試す蒼と試される虹。そして、援ける新芽
(光栄になんて思えるわけないでしょうが!!)
アイリスは憤然としながら、視界が悪い緑の水を頭上から入る光を頼りに泳いだ。
しかし、水全体に魔法がかかっているのか、アイリスの四肢は思うように動かない。
湖に住むはずの水の精霊に助けを求めても返事はなく、浮上すべく発したでたらめ魔法も効果はなかった。
動けば動くほどに息は苦しくなり、成す術も無い絶望からか、動かす手足も緩慢な動きになっていった。怒って赤くなっていた顔が、次第に焦りを帯びて青くなる。
(このままじゃ……! グラティスッ!)
焦る脳裏に浮かんだのは、アイリスがピンチの時に叫ぶと駆けつけてくれるグラティスだった。
どんな状況でも助けに来てくれた。まだ魔法がうまく使えない頃に、無茶して昇って降りれなくなった樹の上や、高速飛行する黒い虫を退治してくれたりもした。
耳元で結んでいる茶の髪を振り乱しながら、些細な事でもアイリスが叫ぶと必ず来てくれた。
グラティスは、アイリスの中では、神出鬼没の少し変態的要素をもつヒーローである。
しかし、口を開ければ口腔内に水が押し寄せる水中でそんな長い名前を叫べるはずも無く、まして『王の庭』だとか聞いたことも無い場所に来れるわけがない。
無駄だとわかりながらも水を掻き、水上に出ようと肉体で水魔法に抵抗する。
次第に力と意識が薄らいでいくのがわかる。だが、最後まで諦めたくないのかその腕は水上から注ぐ陽の光に向かって伸ばされている。
『姫が望まれれば禁忌の場所にさえ馳せ参じ、いかなる命令をもこの魂に変えて遂行いたします。いかなる能力をも、カイムの前では【皆無になる】』
意識が途切れる前に、カイムのそんな言葉が脳裏に閃いた。
不躾に口に入り込む水の事など考える暇も無く、最後の力を金色の瞳に染め変え、性急にその名を口にした。
「カイムッ!」
今すぐ来て。私をこの水から助けて。
アイリスは、手を天に伸ばしながら音にならない声で、新芽の様な明るい精霊に願った。
その願いが届いたのか、突然アイリスを守る様に緑の光が現れ、その力尽きた肢体を包みこんだ。
どこか懐かしさを感じる、優しくて慈愛に満ちた光だ、とそう思った。
「カイム」
助かった嬉しさと、応えてくれた嬉しさで涙が頬を伝う。冷たい水とは違い、それは温かい雫だった。
「我が姫、泣かないでください。もう大丈夫ですから」
風が運んでくれた草の香りで、ここは地上だと理解した。しかし、力が入らなくて瞼を開けるのが億劫だった。このまま眠ってしまえたらとも思った。けれど、助けてくれたカイムにお礼を言わなくてはと瞼を開くべく力を入れた。
カイムが溢れ出た涙を指で救いながら、さっきの光と同じ慈愛に満ちた笑みを浮かべながら、アイリスの身体を抱きしめて泣き顔を覗き込んだ。新芽色の瞳が不安げに僅かな陰りを帯びる中、アイリスは違和感を感じた。
そう―――、
「なんか……大きくなってない?」
違和感はカイムの大きさだった。
手乗りサイズだったはずの精霊が、今はアイリスを抱きしめる程の大きさになっていたのだ。歳は同じ位だろうか。天辺だけ切り取った髪も元に戻っている。
「……なんで?」
「姫、今はそんな事を言っている場合ではございません! 王の怒りを買ってしまった以上、逃げるが勝ちですよ! さぁ、逃げましょう!!」
アイリスが元気である事を確認すると、カイムは人間がそうするように移動魔法を唱え始めた。
直ぐにカイムの気配が満ちた円陣が浮かび上がった。それには、新芽色の幾何学模様が描かれている。魔法の勉強を満足にしていないアイリスにはどんな意味がある文字かは判らなかったけれど、乱反射する光が綺麗だと思った。
魔法が発動するする瞬間、それに合わせたようにヒュドラの声が被さった。ヒュドラが円陣に触れると、光が水の魔力に押し流されたかのように弱まった。力でねじ伏せた感じである。
「行かせないよ。誤解しないで欲しいんだけどさ、俺は怒って魔法で攻撃したわけじゃない。俺の大切な名を、読みとる事が出来たアイリスを試しただけだ。……俺の暇つぶしに付き合える器かどうかをね」
「暇つぶし……?」
「そう。言わなかったっけ? 俺さ、長い時を生きすぎて暇なんだ。ま、俺の気が乗ればアイリスに使役されてやってもいい。付き合ってくれる? 暇つぶしにさ」
力尽きて首を巡らせ口を開く事が精いっぱいのアイリスと、彼女を庇うように抱きしめるカイムを見降ろしながら、ヒュドラは背筋が冷えるほどの艶然とした笑みを浮かべた。
警戒して何も言わないアイリスに向かい、ヒュドラが屈み彼女の手をとる。
「そんなに難しい事じゃない。俺の友人をこの場所に連れて帰って欲しいんだ。どれだけ時間がかかっても構わない。君が生きてそれを果たせれば、君の事を認めてあげるよ。君は俺が手に入るかもしれないし、俺は友人に会える。一石二鳥だと思わない?」
「姫、駄目です! この方の言う事を聞いてはいけません!!」
庇うカイムが声を荒げる。ヒュドラはアイリスの手を放すと、カイムの頭に手をやり緑の髪を引っ張った。カイムの顔は痛みに歪んでいるが、アイリスを守るその手はしっかりと彼女を守り続けた。
ヒュドラは蒼い瞳を細めてカイムを検分すると、何故か鼻で嗤った。
「……カイム、だったな。ふ~ん? 変な気配の精霊だと思ったら、お前だったんだ? お姫様が心配でこんな場所まで御苦労さま。―――でもさ、俺はお前じゃなく、アイリスに聞いたんだよ」
「我が姫を守るのは、こんな私でもできる唯一の事。危険な出来事から遠ざけるのは、守る者の基本でございましょう?」
痛みに涙を浮かべながらも、真っ直ぐにヒュドラの顔を見据える姿は、カイムが女だと忘れるほどに勇ましい。
そんなカイムの勇士に勇気づけられたのか、はたまた髪を引っ張られて涙する友人を守ろうと正義感が働いたのか、アイリスは気付けば口を開いていた。声を出すのも億劫なのに、声を荒げていた。
「―――やる! だから、カイムに意地悪しないで!」
ヒュドラはニヤリと笑うとカイムの髪を離し、アイリスの手を取ると口づけた。
「……えっ?!」
いきなり手に口づけられた事にも驚いたが、唇が触れている部分から入ってくる魔力に驚いた。
体力を使いきって力尽きた身体が軽くなり、その小さな身体には水の魔力が少しだけ足された。
アイリスの回復を見届けたヒュドラは、驚いてあんぐりと開いている彼女の唇に指を這わせると、底意地の悪い笑顔を浮かべた。
「口にした方が完全に回復できるんだけど、さすがにそんな趣味ないし。……そうだね、あと五年位したら、してあげてもいいかな」
「な、ななななっ! グラティス様に次いで貴方様までっ! このカイムの目が緑の内は、我が姫に破廉恥な行為は許しません!」
「破廉恥って……。だから、そんな趣味はないって」
心外だと大きな溜息を吐くヒュドラ。カイムは信用ならないとばかりに力を込めて、しかし、優しくアイリスを抱きしめる。まるで、壊れやすいものを真綿で柔らかく包んで守る様に。




