第6話:泥を忘れた英雄(魔王領・最深部への行軍) 【バルガス】
ホリヨシです! 月曜は結構ゆううつです。
突如として、吹き荒れていた猛吹雪がピタリと止んだ。
いや、止んだのではない。空気が不自然に凍りつき、風の音すらも「殺された」のだ。
「ッ! 全員、止まれ! 陣形を組め!」
私の長年の勘が、致死量の危機を告げていた。
怒号を上げると同時、部隊の数十メートル先、アレンの歩む前方の空間がドロリと歪んだ。
漆黒の靄が渦を巻き、そこから姿を現したのは、今まで我々が相手にしてきた獣や下級の魔物とは明らかに次元の違う存在だった。
人型でありながら、透き通るような氷の装甲を纏い、背中には六枚の巨大な氷の翼。その双眸には、明確な知性と、底なしの悪意が宿っていた。
「ほう。
これが忌々しき光の器か。随分と……空っぽな目をした小僧ではないか」
魔王軍の幹部クラス。
その圧倒的な魔力の重圧だけで、後方にいた若い兵士数名が白目を剥いて泡を吹き、雪の上に倒れ伏した。
私でさえ、両膝が笑い出しそうになるのを必死に奥歯を噛み締めて堪えるのが精一杯だった。
だが、最前線に立つアレンは、表情一つ変えなかった。
ただ淡々と、作業をこなす機械のように右手の聖剣を構え、白銀の光を放ち始める。
「無駄だ。我の標的は貴様ではない」
氷の魔族は嗤った。
次の瞬間、魔族の背後の空間から、何百という巨大な氷の槍が出現した。
しかしその切っ先は、アレンではなく、その後方に固まって震えている我々、ただの兵士たちに向けられていた。
「英雄よ。
全てを救うのが貴様の役目なのだろう? ならば、その後ろの塵芥どもを庇いながら戦ってみせよ!」
魔族が腕を振り下ろす。
轟音と共に、猛吹雪のごとき氷の槍の雨が、我々の頭上へと降り注いできた。
アレンがわずかに目を見開き、我々を庇うために、己の命を削るあの過剰な光の結界を展開しようと剣を掲げた。
(――またか)
また、こいつに全てを背負わせるのか。
我々凡人が弱いがために、こいつの人間としての命を燃料にして、この身を守ってもらうのか。
「ふざけるなァッ!!」
私の中で、張り詰めていた何かが弾け飛んだ。
「盾を構えろォ!! 英雄殿の背中を守るぞ!!」
私は凍てつく古傷の痛みを忘れ、腰の長剣を抜き放ちながら前へ飛び出した。
私の声に弾かれたように、恐怖で硬直していた歴戦の古参兵たちも、次々と大盾を構えて前に出る。
「我らは帝国軍だ!
ただ神輿の後ろを歩いてきたわけじゃねえってことを、あの化け物に見せつけてやれ!」
――ガァァンッ!!
頭上から降り注ぐ巨大な氷の槍を、盾の角度を斜めにして受け流す。
腕の骨が軋み、足元の雪が深くえぐれたが、耐えられない重さではない。隣の兵士も、必死の形相で槍を弾き落としている。
完全には防ぎきれず、数名の悲鳴が上がったが、致命傷には至っていない。我々だけでも、この一撃は凌げる。
「バルガス……さん……?」
光の結界を展開しようとしていたアレンが、信じられないものを見るように、大きく目を見開いて振り返った。
その空洞のようだった瞳に、ほんの一瞬だけ、かつての「新米兵士アレン」の、人間らしい驚きと焦りが宿っていた。
「よそ見をしてんじゃねえぞ、新兵!」
私は盾越しに血を吐き捨てながら、昔の砦で彼を怒鳴りつけた時と全く同じ口調で叫んだ。
「お前は前の敵だけ見てりゃいいんだ!
泥水すするのは、俺たち凡人の仕事だ! お前の背中くらい、俺たちが守ってやる!!」
アレンの唇が微かに震えた。
彼は、自分が人間扱いされたことに、泥臭い戦場の輪の中に引き戻されたことに、戸惑っているようだった。だが、すぐにその瞳に、かつての彼が持っていた「静かな闘志」の光が宿るのを、私は確かに見た。
「――はい!」
アレンは力強く頷き、振り返って魔族を正面から見据えた。
今までのように、ただ無感情に光を振り撒く戦い方ではない。
足幅を広げ、重心を落とし、かつて私が教え込んだ帝国軍の基本の型。ただの「剣士」としての構えだった。
「小賢しい真似を……!」
苛立った魔族が、全魔力を込めた極大の氷の槍をアレンの胸元へ放つ。
だが、アレンはそれを強引な光の結界で防ぐのではなく、最小限の動きで紙一重で躱し、懐へと一気に踏み込んだ。
「ハァッ!!」
裂帛の気合いと共に、下段から跳ね上げるような一閃。
無駄な光の放出を抑え、刃の極小の範囲にのみ聖剣の力を凝縮させた、洗練された人間の一撃。
白銀の軌跡が空間ごと魔族を斜めに両断し、絶対零度の装甲はガラスのように砕け散った。
「ば、かな……ただの、人間に」
驚愕の言葉を残し、魔王軍の幹部は光の塵となって完全に消滅した。
再び、死の荒野に静寂が戻る。
「痛ぇ」
私は安堵と共に膝をつき、氷の破片で浅く斬られた左腕を押さえた。
周囲の兵士たちも、荒い息を吐きながら雪の上にへたり込んでいる。死者はゼロだ。
ザク、ザクと雪を踏みしめる音がして、顔を上げる。
光の剣を鞘に収めたアレンが、私を見下ろしていた。その表情は、先ほどまでの機械のような無機質なものではない。
「無茶ですよ、バルガスさん。怪我してるじゃないですか」
困ったように笑いながら、アレンが私に向かって、泥と雪にまみれた右手を差し出していた。
私はその手を見て、鼻の奥がツンと痛むのを感じた。
「馬鹿野郎。上官に向かって説教たれるとは、偉くなったもんだな、英雄様」
私は悪態をつきながら、その彼の手をしっかりと握り返し、立ち上がった。
あの日、彼から奪い取ってしまった体温が、手袋越しにわずかに伝わってきたような気がした。
帝国暦842年11月。
決戦を前にして、我々先鋒部隊はボロボロに傷ついた。
だが、誰の目にも狂信的な光はなく、ただ明日の命を繋ぐために泥をすする、人間の兵士たちの顔に戻っていた。
英雄の歩む道に、少しだけ泥の足跡が戻った日だった。
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