絶対無垢
稀なる優しい魂を持つ少女がいた。
やっと物心つくほどの、ほんの幼い頃から、少女は自分の周りに在る全ての衆生に対し慈愛の情を抱いていた。たとえそれが、畑に生い茂る雑草であれ、農夫たちが刈り取ろうとしているとその側にやって来て「ころさないで」と涙をこぼし懇願した。
少女は、あまりにも優しすぎる心の持ち主だった。
道端に無造作に転がっている荷車に轢かれた小汚い猫の死骸にも、猟師によって打ち落とされ食卓に並んだ野鳥の姿にも、あるいは偶然居合わせた葬送行列の、自身とは全く関わりのない人々が悲嘆に暮れる姿にも、少女はその小さな躰を震わせ大粒の涙を溢し哀しんだ。
人々は少女の、あまりに深く激しい衆生への慈愛と哀しみの情にいささか驚きはしたが、少女が『最も高き尊き方々』すなわち神族の血を半分引いていることを知ると納得した。稀なる血筋は稀なる美しい魂の者を生みだすのだろうと、人々はそう囁き合った。
それは、ある意味では事実だった。実際、少女以外の誰一人として、自分以外の誰かや何かのために涙を流したりするだけの心を持っていなかった…あるいは、そんなことをしている余裕がないようだった。
やがて少女は、半神人ゆえの稀なる強大な霊力を用い病や怪我に苦しむ者を癒すようになる。
その地方を治める領主の娘でもあった少女は、家の財産をつぎ込んで、ほとんど無償に近い貧民救済事業を起こし精力的に活動した。道端に不具者や乞食が転がっていれば惜しげもなく衣服や食料を与え、病や怪我に苦しむ者が救いを求めればその傷を癒し病の苦しみを和らげてやった。
たとえ自らが貧しくなろうと辛かろうとまったく構わずに、弱き人々のためにひたすら尽くした。
少女の、家計をまったく考慮しないあまりにも無謀な活動を、両親や兄など近しい者たちは咎めたが、しかし本気で止めようとはしなかった…いや、できなかった。
『神』の子である少女は、下界において「父親」を名乗ることを許された領主はおろか、産んだ実の母親にさえもどこか畏れられ持て余されて、あたかも腫れ物にでも触るような不可思議な扱いを受けていた。
――あるいはそれは、少女が、あまりにも清らかな魂を持っていたからだったのかもしれない。
澱みに馴染みすぎた者たちには、その無垢なる心があまりにも眩しすぎて、見ることすらできなかったのかもしれない。
少女の『癒しの力』は絶大だった。いかなる名医の施術よりも調合された妙薬よりも確実に『癒しの力』は傷を治し人々の痛みや苦しみを和らげた。その『手』にかかれば治らない病はなく…失われた手足ですら、少女は再生させることができた。
やがて少女の名は国内に広く知れ渡るようになる。
人々は少女の気高き行為に敬意を表し『聖女』と呼んで慕った。少女の名が広まるにつれ国中から、不治の病に苦しむ者や、あるいは事故や戦乱によって不具になった者などが救いを求めて少女の元へと押し掛けた。
その数は日毎に増え続けた。少女は寸暇を惜しんでひたすら彼らの治癒に尽くしたが、やがて少女の類い希なる神通力を持ってしても救いきれない者たちが現れはじめる。
* * * * *
「…何故ですか?何故、私の娘をお救いくださらなかったのです!!」
少女の『手』から溢れてしまった小さな娘の亡骸を抱き、その母親はヒステリックに泣き叫んだ。慌てた近習の一人が、母親の元へ駆け寄って必死になだめようとする。
「静かにしなさい。聖女様はそなたの娘をお救いになろうとなさった…だが、少しだけ遅かったのだ。聖女様の御手が届いたときにはもう、娘は事切れていたのだよ」
だが母親は、駄々をこねる子どものように首を振り、叫ぶ。
「では生き返らせてください!私の娘を…どうかお願いです!」
その母親の痛々しい姿に堪えきれず、少女は近習が止めるのを振り切って彼女の前へ進み出た。
「貴女には、本当に申し訳ないことをしました…どうか許してください、わたくしの持てる『力』では、貴女の娘を甦らせることはできないのです」
その瞳に涙を浮かべ、精一杯の心をこめて、少女は言った。
――けれど、
「…嘘!! 嘘です!だって貴方様は偉大なる神の御血を継いでおられるのでしょう?何でもできるはずです!その聖なるお力で、この子を生き返らせて!!」
母親の切なる叫びは、まるで凍てつく真冬の嵐のように、一瞬にして少女の心を凍りつかせた。
返す言葉を失い立ちつくす少女の姿に、近習が慌てて母親を別室へと引き立てていく。居合わせた他の近習も、どうすればいいのか分からない様子で、ただおろおろと困惑の視線を少女に向けていた。
その場に凍りついたまま、少女は母親の言葉を反芻する。
『何でもできるはずです』
――少女は、静かに自分の両の手を見つめた。氷が溶けるにつれて、じわじわと、心の中に痛みが広がってゆく。
「…お気になさいますな。あの女の娘はどうしようもなかったのです。ここに連れてこられた時にはもう半死でございました。どれほど急いだとて、間に合いはしなかったでしょう」
しばらくして少し年嵩の近習が、恐る恐る少女に声をかけた。けれど少女は俯いたまま「次の人を呼んでください」と消え入りそうな声で言った。
「…分かっています。わたくしとて所詮、半分は人の子です。偉大なる父神のように万能ではあり得ないのです」
少しだけ悲しそうに笑って、少女は呟く。そして顔を上げると、掛ける言葉を失い目を伏せた近習たちの横をすり抜け、救いの『手』を待つ人々がひしめく部屋へと向かった。
* * * * *
少女は、勿論理解していた。
――いかに神の血を引いているといえども、己の『力』には限りがあるということを。
けれど、日を追うごとに少女の『手』から零れ落ちる生命の数は増えてゆく。少女のちっぽけな掌では救いきれぬほどに、人々は少女を求めていた。そして少女には、零れ落ちてしまう者たちをどうすることもできなかった。
ある日、思い余った少女は、己の手には負えぬ人々を救ってもらうべく父神に祈りを捧げた。神殿に籠もり、父神の声が降りてくるまでひたすら、食を断ち祈り続けた。
そして三日三晩の祈りの後、ついに、その血を引く娘であるはずの少女ですらほんの数度しか尊顔を拝したことのない父神が少女の前に現れた。
「わたしの小さな娘よ。いったいわたしに何の用事だね?」
父神は、穏やかな顔で不思議そうに訊ねる。畏れおののきながらも少女は、必死の想いで言葉を紡ぎ出す。
「我が偉大なる父神よ、わたくしは貴方にお願いしたいことがあるのです――どうか、わたくしには救いきれぬこの世の弱き者たちをお救いください!」
だが父神は、なおも不思議そうに少女に向かって訊ねた。
「おまえに救いきれぬ者を、どうしてわたしが救ってやらねばならぬのだ?」
その声が、いかにも自然な疑問だったので、少女は思わず言葉を失う。
「わからないな。わたしがおまえに分け与えた『力』で救いきれぬ者のことを言っているのならば、それは我らが定めた『法律』に則る摂理だろう。べつにおまえが気に病むことではないはずだが…」
淡々と、あまりにも淡々と、父神は語った。
そして、その言葉の意味するところを理解するにつれて、少女の頭から静かに血の気が引いてゆく。
摂理?
「…ああ、そうか。おまえはまだ幼いから、我らの『法律』のことがよく分かっていなかったのだな。…やれやれ、仕方のない子だ」
そう言うと父神はそっと少女の頭に手を置き、あやすように優しく撫でた。
けれど、秘かに焦がれていたその御手に直に触れられても、少女の心には何の感慨も沸き上がっては来なかった。時が止まってしまったかのように、少女は父神の言葉にのみ思いをめぐらせていた。
やがて父神は少女に別れを告げると、音もなく静かに消え去った。だが、父神が去った後も少女はその場に佇んだままその言葉をじっと考え続けていた。
(わたくしの力が及ばないこともまた摂理なのか。わたくしの『手』から零れ落ちてしまったあの者たちは必然だというのか――ああ!)
少女の脳裏に、娘の亡骸を抱え呆然と涙を流し続けていたあの母親の姿が浮かんだ。
…あるいは父を失った悲しみのあまり少女に呪詛の言葉を投げかけ、近習たちによって追い出された幼い少年の姿が、あるいは死んでしまった恋人の遺髪を胸に抱いて泣き崩れた若い娘の姿が、あるいは――…
(……わたくしは無力だ、これほどに無力だ。それが――『摂理』だと?)
そんなことがあって良いはずがない!!
「そうだ…そんなことは間違っている…わたくしは全ての人を救いたいのだ。全ての人に幸せになって欲しい…それは善であるはずだ、正しいこと…真なる理であるはずだ!」
その場に跪いたまま、少女はぶつぶつと呟き続ける。
(ならば、どうすれば良いだろう?どうすれば、一人として洩らすことなくこの"手"にすくい取ることができるのか?)
少女は考え続ける。
父神が去ってから一昼夜が過ぎ…近習がやって来て声をかけたが、全く気付かずにただひたすら考え続けていた。結局、疲労のために倒れてしまうまで、少女はその場を動かなかった。
* * * * *
父神との対話以来、少女がすっかり変わってしまったことを、誰もが認めないわけにはいかなかった。
あれほど寸暇を惜しんで癒しを施していたのに、もはや少女は週に一、二日しか人々の前に姿を現さなかった。あとはひたすら、書庫に閉じこもってなにやら書籍を読み耽り、あるいは遠方の法律師を呼び寄せてその教えを請うたりしていた。
――やがて、目の前で救いを求める衆生をまったく顧みない少女の態度に、多くの近習たちは失望して、一人また一人と側を去っていった。
「お願いでございます。以前のようにその『癒し手』を哀れなあの民の前に現してくださいませ。どうか…どうか!」
最も年長の近習だけが、最後まで少女の側を離れず必死に諫め続けた。
少女は、憂鬱そうにその老いた近習を見やって、言う。
「…どうして分かってくれないのです、お前達は。わたくしはただ、全ての衆生を救いたいだけなのです。そのためにはもっともっと大きな『力』が必要なのですよ」
「しかし…今この目の前で費えようとする生命を見捨ててまで、成すべきことなのでしょうか?」
――すると、少女の口から、以前では考えられなかったような不可解な言葉が紡ぎ出される。
「見捨てるのではありません。少しの間、待っていてもらうのです」
老いた近習は、思わず我が耳を疑った。
「……何と…仰られた……?」
そして唐突に、目の前にいる『聖なる人』と崇められるその者が怖ろしく感じられ、一歩下がりそうになる。
彼が怖ろしく感じたのは、そのような意味の通らない言葉を一度として使ったことのない少女が、真顔でそれを言ったからだった。
(…この方は、狂ってしまったのだろうか?)近習はふと思った。
「驚くことではありません。我が偉大なる父の血族、すなわち神々は死者を甦らせる『法律』を持っています。ならばそれはわたくしの血の中にも眠っているはず…たとえ半分だけであれ」
こともなげに少女は言った。
「その『法律』を導きだし、しかるべき力場において解放すればいい。…わたくしならば死者を甦らせることができるはずです」
老いた近習は少女をじっと見た。そこに狂気の影が見えはしないかと、未だかつて無かったほどしげしげと、少女の瞳を覗き込んだ。…けれど、近習には何も分からなかった。彼には少女の瞳の中にもその外見にも、狂気の萌芽とでも呼べそうなものを見出すことはできなかった。
少女はいつも通り神々しく…いや、近習の目にはいつもよりずっと神々しく光り輝いて見えた。
――ほんの一瞬、少女の言っていることが正しいような想いに駆られる。
「…し、しかし…そのようなことは、尊き神族の定めたる『摂理』に反するのではありませんか?」
少女を刺激しないよう、そっと、近習は訊ねてみた。すると少女は、憎しみとも、悲しみともとれる不可思議な色に瞳を染めて、叩きつけるように言う。
「万人が幸せになれないような『法律』など、『摂理』ではありません!」
少女は何故か、今にも泣き出しそうな頼りない顔で歯を食いしばっている。
その時近習は、おそらく初めて、自分が仕えているこの『聖なる人』がただの《ちっぽけな女の子》でしかないことに気付き、呆然としてその姿を見つめた。
(…なんということだ…この方は…)
近習は、眩暈にも似た激しい悲しみを感じて目を閉じる。
(……ああ、この方は、ただ優しすぎただけだというのか……?)
ぽつりと、呟くように少女は続けた。
「……わたくしは、救いを求める『全て』の人を救いたいのです」
老いた近習は、もはや返す言葉もなくそっと頭を垂れ、そして、それから数日の後に少女の側を去った。
* * * * *
そして少女は一人になった。
もはや、彼女を止める者は存在しない。
薄暗い書庫で、数多の法律書籍に埋もれて…少女は、まるで微睡むように夢を見る。
病も老いも生の苦しみも死への恐怖もなく、万人が永久に幸福であるという西方楽土を、自らの『手』で造り出すという、果てなき夢を。