第15話:腐海からの餞(はなむけ)と、鱗の誓い 【セト】
「行っちまったな。本物の化け物が」
俺は洞窟の入り口から、分厚い瘴気の向こうへと消えていった二人の足跡を呆然と見つめていた。
あの空っぽの瞳をした男、アレン。そして、彼に纏わりつく底抜けに明るい少女、リノ。
彼らが背負っていた「呪われた氷の棺」が放つ冷気は、この深淵の泉の湿った空気を、今も微かに凍らせたままだった。
「化け物、か。言い得て妙だな、セトよ」
背後で、車椅子に座った師匠――腐海の魔女が、しゃがれた声で皮肉っぽく笑った。
「だがあの男は、元からあのような底無しの虚無を抱えていたわけではない。あれは『世界』という名の理不尽に、己の人間性を極限まで削り取られた残骸だ。
……そして今度は、たった一人の女のために、その残骸すらもすり潰そうとしている」
師匠の白濁した目が、男の消えた北の空角を向いていた。
俺は釜の火を調整しながら、忌々しそうに舌打ちをする。
「馬鹿げてる。古代竜が巣食う『竜の顎』だぞ?
帝国軍が何個師団の兵力を注ぎ込もうが、山の中腹で全滅するのがオチの絶対的な死地だ。
いくらあの男が元・英雄で、人間離れした剣技を持っていようが……あんな氷の棺を背負ったまま登り切れるわけがない」
「ええ、その通りだ」
師匠はあっさりと俺の言葉を肯定した。
「あの男の暴力は、あくまで『対・魔族』や『対・人間』の範疇に収まるものだ。
神話の時代の生き残りである古代竜の理不尽な熱量と質量を前にすれば、いかに聖剣の残滓を纏っていようと、一瞬で消し炭になるだろうさ」
「なら、なんであんな嘘を教えたんだよ! 『原初の残り火』があれば呪いが解けるなんて……希望を持たせたまま絶望の山で焼け死ぬなんて、あんまりじゃないか!」
俺が声を荒げると、師匠はゆっくりと車椅子の向きを変え、俺の方を真っ直ぐに見据えた。
その顔には、いつもの皮肉めいた笑みは消え去り、底知れぬ凄みが宿っていた。
「嘘ではない。神話の熱量ならば、あの『永久凍土の呪縛』を融解させうる。それは事実だ」
師匠は懐から、鈍い鉛色をした手のひらサイズの奇妙な『ランタン』を取り出した。
それは、古びた金属で編まれた檻の中に、透明な水晶のようなものが浮かんでいる、見たこともない魔道具だった。
「師匠、それは?」
「これは『封絶のランタン』。
私が若き日に、古代文明の遺跡から掘り起こした遺物だ。
いかなる極大の熱量であろうとも、この中に入れれば周囲に影響を与えずに運ぶことができる。……つまり、『原初の残り火』を持ち帰るための唯一の『器』だ」
「は? 持ち帰るための器?」
俺は間抜けな声を出し、師匠の手にあるランタンと、師匠の顔を交互に見比べた。
「ちょっと待て。
なんでそんな超重要アイテムを、あいつらに渡さなかったんだよ!
これがなきゃ、仮に残り火を見つけたとしても、持ち帰る途中で熱で焼け死ぬだけじゃないか!」
「当たり前だ。
こんな世界に一つしかない国宝級の魔道具を、どこの馬鹿か知らん男にホイホイとくれてやるお人好しがどこにいる」
師匠は呆れたように鼻を鳴らした。
「それに、あの男は今、完全に視野が狭窄している。
目的地と、自分の背中の箱しか見えていない。そんな状態でこれを持たせても、古代竜のブレスを前に『自分が盾になって器を守る』という愚行に走り、結果として共倒れになるのが関の山だ」
俺は反論できず、黙り込んだ。
確かに、あの男の目には、自分の命に対する執着が全くなかった。
目的のためなら、自分を肉の盾にすることに何の躊躇いもない狂気を感じた。
「じゃあ、どうするんだよ。このままじゃ、あいつらは本当に犬死にだぞ」
「だから、お前が行くんだ、セト」
「は?」
俺の思考が、完全に停止した。
師匠はランタンを無造作に俺の胸に押し付け、しゃがれた声で宣告した。
「あの男たちの後を追え。
そして、彼らが古代竜の注意を引いている間に、お前がそのランタンで『原初の残り火』を回収し、安全圏まで運ぶのだ。……あいつらの命の使い道を決める、最後の鍵はお前が握れ」
「ふざけんな!!」
俺はランタンを床に叩きつけそうになるのを必死に堪え、絶叫した。
「俺はただの落ちこぼれの魔女の弟子だぞ!
高位の魔法なんて一つも使えないし、体力だって普通の人間並みだ!
なんで俺が、あんなバケモノどもの巣窟に突っ込まなきゃならないんだよ! 死ぬ! 確実に死ぬ!!」
俺の情けない悲鳴を聞いても、師匠は表情を変えなかった。
「セト。
お前はもう十年、この腐海の森の奥で、カエルの糞の匂いと古文書の埃に塗れて過ごしてきた。
外の世界の理不尽も、絶望も、そして底抜けの馬鹿どもの生き様も、自分の目で見たことがないだろう」
師匠の白濁した瞳が、俺の心の奥底を見透かしているようで、俺は言葉に詰まった。
「あの男は、世界から見捨てられ、己も世界を捨てた。
だが、それでもなお、泥に塗れて前に進もうとしている。
……お前は、あの背中を見て、何も感じなかったとでも言うつもりか」
返す言葉が見つからなかった。
俺は唇を噛んだ。
思い出したくもない。
あの男が棺を見つめた時の、死んだような瞳の奥に宿っていた、ひどく不器用で、痛々しいほどの熱を。
あんなものを見せられて、自分だけが安全な洞窟の中で「可哀想に」と嘲笑って一生を終えるのは、ひどく……いや、猛烈に気分の悪いことだった。
「チッ。わかったよ、クソババア。行けばいいんだろ、行けば!」
俺は乱暴にランタンを懐にねじ込み、旅用の背嚢を引っ張り出した。
保存食と、気休め程度の防寒具、そして少しばかりのポーション。
準備をしながら、俺はずっと悪態をつき続けていた。
そうでもしないと、恐怖で足がすくんでしまいそうだったからだ。
「ふん。せいぜい、古代竜の餌にならないように走り回るんだな」
師匠はそれだけ言うと、再び車椅子を洞窟の奥へと向けてしまった。それが、この偏屈な魔女なりの、最大限の「激励」であることを俺は知っていた。
背嚢を背負い、洞窟の外へ出る。
腐海の森の淀んだ空気を吸い込んだ瞬間、巨大な影が俺の前に立ち塞がった。
「行くのか、人間の若僧」
分厚い鱗と、鋭い牙。
水鱗族の戦士長、ガルドだった。
彼は部族の抗争で負った傷に簡単な処置を施しただけの痛々しい姿だったが、その手にはしっかりと愛用の骨槍が握られていた。
「なんだよ、おっさん。
あんたも俺を笑いに来たのか? 落ちこぼれの魔術師が、死の山にピクニックに行くのをさ」
俺が自嘲気味に笑うと、ガルドは静かに首を横に振った。
「我が部族の抗争は、あの男の理不尽な暴力によって、皮肉にも終結した。
我は誇り高き水鱗族の戦士として、あの男に命を救われた恩義がある」
ガルドの爬虫類特有の縦長の瞳孔が、真っ直ぐに俺を捉えた。
「『竜の顎』は、我らリザードマンにとっても神の領域に等しい死地。
だが……あの死神のような男が、己の全てを懸けてどこまで登り詰めるのか。
そして、あんな男の隣でやかましく笑っていたあの小さな雌が、最後まで笑っていられるのか。……我は、戦士としてそれを見届けたい」
ガルドは骨槍の石突きを地面に打ち鳴らし、俺に向かって深く頭を下げた。
「魔女の弟子、セトよ。
我の命、貴殿の道中の護衛として使ってくれ。
あの男たちの背中に追いつくまで、このガルドが貴殿の盾となろう」
俺は、目の前で頭を下げる巨大なリザードマンの戦士を見て、思わず吹き出しそうになった。
魔法の使えない落ちこぼれの弟子と、義理堅いトカゲの戦士長。
なんだこの、寄せ集めにも程があるパーティーは。
「ははっ。
死地に向かうのに、こんなに心強い盾はないな。よろしく頼むぜ、ガルドのおっさん!」
俺は背嚢を背負い直し、北の空――厚い雲に覆われた『竜の顎』の方角を力強く指差した。
帝国暦846年。
腐海の森から、もう一つの泥臭い足跡が、伝説の霊峰へ向けて歩み始めた。
前を歩く、狂気と絶望に満ちた二人と一柱の背中を、絶対に死なせないために。
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