湖畔のお茶会は旅立つ儀式
湖畔に再び現れたテーブルの上に、琥珀色の液体が満たされた茶器が置かれた。
ヒュドラ主催のお茶会の再開である。
参加者はアイリスのみ。カイムはというと、アイリスから離れようとしなかった為に、強制的にヒュドラに追い出されてしまった。
「―――はぁっ? もう一回言ってもらっていい? ……ですか?」
「……だからね、俺の友人は水属性の竜だ。かなりの高齢で、最期の時を水の気が満ちるこの場所で迎える事を望んでいた。でもさ、人間の檻に捕まってるみたいなんだよね。俺達は決まりがあって人間に手出しできない。そこで君の出番だよ」
「檻を壊せばいいの?……ですか?」
御名答、と頷くヒュドラ。アイリスは、自身の胸にある刻印の事を思い出し、榛の瞳を曇らせた。
胸にある刻印は、アイリスが精霊に連れ去られないようにといった理由で皇帝が付けたものだった。この刻印は敷地境界にある結界魔法に反応して、アイリスの身を弾き返す。
竜が王城に捕えられているなんて話は、グラティスからも精霊からも聞いた事が無い。だったら、その場所は外の世界のはずである。
外に興味を持ち始めた頃に、何度も脱走を試みたが一度も成功した事はなかった。石ころは結界を通過するのに、アイリスの身体は見えない壁に阻まれるのだ。とてつもなく大きな魔力の壁に。
「……無理。だって、この刻印が私を結界の外に出してくれない。刻印が……、って、あれ? 私って何でこの場所に居れるの?! 敷地外には出れないはずなのになんで……ですか?」
「ああ~! そうか、変な魔力を君から感じると思ったら、そんな呪いを受けてたのかぁ!」
ヒュドラは両手を叩き、合点がいったと納得した様子である。同時に、アイリスから視線をずらし、笑えるから変な敬語はやめてくれと口元に手を当ててこぼした。
「アイリスがここに移動できたのは、俺が呼んだこともあるけど、君が居た敷地とこの場所は、同じ場所にありながら違う空間にあるからじゃないかな。……わかる? 重なっているようで重なっていない空間。だから君は今、人間世界でいうと結界内に居る事になってる」
「?? よくわからない」
目を点にして、首をかしげるアイリスにヒュドラは苦笑を洩らした。
「もう少し勉強したら? ……でも、結界内から出れないのは困るね。檻は神殿にあるからさ」
「神殿!?」
グラティスが言っていた、精霊がたくさんいる場所。
雨の中、そこだけ淡い光を発して、幻想的に輝いて目が離せなかった建物。おそらくあの建物で間違いない。あんなに精霊が集まって綺麗な輝きを放っているのに、竜を檻に閉じ込めるなんて酷い事をしている人達がいるのだろうか。
(信じられない)
ヒュドラは愕然とした表情のアイリスの頭を撫でて、彼女の頭の中にある想像を否定した。
「神殿って言っても、今は二つあってね。俺達精霊が慕う神を崇める場所と、神と対峙する者を崇める場所。友人が閉じ込められているのは、神に対峙する魔を神と崇める人間が集まる神殿の方だよ」
「魔? 何? それは」
敷地外の事には疎いアイリスにとって『魔』とい言葉は初めて知る言葉だった。
全く無知の彼女にヒュドラは嘆息を漏らすと立ち上がり、湖に向かって指を鳴らすと一つの建物を映しだした。
アイリスは湖に近づき、その建物を目に入れると息をのんだ。
白い石造りの建物全体に、禍々しい黒い靄がかかっている。何故だか湖を通してもその禍々しい気配が伝わってきた。彼女にとってその気配は、つい最近感じた物だった。葦の群生に突如現れアイリスを襲った黒い手、それと同じ気配がした。
「『魔』そのものは映せないけど、この石造りの建物が魔の神殿。……神や精霊を恨む為に、『魔』なんてものを祀っておきながら神殿なんて笑える。その象徴に水竜を使うなんて言語道断だ。俺が一人で好き勝手やっていいのなら、真っ先に潰すのに」
ヒュドラは唸る様に、低い声で言い捨てた。怒りを精一杯押し込めているという風である。さぞかし怒りに歪んだ顔だろうと恐る恐るアイリスが仰ぎ見たが、その顔は怖いほどの無表情だった。
何も感情が感じられない。あるのは、背筋が冷えるほどの静かな怒気。
アイリスの足元が震えるのは、ヒュドラの怒気の所為か、湖面の端にに映し出された禍々しい気配の神殿の所為か、どちらだろう。
怖くなり、知らず知らずに、アイリスは自身身体を抱きしめていたようだ。
(この場にグラティスが居てくれたら心強いのに……)
しかし、現実ではどれだけ呼んでもグラティスがこの場に来れるはずも無く、今側に居るのは湖面に映る神殿に対して静かで深い怒りを孕んだヒュドラのみ。
その怒りは、捕らわれている友人がどれほど大切なのかを物語っているようだ。
「―――アイリス、君にはあの神殿の奥に行って友人の檻を壊して欲しい。それだけで彼は解放される。ここに戻れるはずだ。……その胸の邪魔な刻印は、俺が外してあげるよ。だから、行ってくれるね?」
ヒュドラの気配は深い怒気なのに、アイリスを覗きこむその蒼い瞳は、なぜか深い悲しみが浮かんでいた。
怖いから行きたくない、そう言えない瞳をしていた。
アイリスは言葉を飲み込むと、顎を引き首を縦に振った。
「うん」
アイリスの頷きを見たヒュドラは口角を上げると、彼女に近づき指でアイリスの胸を軽く突いた。
心臓の上―――刻印の上を。
その瞬間、彼女の身体に電気が走った。刻印から水の魔力が押し寄せてきたのだ。それは刻印の上をなぞる様に動くと、アイリスの身体の中に入り込み四肢の先を目指して縦横無尽に動き回った。
(刻印が書き換えられる?!)
身体の中で魔力同士が衝突しているのがわかった。身体の中をかき混ぜられているようだ。あまりの気持ち悪さに立っていられなくなり、草の上に崩れ落ちた。
「くぅっ! あ……あぁっ!」
痛いわけじゃない、でもあまりに気持ち悪すぎる。
冷や汗と脂汗が絶え間なく噴きでて、アイリスの乾いた髪を濃い色に濡らし染め変える。額から流れた汗は草に落ち、大地に無数の染みを作った。榛の瞳は身体の中の魔力に対抗するように金色に染まり、まるで体内で戦う二つの魔力を御しようとしているようだ。
自身の魔力が制御できないのか、虹色の色彩がアイリスの身体から滲みでて、大地を大きく鳴動させる。ゆりかごの様な揺れは次第に大きくなり、湖面が波打つ程の揺れになった。
(あと少しで、終わる。外の世界に……行ける!)
この先の希望を胸に、草を握りしめてアイリスは耐えた。自分の意志ではないものが、身体中を動き回る不快感を。
どれくらい時間が経っただろうか。アイリスの魔力が落ち着きを取り戻し、金色の瞳は色を濃くし榛に戻っていく。
草を握り身体を丸めながら、息を整えるアイリスに声がかかった。
「おめでとう! これで君は箱庭から出れるわけだ。……そういえば、俺って君が願ってる事の半分を叶えちゃってるんだよねぇ。だからさ、約束は絶対に守ってくれよ? 檻を壊して俺の友人を連れて来てくれ」
「うん。……直ぐに行って来る」
「ええっ?! 直ぐに? 別にそこまで急いでないけど」
若干残っている気持ち悪さに顔を顰めるアイリスの事を心配したのだろう。ヒュドラは大袈裟に驚いた。
「私が急ぐの」
刻印の呪縛が無くなったお陰か、頭が随分とスッキリした。子供ながらに、考えなければいけない事が、たくさんある事に気づけた。
そして、さっき湖面に映し出された神殿の気配と葦の群生の禍々しい気配が同じだった事を思い出し、同時に皇妃の事も思い出した。アイリスを消せとヘルツに言っていた皇妃。
(葦の中で私を襲ったのも、皇妃様かもしれない……)
どうせ今のままでは家に帰れない。皇妃がアイリスの命を狙う以上は。
(魔の神殿に行けば、きっとはっきりする!)




