虹は黒い手の正体を知る
6月15日 時刻を表す文を追加しました。
『魔を祀る神殿』そこは、想像していた建物とはかけ離れていた。
数多の精霊が寄りつきアイリスをも目を引き付けられた、神々しい輝きをまとう『神を祀る神殿』とは相反する者を祀り、水竜をも閉じ込めるのだから、さぞかし陰惨とした場所なんだろうと思っていた。
しかし、ヒュドラに連れて来てもらった『魔を祀る神殿』は、そうではなかった。
「きれい……」
アイリスの薄い榛の瞳が捕えたのは、前後の神殿らしき建物の中庭に流れる二つの清流の中州に集う、水の精霊達だった。
今の時刻は性格には解らないが、空には星が瞬いていることから夜だと窺える。
暗闇に集う精霊達の踊りともとれる光は、時間を忘れて見惚れるほどに幻想的だ。
淡い水色の光もあれば宵闇の紺の光もある。数多の濃淡の光が一つの場所に集中してその場にある物を隠していた。
ヒュドラは精霊達が集まる中洲を指さし、光が集まるあそこに友人が居るのだと瞳を陰らせた。
「決まりの為に、俺はこの先には行けない。この場に留まる事も許されない。君が連れて行けるのは、君の精霊だけだ。……どれだけの時間が経とうが俺はあの庭で、友人が来るのを待っている」
そう言うと、湖の底の様な青い瞳を閉じて身を翻し姿を消した。
一人残されたアイリスは、川に広がる精霊達の多さに圧倒されながらも、中州に閉じ込められている水竜を解放すべく、川へとゆっくりと歩き始めた。
中州から発されている神々しい気配に、一歩一歩が慎重になる。
この気配は中に居るであろう水竜から出ているのだろうか。
それとも、中州に集まる数多の水の精霊達によるものだろうか。
(どきどきする。こんなに一つの種類の精霊が集まってるのも初めて見たし、水竜にも会えるなんて)
物語の中でしかお目に掛かった事が無い神聖ないきもの。彼らは火竜なら火を、水竜ならば水の、種別によって各元素と膨大な魔力を持つと本で読んだ事があった。
個体数が少なすぎて、すでに絶滅しているらしいとグラティスからも聞いた事がある。
そんな竜と会えるなんて。
逸る心を押さえながら、風魔法を足に使い身体を沈まないようにしてから夜の川に足を一歩踏み入れた。
途端、川に集まっていた精霊達が突然現れた来客に驚き警戒し、一斉に中州を目指して集まりだした。
中州に居るだろう竜を守る様に強い光を発して、そこを目指す突如現れた侵入者であるアイリスに警告を発している。
言葉は無かった。しかし、精霊達からなる数多の光からこちらへ向けられている気配は、射かけられた矢のように鋭い。
警告をしてもゆっくりと進む人間の子供を敵とみなしたのか、精霊たちの強い拒絶が水飛沫となって、慎重に歩を進めるアイリスを襲った。
「私は精霊から水竜の檻を壊してくれって頼まれたの! 水竜を助けに来たの!」
寸での所で叫びながら、でたらめ魔法を使い襲い来る水を霧散させた。
信じて、と金色になった瞳が伝えているのを感じ取ったのか、川から襲い来る水の攻撃が止まった。
しかし、今度は足に何かが絡み川底へとひきずり込もうと引っ張る。
「―――なにっ?! ……また、黒い……手?」
足に絡まっていたのは、葦の群生でアイリスを闇へと引き込もうとした無数の手だった。
それは容赦なく、細い足を掴み暗い川底へと誘っている。風魔法の浮力が無ければ、気付く間もなく川底に引き込まれているだろう容赦ない力だ。
咄嗟に光魔法を思いつき、絡みついた手に投げつける。
何かが焦げた匂いと共に、くぐもった悲鳴が聞こえ、掴んだ手が緩んだ。
川から出ようと走るアイリスの足を再び捕えようと、水上に闇よりも濃い黒い手が無数に伸びた。振り向きそれに攻撃を加えようとした時、その手から発される膨大な禍々しい魔力からよく知っている人の魔力を感じ、戸惑う。
「……皇妃、さま?」
禍々しい魔力に混じる様にあるそれは、攻撃を与えようとしたアイリスを躊躇させた。
(本気で私の事を……)
召喚塔の最上階で聞いた皇妃の言葉が、脳裏に蘇って彼女の手を止めたのだ。
しかし、茫然としている暇なんて無かった。
襲い来る手は、アイリスの命の灯を消そうと襲ってくるのだ。
不意に襲ってくる悲しみをこらえて、無我夢中で川の中州まで走った。
水竜がいるはずの檻の周りは、清涼な神気が満ちている。そこまで逃げれば安全だと思う。
アイリスの本能も、そこへ逃げろと足を急きたてた。
神気の満ちる中州の河岸へと辿り着き、川を振り向いた時には禍々しい無数の手は無くなっていた。
水の流れも緩やかで、そこで命のやり取りが合ったなど微塵も感じる事ができない。ただ、川に残る皇妃の禍々しい気配の残滓と暗闇に映えるアイリスの白い足首についた手形が、今のは現実に起きた事だったと認識させた。
(どうして? 皇妃様……)
今まで柔らかに頬笑みを向けてくれていたのに……。
悲しくて視界に靄がかかると同時に、それが榛に戻った瞳から溢れ頬を伝った。
嗚咽が止まらない。
足から力が抜け、乾いた音を立てて砂地に腰を落とした。
どれくらいの時間、泣いていただろう。
月が随分と高い位置に在り、闇も一層濃くなった気がする。かなりの時間が経ったのだろう。
お陰で喉はからからで、頭が痛い。
頭の中で、大きな鐘が重い音を響かせているようだ。
ずきずきと痛む頭を押さえながら川を見ていると、不意に空色の光が目の前を横切った。
そのすぐ次には、目の前に流れている川の碧い光が同じく目の前を飛んで行った。
横切る光を目で追うアイリスの視界に入ったのは、自分の頭上で飛び交う数多の精霊達だった。
―――いや、頭上だけではなかった。
小さなアイリスの身体を抱き包むように、その精霊達は飛び交っていたのだ。
まるで、砂を握りながら咽び泣く彼女を慰めるかのように。
「精霊達……」
さっきまで敵意むき出しだった精霊達が、アイリスを慈愛に満ちた光で包みこんでいた。
労わりの言葉なんて無かった。けれど、絶望の中にも一筋の光が見えた気がした。
「ありがとう。そうだね、泣いていてもしょうがないね。……今は泣くよりも、檻を壊して水竜を助けなきゃ」
その言葉に反応して、光で檻を囲んでいた精霊達がアイリスに道を譲る様に分かたれた。光達の間に通路の様なものができる。それは、まるで光の回廊のようだと思った。
眩しい光達が分かれて、暗闇の中でさえ銀に輝く蔦の絡まった檻が姿を現した。檻に触れる者を拒絶しているように、蔦からは針の様に鋭く長い棘が見る者を威嚇している。
その檻の中に、大きな影が見えた。
「あれが水竜……?」
伝説と化した神聖な生物。
アイリスの心が再び逸り、檻へと駆け寄った。
しかし、近づくにつれて足は重くなり、動く足の速度が落ちて、しまいには止まってしまった。
魔法の力で足が止まったわけではなく、アイリスの視界に入った物が、彼女の歩みを止めさせたのだ。
「そんな……。これじゃ、あの精霊の所に飛んで行けないじゃない……っ!」
神気ともとれる魔力の淡い光に照らされた生物。
うずくまり目を閉じる巨体には、大空を飛翔する為に二翼あるはずの翼が、一つ足りなかった。
根元から折れたのか、鋭い輝きの鱗におおわれた背から見えるのは、無残にも骨がむき出しの翼だったモノ。残るもう一翼も所々穴があいて裂けていたりとボロボロで、誰が見ても飛ぶのは不可能だと理解できる状態だった。
しかし、それだけの状態ならば、風魔法で飛翔を助ければ飛んでいけるのかもしれなかった。ヒュドラにも頼めば、手を貸してくれるに違いない。
けれど、どんな魔法を使っても、この場でうずくまっている水竜が、広い湖が広がる『王の庭』へと跳んで行く事は不可能だとわかる。
―――目を閉じ、微動だにしないその姿からは、その巨体から檻の外に流れ出る神気とは逆に、生命の息吹が微塵も感じられなかった……。
「……せめて、檻を壊してあげなきゃ」
神気が感じられると言う事は、きっと水竜の魂はまだ檻の中の肉体にあるのだろう。
どんな魔法がかかっているかを知るために、そっと銀の檻に触れる。
感じたのは、アイリスの胸についていた刻印と同じ魔力だった。
檻に掛かっている魔法も、『制限印』と同じ人物がかけたのだと想像できた。
誰がそれを命じたのか、それはきっと―――……。
アイリスは頭を振り、余計な考えを打ち消した。
いや、これ以上傷つきたくないという本能が、考えないようにした。
(早く壊さなきゃ)
破壊魔法なんて見たことも無いし、習っていないアイリスは、お得意のでたらめ魔法を使うべく、薄い榛の瞳を金に変化させた。
目の前にそびえる檻に向かって両手を突き出し、魔力を集める。
「大きな魔法なら、目の前にそびえる銀の檻を壊す事ができるかもしれない。……それに、身体があの場所へ飛べなくても、せめて魂は送ってあげたい」
見える顔は苦悶の表情など浮かべてはいなかったけれど、流れ出る神気が尽きる前に魂を解放してあげたかった。
なにより、無残な状態で、亡骸となっている水竜を見ていたくなかった。
魔力を集めている最中も、どうしてこんな状態で閉じ込めたのかと怒りが込み上がってくる。
―――翼を傷付けられて、痛かっただろう。
―――最期の時を、こんなに冷たい檻の中で迎えるのは、悔しかっただろう。
アイリスの怒りの程を表すかのように、金の瞳に輝きが増した。そして、怒りで一層膨れ上がった虹色をまとった魔力の球が、針のように鋭い棘が絡まる銀の檻に向かって放たれた。




