榛は見えない嫉妬に身を焦がす
6月14日 脱字訂正。
「……で? アイリスの桃のほっぺに汚らしいものを当てた、この得体の知れない蒼い生物は何?」
アイリスの頬の皮がずり向けそうなほど擦り続けたグラティスが、榛の瞳に警戒心を浮かべて、痛みで眉を寄せている彼女に問う。
しかし、その視線は、目の前で腕を組みながら薄笑いを浮かべるヒュドラに注がれている。
明らかに高位精霊と解る、力強い魔力をあふれさせる蒼い精霊。
―――敵か、味方か。
今のアイリスの状況を鑑みると、味方であったとしても警戒せざるを得ない。
アイリスを捕える為に遣わせた、皇帝の息のかかった精霊かもしれない。
まるで検分するような鋭い光を浮かべるグラティスの視線に、アイリスはたじろぎながらもヒュドラとの出会いを、皇妃の話も含めて簡潔に説明した。
アイリスの話を聞いたグラティスは、目の前が真っ暗闇に包まれた感覚がした。
そうなったのは、皇妃の話を聞いたからではない。
それはすでにヘルツから聞いていた為、グラティスの知るところとなっている。
復讐の道具にアイリスを利用しようとしている皇帝と、憎悪に身を焦がし命を狩り取ろうとしている皇妃。一国を束ねるその二人が恐ろしくて目の前が真っ暗になったのでもない。
アイリスの味方なら、ごまんといるのを知っている。召喚士を束ねる機関である召喚塔全体を統べるヘルツと、貴族を束ねる筆頭公爵家であるグラティスの家だ。だから、恐ろしくは無いし、こんな状況でも絶望しない。
……アイリスの無防備さと、自分の不甲斐なさに目の前が真っ暗闇に包まれたのだ。
でたらめ魔法を駆使し、その場を逃げ出そうと試みたと言った彼女。
気付いたら『王の庭』なる場所にいて、目の前の蒼い精霊とお茶会なるものを開き、挙句の果てに名を読みとって縁を結んでしまった。
―――見るからに高位精霊と解る、蒼い精霊と。
いや、『王』と名の付く場所にいた精霊ならば、王に近しい者に違いない。
階級が上がれば上がるほどに、精霊は捻くれた者が多いと聞く。名を読みとった精霊が嫌がり、主人となった人間に牙を剥く事もあると耳にした事もある。
「精霊の事なんて勉強してないくせに、なんて危険な事をするんだ。……それに、なぜ俺の所に来ないんだ。どこかに逃げようとしたのなら、一番に頼って欲しかった。ずっとアイリスの側に居たのは俺なのに……」
アイリスの気配が消え、不意に訪れた喪失感と恐怖。
その時の事が思い出され、つい口が滑った。
一番に頼って欲しかったと言った今の言葉は、聞き方を間違えれば、まるで愛の告白ではないか。
なぜそんな事を自分は口走ったのだろうと疑問に思いながら、グラティスは咄嗟に口を押さえる。
向き合うアイリスは、グラティスが心配して嵐の中、探し回っていた事など知らない。
時折痛む瞳にアイリスとの絆を感じ、無事である事を喜びつつも、魔法を使う状況にある事を心配していたのは知らない。不意にこの世界に現れたアイリスの気配に喜びつつも、同時に襲う瞳の激痛に心が引きちぎれそうになったのも知らないのだ。
この場所に来る事となったきっかけは、瞳が潰れるかと思ったほどの激痛だった。だから、アイリスの身が心配で、彼女を失うかもしれないという恐怖に耐えれなくて、全神経を使ってアイリスの気配を探った。
この場所に居る事を見つけるや否や、いてもたってもいられず移動魔法を使って彼女の元へと急いだ。
そんなグラティスの心中など知らないアイリスは、一人で勝手な事をするなと怒られたと思ったのだろう。項垂れて、小さな声で謝っている。
「ごめんね、勝手な事ばかりして。……あの時は怖くって、何も考えれなくて、誰かに助けて欲しくて」
アイリスのその言葉に、グラティスの心の中で何かの留め金が弾け飛んだ。
気付けばアイリスの両頬を指でつねりながら伸ばし、詰め寄る様に言葉を落としていた。
「その誰かが、この精霊ってわけだ? アイリスが頼れるのは、俺じゃなくて得体の知れない精霊なんだ? ……ふぅん」
―――俺では、力不足なのか。
そう呟いたグラティスの言葉は、アイリスの耳には届かない程に小さかった。彼女は告白ともとれるグラティスの言葉など意に介さず、頬を離せと身じろいでいる。
しかし、その小さな言葉を拾ったのは、蒼い髪を長い指で遊びながら二人を見降ろしていたヒュドラだった。
「子供のくせに嫉妬かい? かわいいねぇ。……誤解してるみたいだから、ひとつ訂正しておくよ。アイリスは俺の使役者じゃない。強いて言えば、檻を壊す共犯者かな。だから安心すると良い。名前の一つを読まれた位じゃ牙なんて剥かないからさ」
ヒュドラはグラティスからアイリスを引きはがすと、ゆっくりと指をグラティスの胸元に当てた。そして、ニヤリと意地の悪い表情を浮かべ、自身の『心を読む能力』を伏せて口を開く。
「アイリスが大切なのはよく判った。けどね、いたいけな子供に、変な考え起しちゃ駄目だよ? じゃなきゃ、新芽色の精霊モドキに将来いびられることになるよ。……ね?」
湖の底の様な蒼い瞳は、グラティスの後方で警戒心むき出しで飛んでいるカイムを視界に入れている。
カイムは最初、話を振られた意味が理解できなかった。しかし、心を読む事が出来るヒュドラが先ほど口にした言葉を頭の中で反芻するうちに、
(『いたいけな子供に変な考え』。……変な。―――変っ!?)
疑問が驚愕に変わり、瞬間沸騰したその顔は真っ赤に染まり、グラティスの茶の髪を引っ張ると、少女独特の甲高い声で叫んだ。
「グラティス様! 貴方はまた破廉恥な事を、我が姫に対して考えていたのですかっ! 何度でも言いますが、我が姫はまだ十なのですよ。このカイムの目が見える内は、いかにグラティス様であろうが許しません!」
「―――痛いって! 俺は幼児趣味は無いから!」
「そんな言葉は信用できません。あのお方が、ああ言っておられたならば、グラティス様にその考えがあっての事! ああ……っ、本気でロリコンとなってしまわれたのですね!?」
嘆かわしい、と叫びながらカイムはグラティスの前髪をこれでもかと引っ張った。
「だから、違うって!! ―――痛いっ! アイリス、見てないで止めてよ!」
髪を引っ張るカイムからアイリスに視線を移した。アイリスの耳元にはヒュドラの口があり、何かを耳打ちした様子だ。
途端に赤くなり、少女独特の柔らかな笑顔が浮かぶ。
ヒュドラはその顔を見て更に妖しい笑顔を浮かべ、消えるようにどこかへ帰って行った。
普通なら、得体の知れない精霊が帰って行ったんだから、安心すべきだがグラティスはそうは思わなかった。
(なんだか負けた気分だ)
得体の知れない悔しさと寂しさがこみ上げる。
あんな柔らかな笑顔を浮かべるのは、俺の前だけだったはずなのに―――……。
抵抗しなくなったグラティスを不審に思ったカイムは、サラリとした茶の髪を離して、その表情をみて目を瞠った。
「ななな……っ! 何て顔してるんですか。……そんなに泣きたくなるほどに痛かったですか?」
「……そうだね。泣いてないけど」
泣きたくなる位に、色々と悔しくて心が痛い。
とりわけ、火急の事態に頼ってもらえないのが、悔しい。
もっと学ばなくてはいけない。
アイリスを守るために、頼ってもらえるようになるために。
この悔しさをバネに、グラティスは一つの意志を決め、気持ちを切り替える為に一つ大きな息を吐きだした。
この場所に来てから、アイリスに聞きたい事があったのだ。
なぜこの場所に居るのか。
「アイリス、どうして王城の敷地外にいるの? 刻印は?」
聞くよりも服を剥いて刻印を見た方が早い。
グラティスは手を伸ばしたが、カイムの瞳がアイリスに触れるなと威嚇しているからか、その手は空気を掴んだ。
「刻印……は。さっきの精霊に書き換えてもらったの」
「書き換えてって、どんなふうに?!」
「……さぁ? よく判らないけど、今ならどこへでも行けそう。解放されたっていう感じかなぁ」
アイリスの言葉に、再びグラティスに敗北感が襲いかかった。
(俺が、刻印から解放しようと思っていたのに!)
この間アイリスが敷地外の世界の話をしたから、自分の手で王城の敷地外に連れて行ってあげたいと思って、こっそりと結界魔法の勉強をしていた。色々な物を見て、兎のように飛び跳ねながら喜ぶ姿を見たいと思っていた。
なのに、いとも簡単に今日出会ったばかりの得体の知れない精霊に先を越されるとは……。
何とも言い表せない敗北感に、拳を握って耐えるグラティス。
「アイリス、今度は一番に俺を思い浮かべるんだ。どんな些細な事でも、一番に!! わかった?」
「―――え? う、うん」
「約束だからね!」
「……? うん」
どうしてここまで躍起になってこんな事を言ったのかはわからない。しかし、それは数年後にグラティス自身が身を以て知る事となる。
そして、アイリス自身、数年後にこの約束を後悔する事となる。
約束を取り付けた事で、些かスッキリしたグラティスは、アイリスの真っ赤になった頬を見て、擦り過ぎたし、つねり過ぎたと少し後悔をした。
少し冷たいのが特徴のグラティスのてのひらを、アイリスの頬に当てて謝る。
「……ごめん。苛めたかったわけじゃないんだ。回復魔法は習ってないから、治せないし、本当にごめん」
「―――ならばこのカイムが、我が姫の桃の頬を治してみせましょう!」
カイムはグラティスの顔の前を邪魔するように飛び、頬に触れている手を引きはがすと、赤く色づいている部分に口づけた。
真っ赤な頬は健康的な肌色に戻り、アイリス頬の痛みが引いた様子である。
「凄い! カイムもできるんだね、もう痛くないよ? ありがとう」
「我が姫。あのお方の様に魔力体力までは回復出来ませんが、この位ならばお茶の子さいさいでございますよ」
「……えっ?」
あの蒼い精霊は、そんな事も出来るのか。
そういえば、と目の前で繰り広げられる二人の会話を耳に流しながら、蒼い精霊がアイリスの頬に口づけた瞬間を思い出した。
(あの時のアイリスは、魔力が底を尽きていた。……だからか!)
グラティスの学ぶべき事柄の中に、回復系魔法必須の項目が追加された瞬間であった。




