虹は心に鍵をかける
ゆらゆらと波に揺られるように、身体が揺られている。
ゆりかごの中にいるように。
時折、金糸のような髪を撫でる優しい手つきは、アイリスを慈しんでくれているとわかる。
優しく身体を包み込むその腕は、彼女に安らぎを与えてその口元を綻ばせた。
「アイリス、次は絶対に俺を頼って―――……」
その聞きなれた声は、浅い眠りから深い夢路へとアイリスを旅立たせた。
****
光など無い漆黒と言える闇の中、水音を立てながら走り抜ける。
何も見えない。
風が流れている気配もしない。
この場所がどこだかわからない。
わかるのは、水場を走っているということだけ。
走り続けて息が上がる。足も疲れた。
でも、止まってはいけない。
止まったら、アレが私を捕えて離さないだろう。
漆黒の闇と同色に蠢く無数の手が……。
憎悪という恐ろしい感情を私に向けながら、なじみ深い魔力をまとって捕まえようと執拗に追いかけてくる。
その手を止めようと、アイリスの義父が庇う魔法を使うが、それをも避けて皇妃は追いかけてくる。
早く力尽きてしまえと、漆黒の闇に金切り声が響き渡る。
「―――皇妃様」
黒い手は、なじみ深い人の作りだした物。
彼女は私を見ていたくないと叫び、更に手に数を増やし私を捕まえようと躍起になった。
―――まだ、死にたくはない。
でも、彼女を傷つける魔法は使いたくない。
かつて繋いだ優しい手を覚えている。儚げな優しい笑顔も。
その胸の温かさを覚えているから、傷つけることは出来ない。
「―――皇妃様! 私を見たくないなら、どこかに行くから追いかけてこないで!」
じゃないと、また傷つけることになる。
私の生きたいと思う本能が、きっと皇妃様を傷つける。
今度は腕の傷では済まないほどに……。
「だから、お願い。追いかけてこないで」
本当はどこへも行きたくない。
ずっと義父母と妹と暮らしていたい。グラティスとも会えなくなるのは嫌だ。
でも、私がこの場所に居る事で誰かが傷つくのは、もっと嫌だ。
私の言葉が通じたのだろうか。
追いかけてくる気配と金切り声が収まり、静寂が場を包み込む。
足を止めて、漆黒の闇を見回すが何の気配もない事に安堵した。
ホッとすると同時に、悲しくなった。
あの言葉を聞いて追いかけてこなくなったということは、顔を見るのも嫌なほど嫌われているということだ。
なんで?
どうして?
何もしていない。
何もしていないから嫌われたの?
……そういえば、皇妃様があんな風になったのは、私が皇帝様にシドの側女というものになれと言われてからだった。
それが原因?
側女というのは正直いうと、よくわからない。
シド曰く『伴侶』だと言っていた。要するに、お嫁さん。
……本音を言えば、そんなものにはなりたくない。
シドは私の事を好きじゃない。その逆だと思う。あの凍てつく薄氷の瞳が『お前が嫌いだ』と伝えてきていた。
そんな人の元へは行きたくない。
でも、皇帝様の言葉は断れない。断ってはいけないと聞いている。
「どうすればいいの?」
漆黒の闇に、アイリスの落とした言葉が溶けて消える。
「―――たすけて。グラティス……」
この底なしの闇から。
自力で解決できない問題から……。
「たすけて」
この国の一番偉い人から、私を助けてくれる人なんていないと分かっている。
助けを求めたら、みんなが困るのはわかっている。
でも、助けを求めずにはいられない。
顔を覆う指の隙間から、透明な滴が足元の水へと次々と落ちていくのを茫然と見つめる。
心が締め付けられるほど痛んで、悲鳴を挙げている。でも、目をつぶってひたすら耐えるしかないと自分に言い聞かせた。
女の子独特な雰囲気の寝台でぱちり、と音が出そうな勢いで瞼が開いた。
その視界が最初に見たのは、明るい見なれた天井。
瞳を巡らせると、自分の部屋だとアイリスは気付いた。
「……夢」
心臓は、嫌な夢を見たと鼓動を速く刻んでいる。
(じゃあ、竜の檻や王の庭に行ったのも夢? 皇妃様に嫌われたのも?)
夢だったならいいと思いながら、アイリスは夜着をくつろげて胸の刻印を覗いた。
「夢じゃなかった……」
重すぎる現実が、寝起きの頭を支配した。
胸の刻印には不思議な紋様が増えていた。ヒュドラが水の精霊であると証明するように、波打つ水の紋様が。
「夢だったら良かったのに。全部全部……夢だったら」
ぼすん、と音を立てて枕に顔を埋める。
「これからどうすればいいの? 皇妃様が私を手に掛けようとしているって皇帝様に相談してみる? ……ダメ。普通はそんな事信じない。じゃあ、皇帝様にシドの側女にはなれませんってダメ元で言ってみる? ……そんなことを言ったら、家族に迷惑がかかるからやっぱりダメだね」
どうすればいいのかわからなくて、夢の中のように泣いてしまいそうだった。
でも、今は泣いている場合ではない。
やらなくちゃいけない事がある。
まずは、ヒュドラと約束した事を成し遂げなくてはいけない。
いや、約束がうんぬんよりも、永眠する竜をあのままにしておきたくないのが本音だ。
皇妃様に会わないように、魔法の勉強をしよう。
「お義父さんなら、きっと教えてくれる」
彼女は夢を見た時に思い出したのだ。あの召喚塔の最上階で、義父が皇妃の命令を断ってくれていた事を。
気が動転していて、そのことをすっかり忘れていた。
枕から顔を上げて寝台に座りこむと、泣きそうな顔を引き締める為に、思いっきり頬を両手で叩いた。
熱を持つほどに痛い感覚がアイリスの涙をひっこめた。
「よしっ! まずはお義父さんの所へ行こう。そこで、色々な事を聞けばいい」
アイリスはわずかに痛む心に固く鍵をかけ、寝台から脚を下した。
部屋の扉をあける彼女の瞳には、先ほどまでの悲壮感は感じられなかった。
アイリスが向かった場所には、普段となんら変わりない光景が繰り広げられていた。
趣味の料理をする義母、ローザ。鼻歌交じりに包丁の音がリズムを刻んでいる。甘いにおいが部屋に立ち込めていることから、彼女が今、お菓子を作っていると推察できた。
食卓に紙を広げ、色彩豊かな絵を描く妹。インクが服に付き、服も色彩豊かになっている。
義父は―――居なかった。たぶん、書斎だろう。いつも仕事を持ち帰っては書斎にこもっている。
その当たり前の光景が、今はすごく眩しく感じた。直視出来ないほどに。
義父と話をする為という理由を付けて、いったん開けた食卓の扉を閉めようとした。
「おはよう、アイリス。もうお昼過ぎてるから、“おそよう”かしら? お腹すいたでしょう? アイリスの好きなフルーツタルト作っているのよ」
聞こえた声に振り向けば、いつもと変わりない笑顔で義理の娘に声をかけるローザが目に入った。
「うん。……お義父さんに話をしてから食べるね」
精一杯の笑顔を浮かべてローザを見るが、ずっとアイリスを育ててきた彼女はその心の中を見透かしたようだ。
手にしていた包丁を置くと、扉前で固い笑顔を浮かべるアイリスへと駆け寄り、その小さな体を抱きしめた。
「―――アイリス」
ローザは何も言わなかった。ただ、抱きしめただけ。
温かな懐は、アイリスの事を心の底から心配しているのだと伝えていた。
同時に、昨日アイリスの身に何が起きたのかも知っていると、その震える肩や、言い淀んでいる口からも読み取れた。
「大丈夫だよ」
抱きしめ返しながら、ローザに言っているようで自分にも言い聞かせた。
「心配かけてごめんなさい。私ね、やりたいことができたの。それを達成するには、魔法の勉強をちゃんとしなくちゃいけないの。そのことを相談するだけだよ」
「そう。そういえば、グラティスちゃんもおとうさんの所に居るわ。……おかあさんね、アイリスに話したいことがたくさんあるのよ。今が話す時期なのかもしれないわ。あなたがお城に入れられる前に話さなきゃいけないと思っていたの」
「―――えっ?」
わけがわからなくて身じろぎしながら義母の顔を見上げると、物悲しい笑顔を浮かべたローザが、アイリスを見ていた。
再びアイリスの小さな体を抱きしめて、口を開いた。
「アイリス。おとうさんとの話が終わったら、待っているわね」




