第12話:腐海の掟と、泥を歩く死神 【ガルド】
ホリヨシです! トカゲ回です!
腐海の森。
我らリザードマンにとってすら、この森の奥深くは肺を焼くような瘴気が立ち込める死地である。だが、我ら『水鱗族』は、代々この森の最奥に座すという「魔女」の聖域を守護する誇り高き番人であった。
「ガァッ! 踏み止まれ! 防衛線を抜かれるな!」
我は血を吐きながら、手にした骨槍を力任せに振るった。
分厚い鱗を持つ同胞たちが、次々と毒沼に倒れ伏していく。
我らを強襲したのは、同じリザードマンでありながら、瘴気を自らの力として取り込んだ邪悪なる『毒爪族』の戦士たちだった。
奴らは魔女の聖域を暴き、その知識を独占しようと企んでいるのだ。
「無駄な足掻きよ、ガルド! 貴様ら旧き番人は、ここで腐泥の底へ沈む運命なのだ!」
毒爪族の族長が、嘲笑と共に毒液を滴らせた双剣を構えて躍り出てくる。
我が部隊はすでに半数以下。全身の鱗は傷つき、体力も限界に近い。
(……ここまでか。だが、誇り高き水鱗の戦士として、背中は見せん!)
我が最期の雄叫びを上げ、刺し違える覚悟で骨槍を構え直した、まさにその時だった。
「——ちょっと!
待ってアレン、そっちは沼だってば! 足場悪いから気を付けてって言ったのに!」
「問題ない。道は塞がっていない」
殺意と血の匂いが充満する戦場に、およそ似つかわしくない『人間の声』が響き渡った。
我も、敵である毒爪族の族長も、思わず動きを止めて声のする方角——濃密な瘴気の向こう側を凝視した。
そこから姿を現したのは、薄汚れた茶色の外套を羽織り、背中に巨大な「木製の箱」を背負った人間の男と、その後ろをやかましく口やかましくついてくる、小柄な人間の雌だった。
「な、人間だと……? なぜこんな瘴気の森の深部に」
我は驚愕に目を見開いた。
人間のような脆弱な種族が、防毒の魔法もなしにこの森を歩けるはずがない。
だが、その男は平然としていた。いや、平然というよりは、完全に『周囲の状況が見えていない』かのように、我らリザードマンの軍勢のど真ん中へと、迷うことなく足を踏み入れてきたのだ。
「アレン、なんかすごい睨まれてるよ。トカゲのお兄さんたち、喧嘩中みたいだけど」
「通るだけだ。邪魔はしない」
男は無感情な声でそう呟き、信じられないことに、殺気立つ毒爪族の戦士たちの群れを真っ直ぐに突っ切ろうとした。
「舐めるなァッ! か弱き猿の分際で、我らの戦場を通り抜けられると思うな!」
毒爪族の若い戦士が、怒り狂って男の背後へと飛びかかった。
その鋭い爪が、男の背負っている巨大な木箱を引き裂こうと迫る。
「逃げろ、人間!!」
我が思わず警告の声を上げた、次の瞬間だった。
——ゴメキッ!!
肉と骨が、理不尽な圧力で叩き潰される鈍い音が響いた。
何が起きたのか、我の動体視力をもってしても完全には捉えきれなかった。
ただ、男がほんのわずかに身を沈め、背中の箱を庇うように半身を切ったかと思うと、飛びかかった毒爪族の戦士の顔面を、裏拳の一撃で完全に粉砕していたのだ。
「それに、触るな」
首の骨を折られ、ピクピクと痙攣しながら毒沼に沈む同胞を見て、毒爪族の戦士たちは息を呑んだ。
男の外套のフードが風で落ちる。
その瞳を見た瞬間、戦場を生き抜いてきた我の生存本能が、けたたましい警鐘を鳴らした。
(こいつは……人間ではない。人間の皮を被った、底無しの『何か』だ!)
男の目には、戦士としての誇りも、殺意すらも存在していなかった。
ただ、己の背負う箱を脅かす障害物を、作業として排除する機械の目。魔物よりもさらに悍ましい、絶対的な虚無。
「キ、キサマァ! 殺せ! そのふざけた人間を八つ裂きにしろ!!」
族長の号令と共に、十数名の毒爪族が咆哮を上げて男へと殺到する。
だが、それは戦闘と呼べるような代物ではなかった。ただの『解体作業』だった。
男は腰のボロボロの鉄剣を抜き放った。魔法の光など一切ない、ただのなまくら刀だ。
しかし、その剣の軌道には一切の無駄がなく、我らリザードマンの分厚い鱗の隙間——首の関節、膝の腱、心臓の真上を、恐るべき精度で的確に削り取っていく。
返り血を一滴たりとも背中の箱に当てないよう、男は奇妙なステップを踏みながら、瞬く間に十数名の戦士を物言わぬ肉塊へと変えてしまった。
「ヒ、ヒィッ……! ば、化け物……!」
あまりの蹂躙劇に、先ほどまで我らを追い詰めていた毒爪族の族長が、尻餅をついて後ずさりをした。
戦意など完全に消え失せている。
彼らは這うようにして毒沼を後退し、蜘蛛の子を散らすように森の奥へと逃げ去っていった。
静寂が戻った腐海の森。
残されたのは、我ら水鱗族の生き残りと、血の海の中に佇む人間の男。そして、その背中に隠れるようにして「あーあ、また服が汚れちゃったじゃない!」と文句を言っている人間の雌だけだった。
我は声を呑んだ。
男は剣についた血を無造作に振り払い、ゆっくりと我の方へと歩み寄ってきた。
我が部下たちが恐怖に身を竦ませて槍を構えるが、我はそれを手で制した。この男と敵対すれば、我らなど数秒で全滅する。
「お前たちが、この森の案内人か」
男は我の目の前で立ち止まり、感情の抜け落ちた声でそう問うた。
その声には、我らの命を救ったという恩着せがましさすら皆無だった。
「いかにも。
我らは水鱗族。
この森の聖域を守る者だ。
人間の戦士よ……貴殿は一体、何者だ? なぜこのような瘴気の森へ」
我が警戒を解かずに問うと、男は自らの背中に背負った箱——よく見れば、それは厳重に封が施された『棺』であった——を、そっと撫でた。
その瞬間だけ、彼の死んだような瞳に、ひどく人間らしい、不器用な熱が宿るのを我は見た。
「魔女を探している。この『呪い』を解く方法を知るために」
彼の言葉を聞き、我は息を呑んだ。
あの恐るべき暴力は、すべてその棺の中に眠る『誰か』のためだけのものだというのか。己の命すら省みず、瘴気の森を歩き続ける執念。
我らリザードマンも番人としての掟と誇りを持っているが、この人間の抱える執着は、それとは次元の違う狂気だった。
「ねえ、トカゲのお兄さん。
私たち、本当に急いでるの。もし魔女の居場所を知ってるなら、案内してくれないかな?」
背後からひょっこりと顔を出した雌——リノと名乗った少女が、悪びれもせずにウインクをしてきた。
「よかろう」
我は深くため息をつき、手にした骨槍を地面に突き立てた。
「我らの命を救ってくれた恩義もある。
それに……その棺に眠る者のためならば地獄すら歩くというその覚悟、戦士として無下にはできん。魔女の住まう『深淵の泉』へ、我自身が案内しよう」
男——アレンは、小さく一度だけ頷いた。
お礼の言葉はない。
だが、その背中がほんのわずかに安堵に緩んだのを、我は見逃さなかった。
帝国暦846年。
腐海の森の奥深く。
誇り高き番人である我は、掟を破り、泥と血に塗れた人間の死神を、不可侵の聖域へと導くこととなったのだ。
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