第2話:残された者の背中(灰の谷の突破戦) 【エリス】
ホリヨシです。2話目いってみます。
肺を焼くような熱風が、灰色の谷底を吹き抜けていく。
むせ返るような硫黄の臭いと、舞い上がる細かい火山灰が視界を遮る中、私は杖の先端に魔力を集中させ続けた。
「エリス殿! 右翼の防衛線、第参小隊が崩れかけています!」
伝令の切羽詰まった声に、私は唇を噛む。
帝国暦842年7月。私たち魔王討伐軍は、魔王領への最大の難所である『灰の谷』を進軍していた。
切り立った崖と有毒なガスに囲まれたこの谷は、かつて多くの遠征軍を呑み込んできた天然の要害だ。
案の定、谷の複雑な地形を利用した魔王軍の伏兵が、幾度となく波状攻撃を仕掛けてきている。
「第参小隊を下がらせて! その隙間は私が埋めます」
「しかし、それではエリス殿の魔力消費が……!」
「構いません。本隊の進軍速度を、絶対に落とさせるわけにはいかないの」
私は杖を高く掲げ、詠唱を紡ぐ。
頭の中に複雑な術式を構築し、マナを編み上げていく。
宮廷魔術師としての厳しい訓練が、極限状態でも私の思考を冷徹に保っていた。
「『凍てつく大地』!」
杖を振り下ろすと同時に、焼け焦げた谷の地面が急激に凍結し、鋭い氷柱が無数に突き出した。
右翼から殺到しようとしていた岩のように硬い皮膚を持つ魔物の群れが、次々と氷の槍に貫かれて絶命していく。
安堵の息を吐く間もなく、私は次の陣形構築へと部隊に指示を飛ばした。
私が任されているのは、軍の側面と後方を守る遊撃・支援部隊だ。
激しい戦闘の最中でも、私の視線は常に前方――この長く険しい隊列のずっと先、先頭を進む「本隊」の方角へと向かってしまう。
そこには、彼がいるはずだ。
たった一人で戦局を左右する絶対的な存在。聖剣に選ばれし英雄、アレン。
――三ヶ月前、あの春の日。
私は王都からの補給部隊と共に、エルダ砦の遥か後方にいた。
砦が魔王軍先鋒に完全に包囲され、陥落は免れないという絶望的な報せが届いた時、私は己の無力さを呪って泣き崩れることしかできなかった。
彼が、あの死地に取り残されていたからだ。
「一緒に生きて帰るんだ」と、故郷の村を出る時に笑ってくれたアレン。
剣の腕は決して特別ではなかったけれど、誰よりも優しく、泥臭く努力を続ける不器用な幼馴染。
私は宮廷の魔術院へ、彼は一介の兵士として国境警備へ。
離れ離れになっても、いつかまた手柄を立てて王都で会おうと約束していたのに。
彼が死ぬ。
その絶望の中で、突如として地平線の彼方に立ち上った、あの巨大な白銀の光の柱。
それは、凄惨な戦場を一瞬で浄化する、あまりにも美しく、そして恐ろしい「奇跡」の光だった。
数日後、エルダ砦の生存者と共に帰還したアレンと再会した時のことを、私は生涯忘れることはないだろう。
無傷で生還した彼に、私は泣きながらしがみついた。
だが、私の肩を抱き返してくれたその腕から伝わる体温は、私の知っているアレンのそれではなかった。
『ごめん、エリス。俺……なんか、とんでもないものを引いちまったみたいだ』
困ったように笑う彼の瞳は、ひどく虚ろで、どこか遠く――人間の手が届かない場所を見つめているように思えた。
周囲の兵士たちは、かつての仲間であるはずのアレンに対し、まるで神の使いに接するように地面に這いつくばって敬語を使っていた。誰も、彼の目を見て話そうとしなかった。
その瞬間、私は理解してしまったのだ。
あの日、光の柱が立ち上った瞬間に、私の幼馴染であったアレンは死に、代わりに世界を救うための「英雄」という名の概念が産み落とされたのだと。
彼の絶望にも、孤独にも、覚醒の瞬間にすら立ち会えなかった私は、ただ安全な後方から、彼が遠くへ行ってしまうのを眺めていることしかできなかった。
言葉が出なかった。唇を開いたのに、声にならない。
灰の谷の熱風が、不意に私の頬を伝う冷たいものを乾かしていく。
感傷に浸っている暇はない。
今の私にできることは、これ以上彼に何も背負わせないよう、その後ろ姿を守ることだけだ。
「上空より敵影! 数、およそ五十! ガーゴイルの群れです!」
見張りの悲鳴で、私は我に返った。
見上げれば、分厚い火山灰の雲を突き破るように、石の翼を持つ魔物たちが急降下してくるのが見えた。
「各員、防御陣形! 上空は私が引き受けます!」
怒号が飛び交う中、私は大きく息を吸い込み、肺に満ちた熱い空気ごと魔力へと変換した。
灰色の空を覆い尽くすように降下してくる五十機以上のガーゴイル。
石の皮膚を持つ彼らには、通常の矢や下級の魔法ではかすり傷しか与えられない。
陣形を崩されれば、後衛部隊は一溜まりもなく蹂躙されるだろう。
(――あの日、私は何もできなかった)
目を閉じると、エルダ砦の空を貫いたあの白銀の光がフラッシュバックする。
神の奇跡と讃えられたあの光の裏側で、彼がどれほどの恐怖と絶望を一人で飲み込んだのか。それを想像するだけで、胸が張り裂けそうになる。
「だから、せめて」
私は目を見開き、両手で握りしめた杖を天へと真っ直ぐに突き上げた。
私に世界を救う力はない。
聖剣に選ばれるような運命も持っていない。
けれど、あいつが前を向いて剣を振るうと決めたのなら、その後ろ姿を脅かす泥は、私がすべて焼き払う。
「マナよ、我が祈りに応え、天を焦がす顎となれ!」
詠唱と共に、杖の先端から極彩色の魔法陣が幾重にも展開される。
周囲の空気が急速に乾燥し、足元の灰が巻き上がる。
私が練り上げたのは、宮廷魔術師の中でも数名しか扱うことのできない戦略級の広域殲滅魔法だ。
「『焦熱の雨』!!」
空に向けて放たれた巨大な火球が、上空で弾け飛んだ。
それは文字通り、空から降り注ぐ業火の雨だった。
一つ一つが岩をドロドロに溶かすほどの熱量を持った炎の槍となり、急降下してくるガーゴイルの群れを次々と串刺しにしていく。
「ギィヤァァァァッ!」
石の皮膚を赤熱させ、断末魔の悲鳴を上げながら墜落していく魔物たち。
私は杖を持つ手を震わせながらも、決して魔法陣の維持を解かなかった。
体内のマナが激しく削り取られ、視界の端がチカチカと明滅する。鼻血がツーと垂れる感覚があったが、拭う暇すらない。
「エリス様、ご無理です! これ以上の魔力放出は命に関わります!」
副官の制止の声が聞こえたが、私は首を横に振った。
無理ではない。
アレンが背負わされた運命の重さに比べれば、マナの枯渇などかすり傷にも満たない。
最後の気力を振り絞り、炎の雨の密度をさらに上げる。
空を埋め尽くしていたガーゴイルの群れは、一匹残らず黒焦げの石塊となって灰の谷の底へと落ちていった。
「敵影、なし。上空の魔物、完全に沈黙しました!」
見張りの兵が声を震わせながら報告を上げる。
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、私はその場に膝から崩れ落ちそうになった。慌てて杖を地面に突き立て、かろうじて体を支える。
「エリス様!」
「大丈夫……かすり傷一つ、負わせてないわよね」
駆け寄る副官を手で制し、私は荒い息を整えながら周囲を見渡した。
地面は私が降らせた炎によって所々ガラス状に溶け、奇妙な輝きを放っている。兵士たちに死者はなく、防衛線は完全に保たれていた。
「さすがは宮廷魔術師殿だ」
「ああ、我々の部隊はこれで安泰だ」
兵士たちの安堵の声と、私へ向けられる畏敬の眼差し。
それは奇しくも、あの日アレンに向けられていたものと同じ性質の視線だった。
圧倒的な力を示すことでしか、今の私たちは戦場での存在意義を証明できない。
谷を吹き抜ける熱風が、少しだけ温度を下げた気がした。
私は杖に寄りかかりながら、長い長い隊列の先――分厚い火山灰に霞む、遥か前方を見つめた。
ここからでは、本隊の姿すら見えない。彼が今、どんな顔をして進軍しているのかもわからない。
『俺……なんか、とんでもないものを引いちまったみたいだ』
あの日、酷く寂しそうに笑ったアレンの顔が脳裏をよぎる。
ただの村の青年だった彼は、今や全人類の希望を背負う英雄となってしまった。
この過酷な進軍の果てに、どれほどの血が流れ、どんな結末が待っているのか、誰にもわからない。彼自身さえも。
「待ってて、アレン」
私は誰に聞こえるでもなく、唇を動かした。
隣に並んで歩くことは、もうできないかもしれない。
彼が最前線で見ている景色を、一緒に見ることはできないかもしれない。
けれど、彼が前だけを見て剣を振るえるように、私はこの泥と灰に塗れた戦場で、彼の背後を狙うすべての影を焼き尽くす。
いつか来る魔王との決戦のその日まで、必ず彼を送り届けてみせる。
それが、光の当たらない場所に残された私なりの、彼へのただ一つの誓いだった。
帝国暦842年7月。灰の谷の突破戦。
英雄の背中を追う一人の魔術師の密やかな決意は、吹き荒れる灰の風に溶けて消えた。
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