虹は精霊と邂逅する
グラティスがヘルツから話を聞いている最中、行方知れずだったアイリスはというと、晴れた青空の下で見渡す限り緑の湖という巨大な湖の前に居た。
一人ではなく、なぜか三人で。
「お茶のお茶のおかわりはいるかな? お嬢さん」
「えっ? はっ、はい! 欲しいです!」
「…………」
笑顔が眩しい蒼い髪で紺色の服を着込んだ見目麗しい青年が、ティーポットからアイリスのカップへと琥珀色の液体を注ぐ。そして、蒼い髪の青年とよく似た容姿の仏頂面で黒い髪をもった青年が、丸いテーブルをはさんだアイリスの向かいに無言で座っている。その瞳は、不審者を見るようにやや細められている。
(ううっ……! 無言の威圧感が。……なんだかこわい)
恐縮して縮こまったアイリスをみかねて、蒼い髪の青年が仏頂面の青年をいさめる。
「そんなに睨んでたら、この子が可哀そうだろう? 王様なら広い心をもって下々に接しないと! ほらほら、まずは笑顔でいらっしゃいませって言ってごらん」
「……いきなり現れた不審者に、歓迎の意を表現できるお前の事が不可解でしょうがない」
「不可解って……。ああ! そうだ、お嬢さん。君って誰?」
ニッコリと笑いながら、アイリスの名を聞く蒼い髪の青年の隣で、仏頂面の青年が深く長い溜息を吐いた。
ようやくその質問に行きついたか、といった表情をしている。
それもそうだ。アイリスがこの場所に来てから何杯お代わりした事か。ゆうに三杯は超えている。それほど長い時間、三人でテーブルを囲んでいたのだ。
「この子があまりに絶望的だったから和ませてあげてたのに。何? その、アホかお前って。王様ならさぁ、もう少し大らかな心を持つべきだと思うよ、俺は」
蒼い髪の青年が、仏頂面の青年の浮かべた表情に反応して立ち上がり、腕を組んで見降ろした。だが、見降ろされている青年は、意を介さずにアイリスに無言の重圧を送り続けた。
耐えきれなかったアイリスは、カップを置くと口を開いた。
「……アイリスです。私を助けてくれる人の所に行こうと思って魔法を使ったら、この場所にいたの……。あの、ここってどこですか?」
さっきまで雨が降ってたのに、ここはそんな形跡がないと不思議そうに首を巡らせる。見たことも無い光景に、この場所は王城の敷地ではないと悟った様子である。
首を動かす度に揺れ動く金の髪を見て、蒼い青年は「兎だ」と小さく笑った後、緩く縛ってある自身の蒼い髪の毛先を弄んだ。
「ここは、言うなれば『王の庭』かな。君があまりに悲壮な声を出してたから、つい引っ張っちゃったんだよね。……アイリス、今の俺は残念ながら君の力にはなれない。人間の諍いに手を出さないと決めてあるんだ。俺がその決まりを破る時は、使役人が命令した時だ。あ、その仏頂面も同じだから」
「え……?」
使役人と言ったということは、この二人は精霊?
こんな、普通の人間と同じ大きさの精霊が居たとは……。
「まあ、精霊と言えば精霊だね。大きさに関しては、俺達は特別仕様だからとしか言いようがないかな」
口に出してないのに、言い当てられた。まるで心の声を読んだような言葉に、アイリスは目を瞠り驚きを露わにした。
アイリスのその表情に満足したのか、蒼い青年―――蒼い精霊は毛先から指を放すと、彼女の心臓の上に人差し指を置き、ニヤリと形容できる笑いを浮かべた。美形はどのような笑いを浮かべても、綺麗なのだな、とそう思える笑みである。
「俺ね、ここの声がわかるんだよ」
(心臓? ……心の声?)
試しにと心で語りかけてみた。すると、蒼い精霊は自身の細い顎に指を掛け、何かを楽しむようにアイリスを視界に入れた。
「そう。ホント言うとね、俺は君がどんな風に助けて欲しいか知ってる。……そうだね、俺を使役できたら助けてあげようか」
蒼い精霊の発した言葉に、仏頂面の青年―――精霊が、それまで睥睨するしかなかった黒い瞳に些か焦りの色を浮かべた。
「―――おい。何を勝手な事を言っている」
「いいじゃない。暇つぶしだよ。俺は名を呼ばれた位じゃ使役されない。俺が認めた奴じゃなきゃ命令なんて聞いてやらないし、呼ばれても答えてやらない。……箱庭のお嬢さん、まずは相手の名を呼ぶ事が礼儀だよね?」
まるで、仏頂面の精霊に言っているようで、アイリスにも言い聞かせているようだ。
目の前の兎の様な少女を小馬鹿にしながらも、挑戦的な色をその瞳に湛えている。まるで、アイリスには名を読みとることは不可能だという雰囲気である。
アイリスは馬鹿にされたまま引き下がる弱虫ではない。悪意を向けられるのにはなれていないが、こういった意地悪なら慣れている。
今まで自由奔放な精霊と遊んできて、意地悪には抗うことができるように鍛えられているのだ。それに、ニヤリと嫌な笑いをアイリスに向ける精霊に、ひと泡吹かせてやりたいと思った。
瞳に魔力を集中しながら、意地悪な笑いを浮かべる蒼い精霊を視界に入れる。
榛の瞳が、金色に変わるにつれ、蒼い精霊の纏う魔力がアイリスの知る精霊のそれよりも遥かに色が濃く、大きいものだとわかった。
(なに……? こんな精霊、見たことない)
本能が、得体の知れない精霊に対して名を読みとる事を止めろと、アイリスを揺さぶる。
どこからか恐怖心まで湧きあがり、足元が震える。
しかし、負けたくないという気持ちが、蒼い精霊から視界を逸らす事を是としなかった。
震える足は大地を踏みしめ、金の瞳がアイリスの気持ちを後押しするかのように、目の前の者の名をアイリスの脳裏に刻んだ。
その名はいくつもあったが、一番彼の想いが強そうな名を選びとった。
「ヒュドラ、……水を操る者」
カイムの時とは違い、これ程名前を呼ぶのを怖いと思った事はなかった。あまりの恐怖で口がうまく動かなかった。
でも、確実に蒼い精霊ヒュドラには聴こえているはずだ。
名を呼ばれたヒュドラは、アイリスの金色の瞳を検分するようにその瞳を見続けている。底意地の悪い笑みはいつの間にか消えており、今は刺す程に鋭い視線に変わっている。
沈黙が場を制し、誰も何も言わない。
アイリスは緊張からでた唾を、ごくり、と音を立てて飲み込んだ。
「―――ふっ、はは……」
ヒュドラの乾いた笑い声が聞こえた瞬間、湖の底の様な蒼い瞳が一層暗くなり、彼の背後の湖の水が盛り上がるとアイリスめがけて襲いかかった。
今まであったテーブルは水にのみ込まれ、小さな金色の兎をも腹に収めようと水しぶきを上げて押し迫る。
(な、なんで攻撃されるのっ?! 間違えた??)
仏頂面の精霊はいつの間にか居なくなり、誰もアイリスを助けてくれそうもない。
アイリスは覚悟を決めて、お得意のでたらめ魔法を繰り出した。
「水を消すのは、……火!」
子供ながらのお粗末な考えだった。無残にもアイリスの小さな炎は消され、湖の中に引きずり込まれてしまった。もがきながらも垣間見たヒュドラの表情は、冷酷で、シドのように薄氷の視線をアイリスに向けていた。
「正解だったからこそ、だよ。いくつもある名前からソレを選んだからね。この俺に魔法を使って攻撃された事、光栄に思うと良い」




