第3話:影が啜る泥(自由都市オースの無血開城) 【ゼクス】
ホリヨシです。 第三話です!
分厚い絨毯に、ポタ、ポタと粘り気のある液体が染み込んでいく音だけが、豪奢な執務室に響いていた。
「ひ、ヒィッ……!
待て、金か!? 帝国が提示した額の三倍……いや、五倍出そう! だから命だけは……!」
床に這いつくばり、脂汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにした豚――いや、自由都市オースの領主が、豚のようによく肥えた喉を鳴らして命乞いをしている。
私は手にした短剣の血振るいをし、ため息を一つ吐いた。
「五倍、ね。魅力的な提案だが、生憎と俺の雇い主は融通が利かなくてね」
感情の消え失せた声でそう告げると同時に、無造作に踏み込む。
命乞いの言葉が次を紡ぐ前に、領主の分厚い首の肉を掻き切り、正確に頸動脈を断った。
ゴボッという短い音と共に、領主は金貨の詰まった袋を抱え込んだまま、見開かれた目を剥いて絶命した。
「さて、仕事(掃除)はこれで終わりか」
私は血濡れた短剣を死体の衣服で丁寧に拭い、鞘に収めた。
帝国暦842年8月。アレンとかいう若造がエルダ砦で「聖剣」を抜いてから、四ヶ月が経っていた。
英雄の誕生に沸き立つ帝国軍は、魔王領への進軍を順調に続けている。
だが、光が強ければ強いほど、そこに生じる影もまた濃く、どす黒くなるのが世の理というものだ。
この自由都市オースの領主は、あろうことか魔王軍の幹部と裏で通じていた。
英雄の進軍ルートや、後方支援の補給物資の横流し。
人間を売り飛ばし、自らの保身と財を築こうとする薄汚いコウモリ野郎だ。
もしこの事実が明るみに出れば、ただでさえ寄せ集めの討伐軍に不和が生じる。何より、全人類の希望たる「無垢なる英雄」の耳に、味方であるはずの人間の裏切りなどという泥臭い現実を入れるわけにはいかない。
だからこそ、我々「猟犬」が放たれた。
今夜、この街に潜伏していた魔王軍の密偵と、彼らに通じていた裏切り者の人間たちは、私を含めた特務部隊によって一人残らず暗殺された。
明日の朝には、帝国軍本隊に「領主の急死に伴い、自由都市オースは戦わずして全面降伏した」という美しい知らせが届く手はずになっている。歴史書には『無血開城』とでも記されるのだろう。
「英雄様は、今日も綺麗事のまま剣を振るっているかね」
窓の外、遠く広がる夜闇に向かって、私は独りごちた。
聖剣に選ばれただの、奇跡を起こしただの、民衆は無責任に熱狂している。
だが、彼が歩くその輝かしい光の道は、我々のような日陰者が人間の血と泥を啜りながら、這いつくばって舗装した道だ。
部屋の隅に置かれた豪奢なマホガニーの机を物色する。
領主が魔王軍と交わしていた密約の証拠となる書簡を見つけ出し、懐にねじ込んだ。これを持ち帰るまでが今回の任務だ。
だが、その束の下敷きになっていた一枚の羊皮紙に目を落とした瞬間、私の手はピタリと止まった。
「おいおい、冗談だろう?」
羊皮紙に記されていたのは、魔王領の深部、決戦の地となるであろう『魔王城』の内部構造図の一部。そして、そこに記されていたのは、魔王軍が用意している「対・聖剣」のための、ある致命的な罠の記述だった。
羊皮紙を窓から差し込む月明かりに透かす。
そこに描かれていたのは、魔王城の最深部――おそらく玉座の間に張り巡らされた、未知の術式の陣形図だった。
添えられた古代語の走り書きを目で追い、思わず舌打ちが漏れる。
『光塊反転の法』。
聖剣が放つ圧倒的な光とマナを術式で吸収し、持ち主自身の命を削る猛毒へと反転させる罠。
つまり、あの英雄とやらが魔王の前で全力で剣を振るえば振るうほど、奴自身の命が内側から焼き尽くされる仕組みだ。
「馬鹿げてる……。
こんなもの、神話の武器を殺すためだけに作られた特効薬じゃないか」
英雄が無敵のまま魔王を倒す。
そんなおとぎ話は、やはり現実には存在しない。
魔王軍も、ただ指をくわえて聖剣の接近を待っているわけではないのだ。このまま本隊が魔王城に突入すれば、英雄は確実に死ぬ。
その時だった。
背後の分厚いオーク材の扉が、音もなく吹き飛んだ。
「――チッ!」
反射的に身を沈めた私の頭上を、目に見えない風の刃が通り過ぎ、壁の豪奢なタペストリーを両断する。
「領主様! ……貴様、帝国の猟犬か!」
土足で踏み込んできたのは、領主が裏金で雇っていたであろう凄腕の私兵たちだ。
いや、その異常に白濁した瞳と、体から立ち上るどす黒い魔力圧は、もはや人間のそれではない。魔王軍から与えられた劇薬で強化された「半魔」の狂戦士たち。数にして五。
「掃除の邪魔をするな。こっちは残業代も出ないんだぞ」
私は懐に羊皮紙をねじ込み、両手に毒を塗った黒塗りの短剣を構えた。
巨漢の一人が、大剣を振り被って突進してくる。
私はその踏み込みの軌道を読み切り、刃が届くより一瞬早く相手の懐へ滑り込んだ。
すれ違いざま、脇腹の装甲の隙間に短剣を滑り込ませ、猛毒を血管に直接流し込む。
「ガ、ァ……ッ!?」
巨漢が泡を吹いて倒れ込むのを盾にしながら、私は残る四人へと冷たい視線を向けた。光の当たらない泥の中での殺し合いなら、私に分がある。
「ふぅ」
五体目の死体が床に崩れ落ちるのと同時に、私は短剣の血を乱暴に振り払った。
息は上がっていないが、左腕を浅く斬られた。
傷口から微かな痺れが広がり始めている。
すぐさま腰のポーチから即効性の解毒薬を取り出してあおり、私は血の海となった執務室を後にした。
夜闇に紛れ、オースの街の屋根を音もなく駆け抜ける。
遠くで、騒ぎに気づいた警備兵たちの怒号が響き始めていたが、闇に溶けた私の姿を捉えることは誰にもできない。
街を抜け、安全な潜伏場所である郊外の廃教会に辿り着いた私は、ランタンの小さな灯りの下で再びあの羊皮紙を開いた。
問題は、この情報をどう扱うかだ。
規定通り、帝国軍の上層部――情報局の長官に提出するか?
いや、ダメだ。
あの上層部の狸どもは、急速に膨れ上がる英雄の求心力を恐れ始めている。「魔王と相打ちになって死んでくれる」のが、戦後の権力闘争において最も都合が良いと考えている節すらあるのだ。
この致命的な罠の存在を知っても、握り潰すか、あるいはわざと英雄を罠に嵌めるために黙殺する可能性が高い。
「馬鹿馬鹿しい。俺には関係のないことだ」
そう吐き捨ててみたものの、胸の奥で何かが燻っている。
私は泥水を啜って生きる日陰者だ。
光の世界を歩く英雄など、反吐が出るほど眩しいだけで、本来なら死のうが生きようが知ったことではない。
だが、あの若造――アレンとかいう青年が、何も知らずに神輿として担ぎ上げられ、味方であるはずの上層部の思惑と魔王の罠の板挟みになって使い潰されるのは、どうにも胸糞が悪かった。
裏切りの泥を啜るのは、我々のような汚れ仕事の専門家だけで十分だ。
「もしこれを渡すなら……狂信者どもの中にもいる『ただの人間』を見つけ出すしかない、か」
本隊の陣容を思い浮かべる。
英雄の絶対性を疑わず平伏す有象無象の中で、一人だけ、後方支援部隊に血の通った目をした女魔術師がいたはずだ。
確か、英雄の同郷の幼馴染だとかいう。上層部の息がかかっていない彼女なら、この情報を正しく「彼を救うため」に使うだろう。
帝国暦842年8月。
自由都市オースは、表向きは平和裏に帝国の軍門に降った。
だがその裏で、一人の暗殺者が歴史のシナリオを書き換えるための、小さくも致命的な火種を握りしめていた。
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