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泥濘のレクイエム ―英雄の残火と、継ぎ接ぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第1章 光の産声と、泥の王冠

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第4話:人間であった頃の幻(黒き湖畔の沈黙) 【アレン】

ホリヨシです! まだ寒い日が続きますね。はやく暖かくなれー!!


「また、何も感じなかった」


自分の両手を見下ろしながら、俺は誰に聞こえるでもなく呟いた。

魔王領の深部、淀んだ水をたたえる『黒き湖』のほとり。


数時間前までこの場所を占拠していた魔王軍の防衛部隊は、文字通り跡形もなく消滅している。


死体すら残っていない。


俺の右手に握られた聖剣が放つ白銀の光は、敵の肉体も、流れる血も、苦痛の叫び声すらも一瞬で光の塵に変えてしまうからだ。

剣を振るうたびに、手応えが薄れていく。

泥にまみれてオークと取っ組み合い、折れた剣を握りしめて死の恐怖に震えていたあのエルダ砦の戦いが、遠い昔の夢のように思えた。今の俺は、ただこの剣が力を振るうための「台座」でしかない。


「アレン様。……あ、いえ、英雄殿。お怪我はございませんか」


背後から、ひどく遠慮がちな声がかけられた。

振り返ると、かつてエルダ砦で俺の背中を叩き、共に泥水をすすった古参の兵士、バルガス副隊長が立っていた。

しかし、彼の態度はあの日とは完全に別物だ。


俺から三歩以上の距離を取り、絶対に目を合わせようとせず、まるで壊れやすいガラス細工か、あるいは触れれば祟られる神像にでも接するように深く頭を下げている。


「バルガスさん。

お願いですから、その呼び方はやめてください。俺はアレンです。あの時と同じ、ただの」


「滅相もございません!」


俺が一歩近づこうとすると、バルガスさんは弾かれたように肩を震わせ、さらに一歩後ずさった。

その顔に浮かんでいるのは、明らかな「恐怖」と「畏敬」だ。


「貴方様は、神に選ばれた我々の希望そのもの。

どうか、私のような薄汚れた老兵に気安く声をかけないでください。……貴方様の放つ光は、我々には眩しすぎるのです」


バルガスさんの言葉は、俺を決定的に拒絶していた。

悪意はない。


むしろ、彼らは本気で俺を崇拝し、敬っているのだ。


だが、その崇拝こそが、俺から人間としての輪郭を容赦なく削り取っていく。

俺は小さく息を吐き、行き場を失った手をゆっくりと下ろした。


「わかりました。夜営の警備、ご苦労様です」


「ははっ! 光の御加護があらんことを!」


逃げるように立ち去るバルガスさんの背中を見送りながら、俺は冷たい湖畔の風に身を晒した。

静かだ。

三千の兵士が野営しているというのに、俺の天幕の周囲だけは、不自然なほどに静まり返っている。


誰も近づこうとしない。誰も俺と焚き火を囲んで下品な冗談を言い合おうとはしない。


ふと、後方支援部隊にいるはずの幼馴染の顔が脳裏をよぎった。

エリス。

今、彼女はどの辺りを行軍しているのだろうか。王都を出発する前、「手柄を立てたら、美味い酒でも奢ってくれよ」と笑い合った日の記憶だけが、今の俺を人間界に繋ぎ止める細い糸だった。


だが、今の俺がエリスに会って、一体どんな顔をすればいい?

魔物を一撫でで数千匹消し飛ばし、傷一つ負わず、血の匂いすらさせないこの異常な体で、彼女と何を話せばいいというのか。


寂寥せきりょうか。案ずるな、我が主よ。全ては無に還るのだから』


脳内に、あの剣の声が響く。

最近は、この声だけが俺の唯一の対話相手になってしまっていた。


寂寥せきりょうか。案ずるな、我が主よ。全ては無に還るのだから』


脳内に響く剣の声に対し、俺は自嘲気味に笑うことしかできなかった。

無に還る。


その言葉の通り、俺の中から様々なものが抜け落ちていくのを感じていたからだ。


ふと気づけば、この黒き湖畔に吹き荒れる凍てつくような夜風の中に立っているというのに、俺は少しも寒さを感じていなかった。


それどころか、まともに食事を摂ったのがいつだったのかも思い出せない。腹も減らなければ、喉も渇かない。

泥のように眠り、翌朝の出立を告げるラッパの音で重い体を起こしていた「人間の兵士」だった頃の感覚は、完全に失われていた。


右手に握られたままの聖剣が、微かな脈動と共に俺の体へ何かを流し込み続けている。

それが魔力なのか、あるいはもっと別の次元のエネルギーなのかはわからない。だが、この光が俺の肉体を「人間」から「剣を振るうための鞘」へと作り変えていることだけは、確信できた。


「あそこか」


俺は湖の対岸、分厚い雲に覆われた空の下にそびえ立つ、巨大な影を見据えた。


『魔王城』。


あそこに、この果てしない戦いの元凶がいる。あそこを落とせば、全てが終わる。


かつての俺なら、あの禍々しい城の威容を目にしただけで、恐怖に膝の震えが止まらなかっただろう。どうやって生きて帰るか、そればかりを考えていたはずだ。

だが今の俺の胸にあるのは、ひどく凪いだ、薄気味悪いほどの平穏だった。


「生きて帰りたい」という執着が、綺麗さっぱり消え失せていたのだ。


『そうだ。

恐れも、痛みも、もはやお前には不要なもの。ただ純粋な光となり、淀みを払い落とすのだ』


「ああ、そうだな。俺が人間である必要なんて、もうどこにもない」


俺の同意に満足したのか、剣の声は静かに鳴り止んだ。

俺は自分の左胸に手を当てる。


心臓は確かに動いているが、その鼓動はひどくゆっくりで、どこか他人事のように思えた。

誰も俺に近づかないのなら、誰も俺を人間として扱わないのなら、いっそこのまま完全に「人間ならざるモノ」になり果ててしまった方が、ずっと楽だ。


俺が人間としての命や感情を全てこの剣の燃料としてくべれば、あそこにいる魔王を確実に殺せる。


それでいい。


俺一人が化け物になって消え去るだけで、エリスは、バルガスさんは、何千という兵士たちは、故郷へ帰って明日を笑って生きられるのだから。


「敵襲! 湖の中から……っ、何だ、あれは!?」


静寂を破る悲鳴が、夜の野営地に響き渡った。

俺はゆっくりと顔を上げた。


黒き湖の水面が不自然に泡立ち、そこから腐臭を放つ泥の塊のような異形の魔物たちが無数に這い上がってきていた。

水中に潜伏していた残党か。


歩哨の兵士たちが慌てて槍を構え、弓兵が火矢を放つが、泥の体を持つ魔物には物理的な攻撃がまるで通じていない。


「陣形を組め! 松明を前に出せ!」


バルガスさんの怒号が飛ぶが、不意打ちを受けた兵士たちの間に動揺が走る。

泥の魔物の一体が、尻餅をついた若い兵士に向かって、その不定形の腕を振り下ろそうとした。

間に合わない。誰もがそう思った瞬間、俺はごく自然に地面を蹴っていた。


――シュッ。


風を切る音すらしなかった。

俺は一瞬で若い兵士の前に立ち塞がり、右手の剣をただ軽く横に薙いだ。


「ギャ……ッ!?」


白銀の閃光が迸り、泥の魔物は悲鳴を上げる間もなく、その巨大な体ごと蒸発して消え去った。

夜の暗闇が、真昼のように白く染まる。

俺は立ち止まることなく、歩みを進めた。


湖から次々と這い上がってくる数十、数百の魔物たちに向かって、ただ無感情に剣を振るう。

剣の軌跡から放たれる光の波が、泥の魔物たちを次々と呑み込み、湖の水面ごと強烈な熱で蒸発させていく。


声は、もう出なかった。出す必要もなかった。


俺は、自分に向けて放たれた魔物の泥の槍を、避けることすらしなかった。

槍は俺の体に触れる寸前、聖剣から溢れ出る光のオーラに焼かれて灰と化す。傷つくことなどあり得ない。俺はただの無敵の殺戮装置だった。


「おお……っ! アレン様だ! 英雄殿が我々をお守りくださったぞ!」


「神よ! 光の剣に賛美を!」


背後から、熱狂的な歓声と祈りの声が聞こえてくる。

数分前まで死の恐怖に怯えていた彼らは、またしても俺の振るう理不尽な力によって命を救われ、そして俺を「神の使い」として祭り上げる。

その歓声を背に受けながら、俺はただ静かに湖の対岸――魔王城を見据え続けた。


エリス。


お前も今頃、俺のことをこんな風に遠い世界の存在として見ているのだろうか。

だとしたら、丁度いい。

俺の人間としての命は、ここでもう使い切ってしまおう。残りの道のりは、神様が作ったこの「聖剣」という兵器の部品として、お前たちの未来を切り開くためだけに稼働し続けるよ。


誰も近づけない絶対的な光の結界の中で。

英雄アレンは、己の心を完全に殺し、魔王城へと続く暗闇の中にその身を沈めていった。


帝国暦842年10月。黒き湖畔の沈黙。

ここに至り、彼の人間としての歩みは事実上、一度終わりを告げた。


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