第13話:深淵に沈む希望と、氷の宣告 【セト】
「おい、セト。
結界の魔力供給が落ちているぞ。マンドラゴラの根をもっと釜にくべろ」
薄暗い洞窟の奥から、我が師匠である『腐海の魔女』のしゃがれた声が響く。
「わかってますよ、師匠。……それにしても、今日は外の瘴気がやけに濃いですね。水鱗のトカゲ共、また縄張り争いでもやってるんですか」
俺は悪態をつきながら、煮えたぎる大釜に薬草を放り込んだ。
ここは腐海の森の最奥、『深淵の泉』。
外界から完全に隔絶された魔術の研究施設であり、俺たちのような世間から外れたはぐれ者が息を潜めて暮らす隠れ家だ。人間はおろか、魔物すら容易には近づけない。
その時だった。
洞窟の入り口を塞いでいた分厚いツタの結界が、外側から乱暴に引き剥がされた。
「魔女殿。客人を連れてきた」
巨体を屈めて入ってきたのは、見知った顔の番人――水鱗族の戦士長ガルドだった。
だが、俺が驚いたのは彼の全身が酷い傷と返り血に塗れていたことではない。彼の背後から、信じられないことに『人間の足音』が二つ、この聖域へと踏み込んできたからだ。
「おいおい、ガルドのおっさん。掟破りにも程があるだろ。ここをどこだと」
俺の文句は、最後まで続かなかった。
ガルドの後ろから姿を現した一人の男を見た瞬間、魔力に敏感な俺の全身の産毛が逆立ち、胃袋が痙攣するような強烈な吐き気に襲われたからだ。
「何だ、こいつ」
ボロボロの外套。
伸びっぱなしの黒髪。そして、背中に背負われた巨大な木製の棺。
だが、そんな外見の問題ではない。
男の内側から漏れ出ている『気配』が、あまりにも異質すぎたのだ。
人間が持つべき生命力や感情といった色彩が完全に欠落し、ただ底なしの虚無と、ひんやりとした狂気だけがそこにポッカリと穴を開けている。まるで、歩くブラックホールだ。
「ごめんねー、お邪魔しまーす! うわっ、なんかすごいカエルみたいな匂いがする!」
その背後から、タンバリンを鳴らしながら底抜けに明るい少女が顔を出した。
異常な男と、場違いなほど元気な少女。そして、重苦しい棺。
あまりにもアンバランスなその一行に、俺は言葉を失って立ち尽くすことしかできなかった。
「ほう。ガルドが掟を破ってまで人間を招き入れるとはな」
洞窟の奥から、車椅子に乗った老婆――我が師匠が姿を現した。
彼女の目は完全に白濁しているが、その魔力感知は俺の何十倍も鋭い。
師匠は車椅子を進め、男の目の前で止まると、その白濁した目で男の背中の『棺』を真っ直ぐに見据えた。
「下ろせ。それを見せに来たのだろう、名もなき旅人よ」
男――アレンと呼ばれたその青年は、無言で背中の棺を下ろし、厳重に施された封印の蓋をゆっくりと開けた。
洞窟の中に、一瞬にして極寒の冷気が満ちた。
俺は思わず息を呑んだ。
棺の中に横たわっていたのは、信じられないほど美しい女性だった。
いや、美しいだけではない。
彼女の胸元から首筋にかけて、禍々しい黒い氷のような痣がびっしりと広がり、彼女の強力なマナを完全に凍結させている。
まるで、時間がそこだけ止まった精巧な氷細工のようだ。
「『永久凍土の呪縛』……。
しかも、ただの呪いではないな。施した者の全生命力と、強大なる『闇』の根源が編み込まれている。おまけに」
師匠の枯れた指先が、女性の額に触れる。
「この娘の体を微かに覆っているのは、伝説に聞く『聖剣』の残滓か。神の光に焼かれた跡がある」
その言葉に、俺は心臓が止まるかと思った。
聖剣の残滓? 魔王の呪い?
そんなもの、数年前の大戦役の最前線にいなければ、絶対に浴びるはずがない。
俺はガタッと後ずさり、目の前の空っぽな瞳をした青年を凝視した。
「あんた……まさか、数年前に死んだはずの」
「解けるのか」
俺の動揺を完全に無視し、男は地を這うような声で師匠に問いかけた。
「どんな代償でも払う。
俺の命でも、手足でも。だから、この呪いを解く方法を教えてくれ」
その声には、一切の躊躇いがなかった。
ただの一ミリも。
自分の命を差し出すことに、呼吸をするのと同じくらい何の疑問も抱いていない、完全に壊れ果てた自己犠牲の音だった。
師匠は深くため息をつき、首を横に振った。
「結論から言おう。
私の力では、この呪いは解けん。
いや、現代の人間の魔法や、教会の神聖魔術をいくら束ねたところで、この氷を溶かすことは絶対に不可能だ」
「ッ!!」
男の瞳の奥で、微かに何かが軋む音がした。
その後ろで、明るかった少女が顔面を蒼白にして口元を押さえている。
「この呪いは、言わば『魂の停止』だ。
無理に解こうとすれば、この娘の魂ごと粉々に砕け散る。……だがな」
師匠は白濁した目を細め、男を射抜くように見上げた。
「現代の魔法でダメなら、それよりも古い、理不尽な『熱』で上書きするしかない」
「熱?」
「ああ。
世界の理が固まる前に存在したとされる、神話の時代の熱量だ。例えば……この大陸の遥か北、『竜の顎』と呼ばれる霊峰の頂に眠る、『原初の残り火』。
あれほどの熱量があれば、魂を傷つけることなく呪いの氷だけを融解させることができるかもしれん」
それを聞いて、俺は悲鳴を上げそうになった。
「ちょっと待てよ、師匠! 『竜の顎』って、あそこは古代竜の巣窟だろ!? 人間の軍隊が万単位で行っても灰にされるような死地じゃないか! そんなの、実質的に不可能だって言ってるのと同じだ!」
だが。
「場所は」
男の口から出たのは、絶望でも、諦めでもなかった。
彼は棺の蓋を静かに閉じながら、ただ機械のように次の工程を確認するだけの、あまりにも平坦な問いを投げかけた。
「北の霊峰の、どこに行けばそれはある」
俺は全身に鳥肌が立つのを感じた。
不可能だと言っているのに。古代竜が相手だと言っているのに。この男は、それを「ちょっと隣町までお使いに行く」程度の障害としてしか認識していないのだ。
師匠は小さく鼻で笑い、一枚の古い羊皮紙を男に向けて投げた。
「底知れぬ業を背負った男よ。
お前が世界から泥を被り、その娘のために修羅となるというのなら、せいぜい足掻いてみるがいい。
だが覚えとけ。
お前が化け物に近づけば近づくほど、その箱の中の娘が目覚めた時、一番悲しむのは誰なのかをな」
「行くぞ、リノ」
男は師匠の忠告にも表情を変えることなく、羊皮紙を懐にねじ込み、再び重い棺を背負い上げた。
その背中は、やはり誰の言葉も届かない、絶対的な孤独と狂気に包まれたままだった。
「あ、うん……!
ありがとうございました、魔女のお婆ちゃん! セト君もね!」
少女だけがペコペコと頭を下げながら、小走りで男の後を追っていく。
二人の足音と、一つ分の重い木箱の擦れる音が、洞窟から遠ざかって消えた。
帝国暦846年。腐海の森。
俺はただ、理不尽なまでの執着を背負って泥の中を歩いていく「死んだ英雄」の後ろ姿を、恐怖と、ほんの少しの畏敬の念を抱きながら見送ることしかできなかった。
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