、【解析(アナライズ)】を使い、女性の状態を調べる。

 手が触れたとき、女性がビクッと身を竦ませた、痛かったのか、はたまた俺に恐怖したのか。

 そしてこの爛れはどうやら、性病ではなく薬の副作用によるものらしい。

 妊娠しないように飲まされ続けた薬には微かに毒素が含まれ、それが蓄積した為、顔が(ただ)れた、見えないが体にも(ただ)れた跡があるらしい、そういう訳だ。

 もっとも、その毒素はよほどその薬と体が合わない個体じゃないと(ただ)れは起こさないらしい。

 一体どんな毒素なのか気になるがそんなことは別にどうでもいい、俺は『夢凍病』患者の眠り姫にやった様に【解析(アナライズ)】から治療薬の情報を【粉塵創造主(パウダーメイカー)】へと転写する。

 魔法薬でない分、情報量も少なく頭痛を起こすようなことはなかった。

 そして、元々の情報に少し魔法的効果を付与し、【粉塵創造主(パウダーメイカー)】を実行すると手の中に現れる薬包紙。

 俺は入り口で佇んでいる護衛の男に気付かれないようにローブの影で【家庭道具召喚能力】を使いコップを召喚、さらに【粉塵創造主(パウダーメイカー)】で水を生み出しコップを水で満たす。

 俺はその中に粉薬を溶かし込み、だらんと放り出された女性の両手を持ち上げ、握らせる。

 女性はそのコップを握ったまま止まる、握ったまま何もせずにじっとしている。


「飲め」


 俺が言うと女性はこちらを伺い見る。

 微かな意思の光がその鳶色の瞳に灯る。

 俺はその視線に頷くと、女性はそのままその水を飲み干す。

 すると、女性の(ただ)れがスゥッと引いていく。

 ぱさぱさの髪と乾燥した肌は戻らなかったが、それでも十分美人と呼べる類の造形をしていた。

 本来、ここまで劇的な変化は齎さないのだろうが、付与した魔法効果ですばやく(ただ)れが治った。

 女性は何が起こったのか分からないという顔をしていたが、当然だろう、自分の顔は自分では見れない。

 俺は女性を護衛の男から隠すような位置でしゃがんでいたため護衛は気付くことはなさそうだ。

 俺は女性の頭をポンポンと軽く叩きながらこれからの計画を再確認していた。

 しかし、その思考は掛けられた声で叩ききられる。


「おい」


 声の掛けられた方向へと顔を向けると、護衛の男が壁にもたれながらこちらを見ていた。


「お前、誰かの使いなんかじゃないんだろう?」


「…………」


 俺は無言を返すしかできなかった。

 すると男は舌打ちをし、こう続けてきた。


「無視かよ、まあいい、それよりお前、何の為に死にかけの女を買おうって言うんだ」


「お前に教える筋合いはない」


 高圧的な物言いに軽く腹が立つが、俺はあくまで冷静に返す。

 しかし男はヘッと馬鹿にしたような笑みを浮かべる。


「その女、蒼ロット五枚にもならねぇ価値の女に紅ロット一枚半とかぼられ過ぎ、世間知らずにも程がある様な奴が何を考えているのかねぇ?」


「案外、何も考えていないだけかもしれないが?」


「ハッ! そんな事をするような奴かよ、てめえが。それに何も考えずに紅ロットを出すとか馬鹿か気が狂ってるとしか思えねぇ」


「狂人、そういう意味ではあっている、お前の考えは」


 ぼられていたとかもはやどうでもいい、ただこの男は厄介だ。


「へぇ? じゃあ狂人さんよ、お前は何のためにそこの、わざわざ死に掛けの女を買おうとするんだ?」


「酔狂な気まぐれだ。あと、それ以上は護衛の範疇を突出していると思わないか」


 そういうと男は唾を廊下に吐き捨て、腕を首の後ろで組む。


「まあそうだけどよ、でも気になるのが俺のサガってもんでねぇ」


「余計なことに首を突っ込むと早死にするぞ」


「へいへい、分かりましたよー」


 男は目を瞑りその気もないようにひらひらと右手を振る。

 しかし、唐突に目を開くと俺に再び話しかけてきた。


「助言のお礼にいい事を教えてやるよ世間知らず」


「何だ将来犬死候補第一位」


「…………」


「………………」


「ケッ、何だ将来犬死候補って、まあいい、それより、そう易々と高価なロットを出すんじゃねぇ、世の中には悪い奴らも沢山いるんだよ、襲われっぞ」


「それも、計算の内だとしたら?」


「ァア? なんか言ったか?」


「別に何も」


 おどけて肩の高さに手を挙げ首をゆらゆらと右に左に揺らすと犬死候補はガリガリといらだたしげに頭をかいた。


「まあ、ここであったのも何かの縁だ、俺はクレデリックっていう、今は依頼で護衛をやってはいるが、冒険者だ、もしかしたらまた会うかもな」


「俺は……、薬師をやりながら冒険者をやっている、まあ、本名は明かせないが通行人Yと登録している、同業だったとはな、また会うのならそのときはよろしく頼もうか、犬死候補」


「俺は犬死候補じゃねぇ! 世間知らずの狂人!」


 なにやら犬死候補が喚いているが一切無視。

 俺は女性へと視線を戻す。

 先ほどの言い合いですっかり怯えてしまったような女性の頭をゆるく撫でる。

 【解析(アナライズ)】で見て、年齢は二十一と大人であることは分かっているが、どうしても体が小さい為同年代かそれよりも若干下に思えてしょうがないのだ。

 身を硬くしながら頭を撫で続けていると、いや、抵抗できないだけか、ともかく髪質が痛んでかなり悲惨になってしまっている。

 そしてしばらく無言の時間が流れる。

 しかし、しばらくすると廊下の方から高い足音が忙しなく駆けてきた。

 そしてまた待つと扉のほうに痩身の男が現れる。

 その手には黒いフードつきのローブがある。

 なんだか俺達に関わる人は黒ローブの運命にあるのか?

 ともかく、俺はカンテラの火を消し、女性の姿を見えにくいようにし、できるだけ彼女を隠すような立ち回り方で痩身の男からローブを受け取り彼女の上に掛ける。

 ローブは本当に上から羽織らせただけで着流しのようになっている。

 そして、彼女の腕を首に回すようにして彼女を立ち上がらせ、薄暗い部屋の出口へと向かう。

 彼女のローブがずれない様に、顔を見られないように気遣いながらゆっくりと進む。

 もし、(ただ)れの消えた顔を見られたら契約解消などにも成りかねない、いや、当初はそれが目的だった。

 そうすれば娼館に伝ができ、情報の収集にも、薬師としての名を知られることにもなると思っていた。

 だが、一目見たときに分かった、もはやこのような状態の彼女をこれ以上ここにおいて置く利益はない。

 弱々しすぎる肉体、かつて一番であったとは思えないほどやつれた彼女、しかし、一番酷いのは心であった。

 一切の虚ろな表情、男を受け入れるだけ受け入れさせられてきた絶望に、かつての待遇とはまったく違い、(ただ)れが起こってからの悲惨な生活状況。

 心の疲弊なんてものじゃない、人形だ、生きた人形、心が完膚無きまでに壊されている。

 見目のいいだけの人形になったところで別に娼婦としては問題はないのだろう、いや、その方がいいのかもしれない、だが、ここは上等な娼館、性交だけが目的の客なんかは来る筈も無い、擬似的な恋愛を味わいに、見目のいい美姫を侍らせに、そんな所に心が壊れた女がいても一切意味は無い、追い出されるだけだ。

 だから、利用するだけさせてもらおう、心が壊れているのなら。

 光の無い瞳を持つ者に、掛ける事のできる情けなど死以外には存在しないのだ、それ以外は全て自己満足だ。

 正気に無理に戻すなんて問題外、一度心を壊すほどのこれまでの闇と何の準備もなく真正面から対峙しろといっているのと同義だ。

 しかし、救ってしまった、心が壊れていることは一目見たときから分かっていたのに、緩やかな死を与えなかったのは俺の自己満足だ。

 ならば、精々俺の自己満足のために利用させてもらう。

 少なくとも、時間経過と共に彼女に正気が戻るまでは。

 戻った後の事はその後で考えればいい、今はこの女性の事をどう少年に説明するかが重要だ。

 そんなことを考えている内に娼館の裏口から外へ出た。

 外はすっかり夜、まだ、やる事はあるが。


「歩けるか」


 俺に凭れ掛かるようにして歩いていた女性が顔を上げる。

 鳶色の瞳に光はないが、少なくとも言葉の意図を理解できるだけの精神は残っているようだ。

 彼女はゆっくりと首を落とすように頷き、ふらふらとしながらも俺の支え無しで歩き始めた。

 俺はそれを見てゆっくりと、先に行き過ぎないように気を配りながら行きとは違う少し遠回りの道を通り、色町を抜ける。

 そして暫らく行くと、再び商業区へと出る。

 大抵の店は閉まっているが、それでも一部の酒場や店にはまだ明かりが灯っている。

 夜にわざわざ開いていても利益の上がる店なんてそう無いしな。

 ともかく、俺は一度少年を預けていた宿へと戻る。

 確か名前は【宿り木の洞】といったか。

 そこの扉を開けると、相変わらず女将はカウンターに座っていた。

 他の客もそこそこいるらしく、昼間のような静けさは無い。

 そして、入ってきた俺の姿を認めると立ち上がり、こちらへゆっくりと近づいてきた。


「お連れのお子様、相当怒ってましたよ? 今は食堂のほうで寛いで貰っていますが……、おや?」


 そこまで言って俺よりも少し小さい女性に目を留める。


「まあまあ! こんな可愛い娘さんまで連れ込んで! どうしたの!?」


 ……、若い……、はずなんだよな、何処からかおばさ……、いや、妙齢の女性の香りがする。

 というより、娘だとよく分かったな、一応黒いローブで隠しているはずなんだが。

 そんな渦中の女性は相変わらず微かに俯いたまま。

 しかし、女将は彼女の姿に一切気を留める事無く下品な笑みを浮かべて俺にどんどん話しかけてくる。


「こんな可愛い娘を連れ込んでどうするつもり? そういう目的ならここじゃなくてもっといい連れ込み宿があるのにねぇー……」


「いや、そういう目的じゃなく……」


「まぁ! こんな可愛い子を前にそういうことじゃないなんて素直じゃないわねぇ!」


「本当に違います、本当に下世話な方ですね……」


 俺は溜息をつきながら女将を見る。

 相変わらずニヤニヤとした笑みを浮かべていたが、唐突に屈み込むと彼女の顔を覗き込む。

 その瞬間、表情が消え、どこか鋭い雰囲気を纏う。


「この子、本当にどうしたの」


 唐突の鋭い問いに、俺はゆっくりと、言うべき事、言わない方が良いことを仕分けていく。


「ついさっき見つけて人目に付かない様に連れて来た、何も言わない、目に光は無い、ずっとこんな調子だ、この人を見つけた時の周辺の様子から考えると、きっと女性として最大の屈辱を味わっていた」


 俺が言葉を濁して言った事をきちんと理解してくれたのか、彼女の視線が鋭くなる、こういうことはやはり女性じゃないと分からない事もある。


「この子……、どうするつもり?」


 屈み込んだまま見上げられつつ、鋭い声で弾劾する様に問われ、俺はゆっくりと語る。


「彼女に身寄りは無いみたいだ、少なくともこの町の住人でない事は確かだろう。だから、彼女を引き取る、というより養ってくれる所が見つからなければ一緒に旅をする事になるな……」


 俺の返答に、女将はゆっくりと目を閉じる。

 きっと、いろいろ内心考えているんだろう、こういうときは邪魔しないほうが良い。

 そして待つ、大体三分ほど経った頃だろうか、唐突に俺の肩をすごい力で掴んできた。


「何ですか、いきなり」


「この子! 私に預けてもらえないだろうか!」


 ……、何を言っているんだろうか、この人は。


「唐突過ぎる、理由を聞かせてもらえないだろうか」


「酷い目にあった女の子を旅なんかに連れ出せるわけ無いだろう! うち宿で面倒を見る! ここで生活していくうちにゆっくりもとの姿を取り戻せていけばいい!」


 確信も無い、不確定且つ不安定な願い。

 しかし、それを言い切れる輝かしさ、俺は微かに目を細めた。

 羨ましい、そう感じる事はないが、やはり失ってしまった根拠の無い自信に対する懐かしさがこみ上げる。

 だからだろうか、それとも根拠の無い自信がどれほどの結果を残すのか見てみたくなったのか、俺は……。


「……、分かりました、預けましょう、ただし無理をする必要はない、元に戻る事は闇と向き合う事、それを肝に命じておいてください」


「ああ! 分かったよ! うちにも、女の子が来た……!」


 そういうと、女将さんは俺の方を見上げた。


「そういえば、この子、名前は?」


「名前……?」


 アリスリア、それが彼女の名前だ。しかし、本名かどうかは知らないし、そもそもその名前だと娼婦としての彼女と繋がってしまう。


「………………」


「ね? 名前は?」


「知らない、知らないが、一応アリスと呼んでいる」


「そっか! アリスちゃんか! よろしくね! アリスちゃん!」


 俺から名前を聞き、女将は女性、もといアリスの顔を覗き込み、話しかける。

 アリスは一切頷きも何もしなかったが、女将の事を空虚な瞳で見つめている。

 その後、宿の事を放り出して、女将さんは宿の奥へとアリスをつれて行ってしまった。


「……………………」


 これもまた、一種の終わり方なのだろうか。

 何か釈然としないものを感じていると後から声を掛けられた。


「お客さん」


「……ッ! ……、なんですか」


 極々自然に背後に回られ声を掛けられ、正直驚いた。

 それでも、矜持というかそんなもので極力普通に返す。


「すまないね、妻が暴走してしまって」


「……、いつから見ていたんですか」


「恐らく最初の辺りから見ていたと思う」


 その言葉に、俺はひそかに嘆息した。

 気付かなかった。

 そして、『妻』という言葉、恐らく、女将さんの旦那なんだろう。

 俺は後ろを振り向き、正面から対峙する。

 俺よりも背が高く、精悍な顔つき、短く切りそろえられた焦げ茶の髪は硬そうな質だ。

 伸びた前髪の間からのぞく目は麻色で、やさしい色を湛えている。


「そうですか、別にいいですよ、女性と共に旅をすると厄介ごとが起きますから」


「そういってもらえると助かる、あの女の子、アリスといったか、あの子はうちでちゃんと面倒を見るよ」


「ええ、お願いします」


 そういって、頭を下げる俺に旦那さんはいやいやと首を振る。


「妻は……、子供が好きでね……」


 微かに憂いと悲しみを瞳に宿しながら彼は言う。

 恐らく、昔何かあったのだろう、突っ込んで聞く気にはならないが。


「それより、良いのかい?」


「なにがですか」


「お連れさん、よほど怒っていたよ、今は食堂で待ってもらっているけどね」


「…………、あ」


 少年のことをすっかり忘れていた。

 あの女将さんの衝撃が強すぎた、いや、言い訳に過ぎないか。

 どう説明したらいいんだろうか、そもそもこの後まだ出るつもりなんだが……。

 そんな俺を見ながら彼が言う。


「まあ、がんばれ、時には諦めが肝心だよ」


「……、はい」


 俺は軽く肩を竦めながら小さく溜息をつき、恐らく食堂へと向かっているであろう俺よりも大きい背中についていった。

 いつもなら食欲を誘うであろう漂ってくる食事の匂いが否応無しに食堂に近づいている事を認識させる。

 そして食堂へと入る。

 旦那さんはそのまま厨房のほうへと入っていった。

 空いている食堂内で、黒ローブを探す事なんて簡単だった。

 俺は若干重くなった足を運び、その卓につく。

 卓を挟み、目の前には、少年がいる。

 重い沈黙が、卓を支配する。

 そんな沈黙の中、先に口を開いたのは少年だった。


「……、お帰りなさい、薬師さん」


「ああ、ただいま」


 あまり変わらない少年の姿、しかし俺は一切の警戒を解くことはない。


「それで、何処に行ってたのですか、僕を置いて」


「知らなくていい、ちょっとした野暮用だ」


「そう、ですか……」


 少年が声が僅かに沈む。

 しかし、それをどうこう言う前に、俺は用件だけを言う。


「この後、また出る、お前はここで待っていろ」


 その言葉に、少年はガタッと立ち上げる。

 人の少ない食堂で、その音はよく響き、食堂中の視線が集まる。

 少年は少し身を縮めながら再び座りなおす。


「別に、お前が役立たずといっているわけではないし、お前を置いて旅に出るわけでもない、何をそんなに過敏になる必要がある?」


「薬師さん……、貴方という人は……!」


 何か言い掛けたであろうその口は何も言う事無く動きを止める。

 そのまま少年は俯き、何も言わなくなる。

 正直、戦力としても常識人としても、少年は変えがたい存在だ。

 だが、今からやる事に連れて行くのはまだ早い、まだ、知らなくていい。


「少年、お前は変えがたい人材だ、その事を理解しておいてくれ、全ては時間が解決する、事も、な」


「…………」


「……、お前が、大切だから連れて行かないんだ」


「僕が…………?」


「何か言ったか」


「僕が、まだ幼いから、駄目なんですか……?」


「…………、そうだな」


 そういうと、少年は俯いたまま唇をかみ締める。

 俺に、何かができるわけでもなかった。

アリスリア「私の年齢忘れていませんか」


補足としては、透ロット一枚が大体百円です(誤差を含めると八十円から百二十円)。

つまり、翠ロットは約一万円、蒼ロットは約十万円、紅ロットは約百万円ですね。

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