第7話:泥を焦がす流星(決戦前夜の強行軍) 【エリス】
ホリヨシです! 第一章もりあがってきてます。
「ゲホッ、ゴホッ……!」
肺の奥からせり上がってくる鉄の味を、雪の上に吐き捨てる。
赤黒い染みが純白の雪を汚すのを見下ろしながら、私は荒い息を整え、杖を強く握り直した。
帝国暦842年12月。
本来であれば安全な後方拠点に留まっているはずの私は今、数名の護衛志願兵だけを引き連れ、魔王領の最深部『死の荒野』を駆け抜けていた。
ゼクスと名乗る暗殺者から、魔王城の玉座に仕掛けられた『光塊反転の法(アレンが聖剣を振るえば命を落とす罠)』の図面を受け取ってから、一ヶ月半。
私は軍の正規の行軍ルートと命令を完全に無視し、本隊への合流――いや、本隊を「追い抜く」ための無茶な強行軍を続けていた。
「エリス様、もう限界です!
これ以上の身体強化と防寒の術式展開は、貴女の魔力回路を焼き切ってしまいます!」
猛吹雪の中、私の背中を追ってくる若い魔術兵が悲鳴のような声を上げる。
彼らの言う通りだった。
私はこの一ヶ月半、睡眠もろくにとらず、常に自分と同行者の体に強力なブースト魔法を掛け続けている。
鼻血は日常茶飯事で、今はもう指先の感覚すらない。
マナの枯渇による頭痛は、脳髄に直接焼けた釘を打ち込まれているかのようだった。
「止まらないで。ここで立ち止まれば、彼が死ぬわ」
掠れた声で返し、私はさらに魔力を練り上げた。
足元には、本隊の先鋒を進むアレンが通った痕跡――聖剣の圧倒的な熱量によって雪と泥が溶け、ガラスのように結晶化した道が、まっすぐに魔王城の方角へと伸びている。
この道を辿れば、確実に彼に追いつける。だが、追いつくだけではダメなのだ。
彼が魔王の御前で聖剣を抜くよりも早く、私が玉座の間に辿り着かなければならない。
そして、あの忌まわしい罠の陣形を、私の炎で跡形もなく焼き尽くす。
軍法会議にかけられようが、反逆者として処刑されようが知ったことではない。
あいつの命に比べれば、私の宮廷魔術師としての地位など、泥以下の価値しかなかった。
「見えた」
吹雪の幕がふっと途切れた瞬間、私は杖を持つ手に力を込めた。
地平線の先、どす黒い雲を突き刺すようにそびえ立つ、巨大で禍々しい影。魔王城だ。
そしてその手前の平原には、無数の松明の灯りと、激しくぶつかり合う魔力の閃光が見えた。
帝国軍の本隊が、すでに魔王城の最終防衛ラインと交戦を開始しているのだ。
「間に合って……アレン!」
私は血の滲む唇を噛み締め、結晶化した道を弾かれたように駆け出した。
「前線、崩れます! オークの重装歩兵の数が多すぎる!」
「英雄殿はどこだ! アレン様は!」
戦場は、凄惨な血の匂いと怒号に包まれていた。
私たちが本隊の最後尾に辿り着いた時、帝国軍は魔王城から湧き出す無数の魔物の群れと泥沼の乱戦を繰り広げていた。
「エリス様! 我々も援護に」
「いいえ、あなたたちはここで負傷者の手当てを手伝って! 私は前へ出る!」
護衛の兵たちを後方に残し、私は単騎で戦場のど真ん中へと飛び込んだ。
狙うはただ一つ、一番激しい光が放たれている最前線。アレンのいる場所だ。
「どきなさいッ!!」
詠唱すら省いた無詠唱の炎の槍を何十本も同時に展開し、立ち塞がる魔物たちを次々と串刺しにしていく。
普段なら絶対にやらない、魔力効率を完全に無視した力任せの殲滅戦。
私の派手な魔法に気づいた帝国軍の兵士たちが、驚きと共に道を空けていく。
「あれは……宮廷魔術師殿!? なぜ後方部隊の彼女がここに!」
兵士たちのどよめきを背に受けながら、私は戦場を駆け抜けた。
焦燥で心臓が破裂しそうだった。
早く、早く彼を見つけなければ。
あの馬鹿は、自分が罠に嵌められていることも知らずに、皆を守るために一人で城の中へ突っ込んでしまうかもしれない。
その時だった。
前方でひときわ巨大なオークの戦士が、味方の盾陣を吹き飛ばし、雄叫びを上げて大斧を振り下ろそうとした。
その切っ先の下には、見覚えのある傷だらけの老兵――バルガス副隊長が倒れ込んでいる。
「させない! 『爆炎』!!」
私は杖の先から極大の火球を放ち、オークの巨体を横から吹き飛ばした。
轟音と共に魔物が黒焦げになって崩れ落ちる。
私は息を切らしながら、雪の上に倒れるバルガスさんの元へ駆け寄った。
「バルガスさん! 大丈夫ですか!」
「エリス……嬢ちゃん、か……? なんで、あんたがこんな最前線に」
バルガスさんは信じられないものを見るように目を丸くしたが、私は彼の無事を確認するなり、切羽詰まった声で尋ねた。
「アレンは!? アレンはどこ!」
私の剣幕に圧されたのか、バルガスさんは城の巨大な正門の方角を指差した。
その門は、すでに内側から破壊され、ぽっかりと暗い口を開けている。
「あいつなら、ついさっき一人で城の中へ突っ込んでいった!
俺たちじゃ足手まといになるって、結界を張られて置いていかれたんだ!
止めようとしたんだが、あいつの目は……完全に死地に赴く男の目をしていて……!」
「――ッ!!」
バルガスの言葉を最後まで聞かず、私は杖を握りしめて城門へと向かって駆け出した。
間に合え。お願いだから、まだ剣を振るわないで。
あなたは、世界のための使い捨ての道具なんかじゃない。私が絶対に、あなたをただの人間に引き戻してやる。
帝国暦842年12月。
決戦の火蓋が切って落とされた魔王城へ、一人の魔術師が流星のように単身で飛び込んでいった。
魔王城の内部は、まるで巨大な生物の胃袋の中のように生温かく、濃密な瘴気が満ちていた。
だが、迷うことはなかった。
一直線に続く黒曜石の回廊には、アレンが通った痕跡――聖剣の圧倒的な光に灼かれ、ガラス状に溶けた壁と床が、玉座の間への確かな道標となっていたからだ。
「ハァッ、ハァッ……っ!」
口から零れ落ちる血を手の甲で乱暴に拭いながら、私は走った。
残党の魔物たちが闇の中から飛び出してくるが、今の私に手加減という概念はない。
詠唱を極限まで圧縮し、すれ違いざまに業火で炭に変えながら突き進む。
魔力回路から悲鳴のような幻痛が脳に響くが、無視した。
ここで回路が焼き切れて二度と魔法が使えなくなっても構わない。あいつを助けられるなら、安い代償だ。
どれくらい走っただろうか。
不意に、視界が開けた。
巨大な両開きの扉が内側から吹き飛んでおり、その奥から、目を灼くような白銀の閃光と、空間そのものを震わせるような恐ろしい魔力の激突が感じられた。
『玉座の間』だ。
私は崩れた扉の枠に縋り付くようにして、その内部を覗き込んだ。
広大なホールの最奥、黒い水晶で出来た玉座の前に、山のように巨大な人型の影――魔王が立っていた。
そしてその対極、ホールの中心には、たった一人でそれに相対するアレンの背中があった。
「ア」
名前を呼ぼうとした私の声は、声帯が引き攣って音にならなかった。
アレンの様子がおかしい。
彼の右手に握られた聖剣は、かつてないほどの激しい光を放ち、彼自身の輪郭すらも光の中に溶け込ませようとしている。
それは、自らの命を完全に燃料としてくべた、捨て身の特攻の構えだった。
そして、私が血の気を引かせたのはそれだけではない。
アレンの足元――黒曜石の床の広範囲にわたって、ゼクスが見せてくれた図面と全く同じ、禍々しい幾何学模様の陣が赤黒く発光し始めていたのだ。
『光塊反転の法』。
アレンが次の一撃を放てば、その規格外の光はすべて陣に吸い込まれ、致死の猛毒となって彼自身の内側から爆発する。
「させないッ!!」
裂帛の叫びと共に、私は玉座の間へと飛び込んだ。
驚愕に目を見開く魔王と、背後の声に反応してわずかに肩を揺らしたアレン。だが、もうアレンの剣は振り下ろされる寸前だった。
止める時間はない。ならば、根こそぎ破壊するだけだ!
「マナよ、私の全てを喰らい尽くせ!! 『神滅の業火』!!」
私は自分の命そのものを杖に叩き込む勢いで、残された全魔力を解放した。
狙うのは魔王ではない。アレンの足元、広大な床に描かれた術式そのものだ。
ドゴォォォォォォォォンッ!!!
玉座の間に、太陽が落ちたかのような極大の爆発が巻き起こった。
私の放った業火が床の黒曜石を瞬時にドロドロの溶岩へと変え、赤黒く発光していた『光塊反転の法』の陣を、構成するマナごと完全に焼き尽くした。
「な……貴様、何処から……!?」
魔王の狼狽した声が響く。
同時に、足元の陣を失ったアレンが放った白銀の一閃が、何の阻害も受けることなく魔王の左腕から肩をごっそりと光の塵に変えて消し飛ばした。
「え」
轟音と熱風が吹き荒れる中。
爆風に煽られ、雪と泥と自分の血にまみれた私が床にへたり込んでいると、ゆっくりと、信じられないものを見るような顔で、アレンがこちらを振り返った。
「エリス……? なんで、お前が、ここに……?」
その声は、神の使いでも、感情を殺した英雄でもない。
故郷の村で私の悪戯に引っかかった時のような、ただの間の抜けた、青年アレンの情けない声だった。
「なんでって……決まってるでしょ、大馬鹿野郎」
私は荒い息を吐きながら、涙と泥でぐしゃぐしゃになった顔で、無理やりに笑って見せた。
「背中くらい、大人しく守られなさいよ。……一緒に生きて帰るんでしょ、アレン」
帝国暦842年12月。
絶対的な孤独の中にいた英雄は、泥まみれの幼馴染が放った規格外の炎によって、再び「ただの人間」が生きる泥臭い世界へと引きずり戻された。
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