第5話:泥を渡る影と灯火(密書の引き渡し) 【エリス】
ホリヨシです! ホワイトデーですか!? あ、昨日ですか。
「また、本隊からの報告書は白紙同然ね」
薄暗い天幕の中、私は溜息をつきながら羊皮紙を机に放り投げた。
帝国暦842年10月。
私たち後方支援部隊は、魔王領のさらに深部へと足を踏み入れていた。
気温は日に日に下がり、空気には常に微かな瘴気が混じっている。
だが、そんな過酷な環境よりも私の心を削り取っていたのは、最前線を進む本隊——アレンからの情報が、完全に途絶えつつあることだった。
報告書に書かれているのは『英雄殿の御剣により、敵部隊は完全に消滅』『損害ゼロ』といった、狂信的なまでに彼を神格化する美辞麗句ばかり。
彼が今、何を食べて、どれくらい眠れているのか。
傷一つないというその無敵の体の内側で、彼の心がどれほどすり減っているのかを記す者は、誰一人としていなかった。
「あいつ……一人で全部背負い込んで、どうする気なのよ」
机の上の小さなランタンの灯りを見つめながら、私は強く唇を噛んだ。
灰の谷での戦闘以来、私自身も魔力の上限を引き上げるための過酷な修練を積んできた。
本隊の背中を守るため、そしていつか、彼が前を向けなくなった時に、隣に立ってその重荷を半分背負えるようになるために。
だが、私たちが進めば進むほど、彼は遠くへ行ってしまう気がしてならない。
『動くな。声を出せば、お前の綺麗な首から上が飛ぶぞ』
「!」
唐突に、背後から氷のように冷たい声が響いた。
同時に、首筋にヒヤリとした金属の感触が押し当てられる。
完全に気配を消されていた。
天幕の外には見張りの兵士が何人もいるはずなのに、一切の音も立てずに侵入されたのだ。
「誰……? 魔王軍の暗殺者?」
私は首に当てられた刃の冷たさに身を強張らせながら、かろうじて声を絞り出した。
杖は机の端にある。
手を伸ばせば届くが、私の詠唱よりも先にこの刃が私の命を絶つだろう。
「生憎と、魔王には仕えていない。俺はただのしがない帝国の猟犬さ。お前と同じ、あの光り輝く『英雄様』の尻拭いをさせられている日陰者だよ」
背後の男——帝国の暗殺者だと名乗った男は、小さく鼻で笑った。
味方?
いや、情報部の特務部隊が、なぜ一介の宮廷魔術師である私を狙うのか。
「私を殺しに来たのなら、理由を聞かせてもらえる?
後方支援の魔術師を消しても、戦局には何の影響もないはずだけど」
「殺す気なら、お前がその羊皮紙を放り投げた瞬間にやっている。……これを見ろ」
男が私の視界の端から、机の上に丸めた羊皮紙を無造作に放った。
「開け」という短い命令に従い、私は震える手でそれを広げる。
「これは……魔王城の、見取り図?」
そこに描かれていたのは、複雑な陣形図と古代語の羅列だった。
宮廷魔術師としての知識を総動員し、その術式の意味を読み解いていく。光とマナの強制吸収。そして、術者への反転流入。
数秒後、その意味を完全に理解した私の手から、羊皮紙が滑り落ちた。
「嘘でしょ」
「嘘じゃない。俺がオースの街で、豚の血と一緒に啜ってきた極上の真実だ」
首筋から刃が離れる。
振り返ると、そこには黒い外套に身を包んだ、痩身の男が立っていた。
感情の読めない冷たい瞳が、私を値踏みするように見下ろしている。
「『光塊反転の法』。
魔王軍が用意した、聖剣に対する特効薬だ。
……あのおめでたい英雄様が、魔王の御前でいつも通り全力で剣を振るえば、その圧倒的な力は全て自分自身の命を内側から焼き尽くす猛毒に変わる」
男の言葉が、ハンマーのように私の頭を打ち据えた。
アレンが死ぬ。魔王を倒したとしても、彼は絶対に生きては帰れない。
「なぜ、これを私に……?」
震える声を振り絞り、私は目の前の暗殺者を睨みつけた。
「帝国の特務部隊なら、直属の上官である情報局長官や、本隊の司令官に報告するのが筋でしょう。
どうして一介の後方支援部隊の魔術師に過ぎない私のところへ来たの」
男――ゼクスと名乗った暗殺者は、呆れたように肩をすくめた。
「お前、本当に宮廷のドロドロした権力闘争を知らないんだな。
いいか、お嬢ちゃん。あの上層部の狸どもにとって、一番都合のいい結末は何だ?」
「都合のいい結末……魔王の討伐に決まって」
そこまで言いかけて、私はハッと息を呑んだ。ゼクスの冷たい瞳が、それが正解ではないと告げていたからだ。
「そうだ。魔王討伐だ。だが、その『後』はどうなる?
圧倒的な力と、民衆からの狂信的な支持を集める無敵の英雄。
そんな規格外の化け物が戦後に生き残って、もし帝国の玉座に牙を剥いたら?」
「アレンはそんなこと絶対にしない! 彼はただ、みんなを守るために……!」
「俺たち下っ端や民衆はそう思っても、安全な場所にふんぞり返っている連中はそうは思わないのさ」
ゼクスは自嘲気味に笑い、ランタンの灯りに照らされた羊皮紙を黒ずんだ指先で叩いた。
「上層部にこれを渡せば、奴らは確実に握り潰す。
英雄様には何も伝えず、魔王と相打ちになって死んでもらう。それが、国にとって一番安全で、歴史書に書き残しやすい美しい『英雄譚』の幕引きだからな」
吐き気がした。
アレンがこれまでどれだけの思いで血と泥に塗れ、孤独に心をすり減らして剣を振るってきたか。
それを、王都にいる連中は、ただの便利な使い捨ての道具としてしか見ていないというのか。
「で、どうする?」
ゼクスは私の顔を覗き込むようにして、低い声で問うた。
「俺はただの猟犬だ。
これ以上、光の世界の連中の泥を啜るのは御免だ。
この情報を燃やして見なかったことにするのも、無謀にも本隊に乗り込んで英雄様に『剣を振るうな』と泣きつくのも、お前の自由だ。だが」
「剣を振るうなと言って、彼が止まるはずがないわ」
私は震える両手で机の縁を強く握りしめ、顔を上げた。
「あいつは、自分が傷つくことを何とも思っていない。
むしろ、自分が犠牲になることで他の誰かが助かるなら、喜んでその罠に飛び込むような大馬鹿よ」
灰の谷での戦闘の後に見せた、あのどこか空虚なアレンの笑顔。
彼はもう、人間としての自分の命に執着していない。その危うさを、私はずっと感じていた。
「なら、どうする」
「私が、術式を壊す」
私の口から出た言葉は、自分でも驚くほど冷たく、そして確かな熱を持っていた。
「彼が魔王の御前で聖剣を抜くよりも先に、私がその玉座の間に辿り着き、この『光塊反転の法』の陣を根こそぎ焼き払う。
魔王軍の術師たちもろとも、灰も残さない。そうすれば、彼は何も気にせず剣を振るえる」
ゼクスは数秒間、目を丸くして私を見つめた後、声を殺して笑い出した。
「くっ……ははっ!
なるほど、狂信者どもばかりの軍隊の中で、お前だけがまともな人間の目をしていると思ったが……一番の狂人はお前だったか」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「ああ、せいぜい頑張るんだな、宮廷魔術師殿。俺の仕事はここまでだ」
ゼクスは身を翻し、天幕の入り口へと向かった。
その姿が夜の闇に溶け込む直前、彼は肩越しに一度だけ振り返った。
「死ぬなよ。猟犬の気まぐれを無駄にしてくれるな」
それだけを言い残し、暗殺者は一切の足音も立てずに夜の闇へと消え去った。
残された天幕の中で、私は再び羊皮紙に目を落とす。
帝国暦842年10月。
決戦の時は、もうすぐそこまで迫っている。
アレン、絶対に死なせない。
あなたが背負わされた呪いも、帝国軍の薄汚い思惑も、魔王の罠も。
私が全部、灰にしてあげる。
黒き湖畔を吹き抜ける冷たい風の中で、小さなランタンの灯火は、確かな熱を持って燃え続けていた。
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