榛は真実を垣間見る
グラティスは長い回廊を息を切らしながら走っていた。
ヘルツから話を聞き、皇帝である伯父に皇妃を止めるように伝令を飛ばしたが、自分でも聞きたい事があり、いてもたってもいられなかったのだ。
城の謁見室へと走り抜けながら、頭の中ではヘルツとの会話がぐるぐると回っていた。
「……グラティス様は、アイリスの事をどこまで御存じでしょうか」
「シドが魔法を使えない理由の、皇帝の黒歴史なら知ってる。……それを考えると、皇妃様は関係ないはずだろ? なんでアイリスを狙うんだ?」
「……皇妃様は、アイリスの父カイムベール様の許婚でした。家同士の結びつきを強固にするために、皇妃様が生まれる前から決められていた事だったのです」
「―――!! カイム……ベール」
その名に近い者の名を知っているグラティスは驚いた。
気付けば新芽の小さな光となって自分の周りを飛んでいた精霊。
最初に気付いた時は精霊ともいえない弱い気配しか持っていなかった。魔力を分け与える度に成長し、言葉を話すようになった賢い精霊。
……偶然だろうか、アイリスの側に居たいと言っていた新芽色の精霊と名が似ているのは。
いや、あの精霊は女だった。第一、人間が精霊になれるわけがない。
グラティスはその事を頭の片隅に追いやり、ヘルツに話の先を促した。
「皇妃様は未来の伴侶たる方に想いを抱き、カイムベール様もそれに応えようとなさっておいででした。しかし、カイムベール様は皇妃様の異母妹と出会われてしまったのです。異母妹様は病気がちでいつも伏せっておられ、カイムベール様と接点など無いお方でした。ですが、不思議な事にいつの間にか想いを通じ合っておいでだったのです。カイムベール様は皇妃様との婚約を破棄し、異母妹様をその座に置きました。……そこからが、グラティス様もご存じの黒く塗られた歴史が始まったのです」
異母妹に懸想した皇帝が、当時、王国だったこの国の王を弑し、王太子を神殿に閉じ込めた。そして、身の危険を感じた異母妹は神殿に逃げ込み事なきを得る。やがて神託を受ける巫女となった彼女は神殿籍に入り、皇帝は諦めて彼女の姉を妻にした。それが皇妃だ。
好きだった男に一方的に婚約を破棄され、異母妹にその座を奪われた彼女はさぞや悔しかっただろう。自分は家の為に皇帝の妻となったのに、産んだ子供は精霊王の呪いまで受けて、精霊から見放され魔法が使えない、精霊も見えない普通の子供。
その後に二人が神殿でひっそりと結ばれ、数多の精霊から祝福を受けた神の色である虹を纏ったアイリスが生まれたと知った時は、二人を憎みさえしたのかもしれない。
……おそらく、アイリスさえも。
親の事を何も知らされていないアイリス。周りの大人が言った貰われ子という嘘を信じて、太陽の下で駆けまわる天真爛漫という言葉が似合う、兎のような女の子。
勝手に憎んだ挙句、そんな彼女の小さな命の灯を消そうとするなんて、許せるわけない。
グラティスは怒りで奥歯を鳴らせた。いつの間にか握りしめていた掌からは、爪が当たったのか血が滴った。
幼いアイリスに頬笑みを向け、泣いている時には抱きしめ、手を繋いで隣を歩きながら、皇妃は機を見て自分を信じるその小さな命の灯を消そうと画策していたのだろうか。
皇帝が「アイリスを生かせ」と命じたのも、いつか訪れるだろうこの状態を危惧しての事だったのだろうか。
こんな怒っている場合ではない。今、自分がしなければいけない事があるんだ。
皇妃の魔の手からアイリスを守らなければ。
そして、皇妃を止める権限を持つのは、皇帝だけだ―――……。
考え事をしながら走っていたら、目的地の扉が目の前に現れた。
皇帝の執務室の前にはいつも居るはずの護衛が居らず、ひっそりと静まり返っていた。
怪訝に思いながらもその重い扉をゆっくりと押し開くと、皇帝が一人佇んでおり窓から雷鳴轟く外を眺めている。
真っ直ぐに伸びた背筋に、白基調のマントに金刺繍が彩りを添えるそれがよく似合っている後ろ姿だ。
腰に佩く血の様に赤黒い長剣の鞘が、彼の残忍さを表しているように鈍く光っている。
「―――グラティス、心配は無用だ。……妃には、私用での騎士団悪用で捕縛命令を出してある。アイリスの顔を知っている我が兵を全て駆り出して探索に当ててある、じきに見つかるだろう。……アイリスには生きていてもらわねばならんからな。まだ、死んでもらっては困るのだ。」
後ろを振り向かずに気配だけで誰かを当ててしまえるのは、戦場をぐぐりぬけた者の研ぎ澄まされた感覚ゆえか。
グラティスは驚きながらも、皇帝が伝令から子細を聞き皇妃を止めた事に安堵の息をついた。
しかし、先ほどの皇帝の言葉に疑問を感じざるを得ない。
今の言い方では、用が済めば死んでも構わないと言っているように聞こえるのだ。
「あなたもアイリスを消そうと考えているのですね! あの子は自分の親の事や、歴史に埋もれた真実を知らないのに!!」
めったな事で叫ばない彼が、気付けば恨みがましく声を荒げていた。
しかし、皇帝は意に介する様子も無く、鼻で笑うとグラティスに射すくめるような双眸を向けた。
「皇太子の子供さえ産めばアイリスは神殿行きだ。生きようが死のうが関係ない。……ククク。親子で対峙するなど実に滑稽だ。神に愛された子供が神の反逆者の巫女になる。神と精霊に対して最高の復讐劇だと思わないか?」
「―――っ!?」
正気の沙汰ではない瞳で同意を求める皇帝に、グラティスは恐怖を覚えた。だが、それよりもアイリスを守りたいと思う気持ちの方が強かった。
部屋から踵を返すと、皇帝の手よりも先にアイリスを探すべく外へと駆けだした。
皇帝と皇妃の近くにアイリスを置いておいたら危険だ。
俺が、守らなくては―――。
太陽の下で笑いながら跳びはねるアイリスを。
時折痛む榛の瞳が、アイリスが生きている事を知らせてくれる。どこかに居るはずだ。
寂しがり屋で怖がりの彼女は、きっと、助けを呼んでいる筈だ。
アイリスが居ない事で痛んだ心と、得体の知れない恐怖感が、彼女を守らなければという使命感で霧散する。
そして、心の奥で、今まで疑問のパズルとなって散らばっていた欠片が、少しずつはまって行くのを感じた。
皇帝が「アイリスを生かせ」と命令した意味。
アイリスがこの敷地から出れない制限印を与えられている理由も、何となくわかった。
神殿に入れる為に、逃げ出せないようにだろう。
彼女の持つ魔力を使ってどこか遠い場所へ行ってしまわないように、制限するために。
皇帝の復讐の為の道具として使う為に……。
そんなひどい事をするために、ずっと見守ってきたわけではない。
アイリスがいずれシドの伴侶となる事は何となくわかっていた。だから、多少心が疼く時があっても、幸せになってもらうために見守ってきたんだ。
……今の俺には何ができるだろう?
―――いや、考える暇はない。俺に話したと言う事は、この王城に閉じ込める気かもしれない。
皇帝よりも先に、アイリスを見つけて保護しなければ。




