第17話:白銀の地獄、飛竜の羽ばたき 【レオン】
「ん、あ」
全身の感覚がない。
自分が生きているのか死んでいるのかすら曖昧なまま、僕は薄く目を開けた。
視界に広がるのは、ひび割れた青白い氷の天井。僕は霊峰『竜の顎』のクレバス(氷の割れ目)の底に落ち、そのまま凍死するのを待っていたはずだ。
だが、僕の意識を強引に現世に引き戻したのは、頭上――クレバスの開口部から響いてくる、尋常ではない破壊音だった。
ズガァァァンッ!!
ゴシャッ……メキョッ!!
「なんだ……?」
僕は凍りついた首をわずかに動かし、遥か上方の光が差し込む裂け目を見上げた。
飛竜の咆哮が聞こえる。だが、それは狩りを楽しむ絶対者の声ではない。明確な「苦痛」と「恐怖」に満ちた悲鳴だった。
――ギャァァァァッ!!
直後、巨大な影がクレバスの開口部を塞ぐように落下してきた。
ドスンッ!
その地響きと共に、氷の壁の中腹にある出っ張りに引っかかったのは、紛れもなく僕たち精鋭部隊を蹂躙した、あの飛竜の巨体だった。
「ひ……っ!」
僕は反射的に身を竦ませた。だが、飛竜はピクリとも動かない。
よく見れば、飛竜の強靭な首の鱗が、紙くずのように引き裂かれ、そこから大量の血が滝のようにクレバスの底へと降り注いでいる。そして、最も異常なのはその傷口だ。
魔法で焼かれた痕でも、攻城兵器で撃ち抜かれた痕でもない。
それは、明らかに『一本の剣』によって、幾度も幾度も、同じ箇所を正確に削り取られたような、執拗で物理的な切断痕だった。
こんな分厚い竜の鱗を、ただの剣で? しかも、飛竜が空を飛ぶ間も与えずに?
「あり得ない。人間が、単独で……飛竜を……?」
僕の常識が、音を立てて崩れ落ちていく。
その時、飛竜の死体が引っかかっている氷の壁のさらに上、クレバスの縁から、小さな影がこちらを見下ろしているのに気がついた。
吹雪で輪郭は霞んでいるが、それは間違いなく人間の男だった。
ボロボロの茶色い外套を羽織り、背中には異様なほど巨大な『木製の箱』を背負っている。
逆光で顔は見えない。
だが、彼の手には、飛竜の血でどす黒く染まった一本の粗末な鉄剣が握られていた。
「おい、アレン! 大丈夫!? ケガしてない!?」
男の背後から、少女の甲高い声が聞こえた。
「問題ない。道は塞がっていない」
男は、氷のように冷たく、感情の抜け落ちた声でそう答えた。
その声を聞いた瞬間、僕の心臓が早鐘のように鳴り始めた。
声のトーンは全く違う。
体格も、身なりも、僕が知っているあの白銀の像とは似ても似つかない。だが、背中に電流が走るようなこの威圧感、この圧倒的な『隔絶』の感覚。
「あ……アレン、様……?」
僕はひび割れた唇を震わせ、祈るようにその名を呟いた。
帝国が「死んだ」と発表した救世主。僕が憧れ、背中を追い続けてきた本物の英雄。
なぜ、彼が生きている?
なぜ、聖剣を持たずにこんな粗末な剣を振るっている?
そして、あの異常に巨大な箱は一体何なんだ?
数え切れない疑問が頭を渦巻く中、クレバスの縁に立つ男――アレンは、死んだ飛竜を、そしてその下で倒れている僕を一瞥すらすることなく、再び吹雪の向こうへと歩み去っていった。
ただの障害物を排除しただけ。
そこに命のやり取りや、誇り高き戦いといった人間らしいドラマは一切存在しない。
ただ、己の背負う箱を運ぶためだけの、徹底した『作業』。
「待っ……て」
僕は凍りついた手を伸ばそうとしたが、指先一つ動かすことはできなかった。
再び静寂が戻ったクレバスの底で、僕は飛竜の生温かい血を浴びながら、自分が今まで信じていた「英雄」という概念が、根底から覆されていくのを感じていた。
王都の銅像が掲げる白銀の剣など、彼にとっては最初からどうでもよかったのだ。
あの男の本当の恐ろしさは、聖剣の光などではなく、目的のためなら己の命すら一片の価値も見出さない、あの底なしの『虚無』なのだと。
帝国暦846年。霊峰『竜の顎』。
死の淵にいる一人の騎士は、帝国が最も隠したかった泥まみれの真実を、その目に焼き付けていた。
「おいガルドのおっさん! 待て、ちょっと待ってくれ! 肺が、肺が凍りそうだ……!」
俺は雪に足を取られながら、前のめりに倒れ込んだ。
極寒の霊峰『竜の顎』。
防寒具を何重にも着込み、気休め程度の保温魔法を全身に巡らせているというのに、猛吹雪は容赦なく俺の体温と気力を削り取っていく。
魔法の使えないただの人間なら、数時間で凍りのオブジェに変わっている環境だ。
「立て、セト。ここで止まれば死ぬぞ」
前を歩いていた巨体――水鱗族の戦士長ガルドが、雪をラッセルしながら振り返った。
爬虫類である彼にとっても、この寒さは致命的なはずだ。
だが、彼の歩みには一切の迷いがない。己の恩義と誇りだけで、この理不尽な山を登っているのだ。
「わかってるよ……クソババアめ、なんで俺がこんな目に」
俺は悪態をつきながら、ガルドの差し出した分厚い手を掴んで立ち上がった。
その時、猛吹雪の風向きが変わり、前方から強烈な血の匂いが漂ってきた。
「血?」
俺たちが急いで斜面を登り切ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
純白の雪が、広範囲にわたって赤黒く染まっている。そして、氷の裂け目の縁には、この霊峰の主であるはずの巨大な飛竜の死体が、無惨に首を断ち切られて転がっていた。
「おいおい……冗談だろ。剣の斬撃だけで、あの分厚い鱗を削り切ったっていうのか?」
飛竜の傷口を覗き込んだ俺は、背筋が凍るのを感じた。
魔法の痕跡は一切ない。
聖剣の光もない。ただの人間が、ただの鉄剣で、力任せに飛竜を解体した痕だ。
「急ぐぞ。これほどの血の匂いだ。他の飛竜どもが黙ってはいない」
ガルドの警告通りだった。
さらに上方の斜面――吹雪の向こう側から、空気を震わせるような複数の咆哮が響き渡ったのだ。
「いたぞ!!」
俺は目を凝らした。
視界の先、切り立った氷の崖を背にして、あの異常な男――アレンが立っていた。
背中には相変わらずあの巨大な棺を背負い、その後ろには少女リノを庇っている。
そして彼らの周囲の空を、三体もの飛竜が旋回し、今まさに一斉に氷のブレスを吐き出そうと包囲陣を敷いていた。
「馬鹿野郎!! 避け場がないぞ!!」
俺は絶叫した。
いくらアレンの剣技が神懸かっていようと、あんな広範囲のブレスを三方向から同時に浴びれば、ただの人間である彼らは確実に即死する。彼が自分の命を盾にして棺を守ろうとも、限界がある。
「ガルド!! 合わせろ!!」
俺は背嚢から、師匠の洞窟からくすねてきた『特製・閃光爆炎薬』の瓶を引き抜き、魔力を込めて飛竜の群れの中心へと力任せにぶん投げた。
「落ちこぼれの魔法を、舐めるなァッ!!」
パァァァァンッ!!
空中で薬瓶が炸裂し、目を開けていられないほどの強烈な閃光と、鼓膜を破るような爆音が雪山に響き渡った。
「ギャァァァッ!?」
不意の閃光に目を焼かれ、三体の飛竜が体勢を崩してブレスをキャンセルする。
「承知した!!」
その隙を逃さず、ガルドが雪を蹴って跳躍した。
巨体から放たれる圧倒的な踏み込み。彼は崖を背にするアレンたちの前へ文字通り「盾」として割って入り、手にした骨槍を構えて飛竜の一体へ強烈な刺突を放った。
「グガァッ……!」
飛竜の鱗に槍が弾かれるが、その強烈な衝撃で飛竜は空高くへと退避していく。
残る二体も、予期せぬ伏兵の登場に警戒し、上空へと距離を取った。
「ハァッ、ハァッ……っ! 間に、合ったか……!」
俺は雪に膝をつきながら、荒い息を吐き出した。
静寂が戻った氷の崖。
アレンの後ろで震えていたリノが、信じられないものを見るように目を丸くした。
「えっ……? トカゲのお兄さんに……魔女の弟子君!?」
「よぉ、迷子のバカ二人組。ピクニックにしちゃ、随分とハードな山を選んだな」
俺は強がりな笑みを浮かべながら立ち上がり、彼らの方へと歩み寄った。
だが、アレンは剣を下ろそうとしなかった。
その空洞のような瞳は、助けに入った俺たちに感謝するどころか、新たな『障害物』が現れたとでも言うように、冷たく底冷えする殺気を放っていた。
「何故、追ってきた」
地を這うような声。
俺はゾッとしたが、ここで引くわけにはいかない。懐から師匠に託された『封絶のランタン』を取り出し、アレンの目の前に突きつけた。
「てめえのその狂った執着心に、うちの偏屈な師匠が餞別をくれたのさ。……おい、元・英雄様。てめえ一人じゃ、目的の『残り火』を見つけても持ち帰る前に焼け死ぬぞ」
アレンの瞳が、わずかに揺れた。
「俺たちが、てめえの背中と、その箱を守ってやる。……だから、勝手に死ぬんじゃねえぞ、大馬鹿野郎」
帝国暦846年。
絶対的な死地である北の霊峰で。
死んだ英雄、底抜けに明るい踊り子、落ちこぼれの魔女の弟子、そして義に厚いリザードマンの戦士。
決して交わるはずのなかった四つの泥臭い足跡が、ついに一つのパーティーとして結集した。
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