第16話:嘘塗れの玉座と、黒い報告書 【ヴェイン】
「嘘だろ。まさか、そんな馬鹿な」
帝都の地下深く、日の光が一切届かない帝国軍情報部の一室。
魔導通信機から吐き出された一枚の羊皮紙を前に、僕――暗号解読官のヴェインは、ガチガチと鳴る奥歯を必死に噛み締めていた。
帝国暦846年。大戦役の終結から数年。
帝都は、魔王と相打ちになって散った「英雄アレン」の美談と、彼が遺した聖剣の威光によって、かつてないほどの繁栄と絶対的な秩序を謳歌している。
彼を讃える白銀の銅像は帝国の中心で光り輝き、民衆はその虚像に毎日祈りを捧げていた。
情報部における僕の仕事は、各辺境から送られてくる暗号通信を解読し、帝国の平和を脅かす些細な火種を事前に報告することだ。
だが、今僕の手の中にある報告書は、火種などという生易しいものではなかった。
帝国という国家の根幹を、木っ端微塵に吹き飛ばす特大の爆弾だ。
『――北の辺境の町ガレキにて、対象に酷似した男と接触。
容姿はひどくやつれているが、大戦役時の英雄アレン本人である可能性、極めて大。
対象は魔法を一切使わず、徒手空拳のみで武装した傭兵数名を数秒で無力化。
また、対象は常に【巨大な木製の棺】を背負い、一人の踊り子の少女を伴っている。
現在の進行方向、さらに北。霊峰「竜の顎」へ向かっているものと推測される――』
「英雄が、生きている……? しかも、棺を背負って……?」
僕は脂汗に塗れた額を拭った。
もしこれが事実なら、帝国の歴史はすべて嘘っぱちだったことになる。
神の使いであるはずの英雄が、帝国を捨てて辺境を泥まみれになって放浪しているなど、民衆に知られれば暴動が起きる。
いや、それ以上に恐ろしいのは、現在の軍上層部だ。彼らは自分たちの権力を維持するために、この「生きた不都合な真実」を絶対に許さないだろう。
「急いで、上官に報告しなければ」
僕は震える手で羊皮紙を懐にねじ込み、薄暗い地下廊下を走り出した。
向かう先は、情報部の最奥。
大戦役での数々の「裏工作」の功績により、今や帝国の闇を統べる情報部特務室の室長にまで登り詰めた、あの冷酷な男の執務室だ。
「失礼します! ゼクス室長、緊急の報告が……!」
分厚いオーク材の扉を開けると、そこには数年前と全く変わらない、感情の読めない瞳をした痩身の男が座っていた。
特務室長、ゼクス。
彼は豪奢なマホガニーの机に足を乗せ、安酒の入ったスキットルを傾けていた。
「ノックくらいしろ、ヴェイン。
新婚の妻に浮気現場でも踏み込まれたような顔をして、どうした」
「冗談を言っている場合ではありません! これを!」
僕は懐から羊皮紙を取り出し、机の上に叩きつけるように置いた。
「北の辺境に潜伏させていた第三号の猟犬からの暗号通信です!
え、英雄アレンが……死んだはずのあのアレン様が、生きているという目撃情報が!」
僕の切羽詰まった声に対し、ゼクス室長は微かに眉を動かしただけで、羊皮紙を手に取った。
数秒間、その冷たい目で文章を追い……。
「くっ、ふっ……ははははっ!!」
突如として、彼は腹を抱えて笑い出した。
狂ったような、しかし心の底から愉快でたまらないといった爆笑だった。
「し、室長……!?」
「ははっ、いや、すまない。
あの底抜けの馬鹿、まだ生きていやがったか。数年経っても相変わらず、重たい箱を背負って泥水を啜りながら歩き続けているとはな!」
ゼクス室長は笑い涙を拭いながら、報告書を机に放り投げた。
僕の頭は完全に混乱していた。
なぜ、英雄の生存という国家の一大事を知って、この男はこんなに楽しそうに笑っているのだ。
「室長、笑い事ではありません!
もしこの情報が外部に漏れれば、帝国の威信は崩壊します!
直ちに討伐隊を、いや、秘密裏に暗殺部隊を北へ派遣すべきです!」
「暗殺部隊だと?」
室長の瞳から、スッと笑意が消え失せた。氷のように冷たい視線が僕を射抜く。
「ヴェイン。お前は、あの男がただの『神輿』だと思っているのか?
聖剣を持っていようがいまいが、あいつは一度全てを捨てて修羅に堕ちた男だ。
中途半端な猟犬を差し向けたところで、返り討ちにあって死体の山が築かれるだけだぞ」
「し、しかし……! 放置すれば、彼はいずれ」
「それに、行き先を見てみろ。霊峰『竜の顎』だ」
室長は羊皮紙の末尾を指差した。
「狂っている。
あそこは、古代竜の巣窟だ。
いかにあの男が人間離れしていようと、あの箱を守りながら古代竜のブレスを凌ぎ切れるはずがない」
そこで、ゼクス室長は何かを思い出したように、目を細めた。
「待てよ。『竜の顎』には今、我が軍の第五北征部隊が向かっているはずだな」
「は、はい。上層部の命令で、古代の熱源『原初の残り火』を回収するために二百名の精鋭が」
「あいつの狙いも、それか」
室長は独り言のように呟き、再び不敵な笑みを浮かべた。
「なるほどな。
あの氷の呪いを溶かすために、神話の熱を求めて死の山を登るか。……面白い」
ゼクス室長は立ち上がり、机の上に置かれていたランプの火屋を外した。
そして、僕が持ってきたその重要な『報告書』の端を、躊躇いなく炎へと近づけた。
「あっ!? 室長、何を……!」
「ヴェイン。
お前は今日、ただの定期連絡を持ってきただけだ。辺境に変わったことは何一つない。そうだな?」
燃え上がる羊皮紙の明かりに照らされた室長の顔は、悪魔のように恐ろしかった。
「あの馬鹿が、帝国軍の正規部隊と、古代竜の群れがひしめく霊峰でどう足掻くのか。
安全な王都から見物させてもらおうじゃないか。
あいつが古代竜に焼き殺されれば、この秘密は雪と共に永遠に埋もれる。
もし万が一……あいつが全てをぶち壊して生還したなら、その時は帝国のひっくり返る様を特等席で笑ってやる」
完全に燃え尽きた羊皮紙の灰が、ハラハラと机の上に落ちていく。
僕は、ガタガタと震える膝を止めることができなかった。
この男は、帝国の忠臣でもなんでもない。
ただ、綺麗事で塗り固められたこの世界が、泥と血で汚されていくのを何よりも好む『狂人』だ。
「わ、わかりました。私は、何も、見ていません」
「よろしい。下がれ」
僕は這うようにして執務室を逃げ出した。
背後の分厚い扉が閉まる直前、ゼクス室長が窓の外――白銀の英雄像が建つ広場を見下ろしながら、ポツリと呟くのが聞こえた。
「せいぜい足掻けよ、アレン。
お前が被った泥の重さ、王都の狸どもにもたっぷり見せつけてやれ」
帝国暦846年。
帝都の中枢で、かつての英雄の生存を記した報告書は闇に葬られた。
北の死地では今まさに、氷の霊峰を舞台にした、絶望的な戦いの幕が上がろうとしていた。
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