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泥濘のレクイエム ―英雄の残火と、継ぎ接ぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2章 棺を背負う旅路、竜の顎へ

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第14話:白銀の偶像と、凍てつく現実(北の討伐隊) 【レオン】



王都の大広場には、巨大な白銀の銅像が建っている。

数年前の大戦役において、魔王と相打ちになり、その尊い命を世界のために捧げた救世主。伝説の聖剣を振るい、我々人類を勝利へと導いた「英雄アレン」の像だ。


「ハァッ、ハァッ……っ!」


肺の中に入り込む空気が、まるで細かいガラス片のように冷たい。

僕は雪に足を取られながら、分厚い毛皮のコート越しに王都の方角――遥か南の空を思い浮かべ、自分を鼓舞した。


僕の名前はレオン。帝国軍の士官学校を卒業したばかりの、しがない小隊長だ。

英雄アレンに憧れ、彼のような立派な騎士になりたいと夢見て軍に入った。


彼が命を賭して守り抜いたこの平和な世界を、今度は僕たちが守るのだと。


だが、現実は甘くはなかった。

魔王が消滅しても、世界から魔物が完全に消え去ったわけではない。むしろ、強大な「闇の統率者」を失ったことで、各地の魔物たちは縄張りを広げ、より凶暴化していた。

そして今、僕たち帝国軍の第五北征部隊(約二百名)は、大陸の最北端に位置する極寒の死地――霊峰『竜のあぎと』の中腹で、猛吹雪に行く手を阻まれていた。


「レオン隊長!

第参班の三名が、また凍傷で動けなくなりました!

このままでは全滅します、一度麓のキャンプまで後退の許可を!」


雪まみれになった副官が、悲鳴のような声を上げる。

僕はギリッと奥歯を噛み締めた。

僕たちの任務は、この霊峰の頂にあるとされる神話の熱源『原初の残り火』を回収することだ。


大戦役後、聖剣という絶対的な武力を失い、他国とのパワーバランスに焦る帝国上層部が、新たな戦略兵器の動力源として目をつけたのがこの霊峰だった。


「ダメだ……!

ここで引き返せば、軍法会議にかけられる!

英雄アレン様は、こんな吹雪の何十倍も過酷な戦場を、たった一人で傷一つ負わずに歩き通したんだぞ! 僕たち帝国の騎士が、たかが雪山ごときで……!」


「隊長! アレン様は神に選ばれた特別な御方です! 我々ただの人間とは違うんですよ!!」


副官の悲痛な叫びに、僕はハッとして言葉を失った。

そうだ。


僕たちはただの人間だ。


英雄のように、光の結界で寒さを弾き返すことも、無尽蔵の体力で何日も歩き続けることもできない。


「くそっ」


僕は己の無力さに唇を噛み、撤退の命令を下そうと口を開きかけた。

その時だった。


上空の分厚い吹雪の幕が、巨大な「何か」の羽ばたきによって、一瞬だけドーム状に吹き飛ばされたのだ。


「え?」


「ギャァァァァァァッ!!」


鼓膜を突き破るような、爬虫類特有の金切り声が雪山に響き渡った。

吹雪を裂いて急降下してきたのは、全長十メートルは優に超える巨大な『飛竜ワイバーン』だった。古代竜エンシェント・ドラゴンの末裔とも呼ばれる、この霊峰の生態系の頂点に君臨する魔物だ。


「敵襲ゥゥッ!! 槍衾やりぶすまを作れ! 弓兵、放て!!」


中隊長の怒号が飛び交い、凍えきった兵士たちが必死に武器を構える。

放たれた何十本もの矢が飛竜の鱗に命中するが、カンッ、カンッと硬質な音を立ててすべて弾き落とされた。通常の鋼の武器など、あの強靭な鱗の前では爪楊枝に等しい。


「グルルルァッ!!」


飛竜が巨大な顎を開き、地を這うようなブレス――絶対零度の『氷の息』を吐き出した。


「うわああああっ!?」

「ぎゃあああっ!」


氷のブレスを浴びた前衛の兵士たち数十名が、悲鳴を上げる間もなく一瞬にして完全な氷像へと変えられ、そのまま飛竜の巨大な尻尾に薙ぎ払われて粉々に砕け散った。

赤い血すら流れない。


ただ、氷の破片となったかつての仲間たちが、無惨に雪の上に散乱する。


「撃て! 魔法兵、炎の術式を急げ!」


僕も腰の長剣を抜き放ち、震える足に力を込めた。

怖い。


怖い。


士官学校で習ったどんな戦術も、目の前の圧倒的な暴力の前には何の役にも立たない。


「『火球ファイア……』」


後方の魔法兵が詠唱を完了させるより早く、飛竜は雪を蹴り上げて再び上空へ舞い上がり、そのまま魔法兵の陣地へと巨体を落下させた。

ドゴォォォンッ!という轟音と共に、雪煙と鮮血が舞い上がる。


「あ、ああ」


僕のすぐ隣にいた副官が、腰を抜かして雪の上にへたり込んだ。

二百名いた精鋭部隊は、たった一匹の飛竜の襲撃によって、わずか数分で半数以下にまで減らされていた。


指揮系統は完全に崩壊し、兵士たちは武器を捨てて我先にと雪山を逃げ下っていく。


「逃げるな! 陣形を立て直せ! 帝国の騎士としての誇りを……!」


僕の叫びは、誰の耳にも届かなかった。

飛竜の冷酷な黄色い瞳が、逃げ惑う兵士たちではなく、その場で剣を構えて立ち尽くしていた僕を捉えた。


(……死ぬ)


飛竜が、僕をただのエサとして認識し、巨大な顎を開いて飛びかかってくる。

その圧倒的な死の気配を前に、僕の脳裏に浮かんだのは、王都の広場に建っていた白銀の銅像の顔だった。


英雄アレン。


あなたは、こんな絶望的な化け物たちを相手に、たった一人で戦っていたのですか。

僕たち凡人が、安全な王都であなたを「神様」だと讃えていたあの裏側で。


あなたはずっと、こんな泥と血と死の恐怖の中で、一人きりで剣を振るっていたのですか。


「うおおおおおっ!!」


僕は恐怖を振り払うように絶叫し、飛びかかってくる飛竜の顎に向かって、やけくそで長剣を振り下ろした。

ガキンッ!!

僕の剣は、飛竜の分厚い牙に弾かれ、根元からあっさりとへし折れた。


両腕の骨が外れるほどの衝撃が走り、僕は雪の上を無様に転がった。


「ガァッ!」


飛竜の鋭い爪が僕の胸元をかすめ、軍服と毛皮のコートが引き裂かれる。

鮮血が雪を汚した。致命傷ではないが、強烈な痛みに意識が遠のく。

僕は折れた剣の柄を握りしめたまま、雪の斜面を転がり落ちた。


「レオン隊長……ッ!」


遠くで、生き残った数名の部下が僕を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、吹雪の音にかき消された。

体が斜面のクレバス(氷の割れ目)に吸い込まれ、深い暗闇の中へと落下していく。


ガンッ、ゴツンッ!

氷の壁に何度も体を打ち付けられ、最後は雪のクッションに叩きつけられて、僕の全身から完全に感覚が消え失せた。


「ハァ、ハァ」


どれくらい意識を失っていたのだろうか。

気がつくと、僕は氷の洞窟のような場所の底に倒れていた。


頭上の遥か高くに、わずかな光が見える。飛竜は僕が死んだと思い、追ってくるのをやめたようだ。


激痛でまともに息ができない。胸の傷口から流れた血が、凍りついて張り付いている。

生き残った。だが、助かる見込みはない。

ここは『竜の顎』。


人間の足で登ることも、無事に生還することも不可能な、完全なる死の世界だ。


「アレン様。あなたは……こんな世界を」


僕は凍える指先で、首から下げていた軍の認識票を強く握りしめた。

王都の人間は誰も知らない。


大戦役の真実を。


あの英雄が、どれほどの理不尽と恐怖の泥水を啜りながら、世界を救ってくれたのかを。

そして、彼がいなくなった今、帝国軍という組織が、いかに脆く、自然の脅威の前では無力であるかを。


薄れゆく意識の中、僕は冷たい氷の天井を見上げながら、ただ静かに死を待つことしかできなかった。

僕はここで、誰にも知られずに死ぬのだ。

この忌まわしい霊峰に、人間が足を踏み入れることなど、絶対に不可能なのだから。


帝国暦846年。

霊峰『竜の顎』の中腹。


一人の若き帝国の騎士が、凍てつく暗闇の中で静かに絶望に沈んでいった。

彼はまだ知らない。

自分が「不可能だ」と断じたこの死の山へ、自分の命をすり減らしてでも登りきろうとする『かつての神様』が、麓へと着実に歩みを進めていることを。


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