第1話:光の産声(エルダ砦の奇跡) 【アレン】
ホリヨシです。泥臭い話ですが楽しんでいただけると幸いです。
鉄錆のような血の臭いと、雨に打たれて腐りかけた土の匂いが、べったりと肺にへばりつく。
ひどく濃密な死の気配が、鉛色の空の下、この閉ざされた砦全体をねっとりと覆い尽くしていた。
「はぁ、はぁ……ッ」
こびりついた泥と仲間の血肉で、もはや本来の銀色すら思い出せない手甲を震わせながら、俺は浅く早い息を繰り返す。
氷雨のごとき冷たい春の雨が、熱を持った頬を容赦なく打ち据え、皮膚の感覚を奪っていく。
エルダ砦。帝国と魔王領の国境付近に位置するこの古びた防衛拠点が、地平線から湧き出た魔王軍先鋒の奇襲を受けてから、すでに地獄のような四日目の朝が来ていた。
元々この砦に配備されていたのは、辺境警備を主とする三百の兵のみ。
彼らの多くは農民上がりか、俺のような下級の戦士だ。
対して、砦を取り囲むように蠢く魔物の群れは、少なく見積もっても三千は下らない。
黒塗りの波が押し寄せるようなその光景は、視界に入るだけで正気を削り取っていく。
援軍の要請は初日に出した。
だが、王都から重武装の本軍が到達するには最短でも七日はかかる。
絶望的な算段を前に、一筋の希望すら見出せないまま、一人、また一人と名前も知らない味方が倒れ、今やまともに武器を握れる者は五十を切っていた。
「アレン! ボーッとするな、次が来るぞ!」
轟音と悲鳴の只中、隣で槍を構える古参の兵士、バルガス副隊長が、血を吐くような枯れた声で叫んだ。
彼の左腕は粗末な麻布で固く縛られているだけで、動かすたびにどす黒い血が雨水に混じって足元の泥濘へ落ちていく。
その顔は土気色に染まり、既に限界を超えているのは誰の目にも明らかだった。
「わ、わかっています……!」
喉の奥にこびりついた恐怖を飲み込み、俺は刃こぼれだらけの長剣を必死に構え直した。
柄を握る両手は限界まで疲労し、もはや自分の腕ではないような錯覚すら覚える。
俺は特別な人間ではない。
田舎の村を出て、剣の腕一つで身を立てようと志願した、しがない若年騎士だ。
奇跡を起こす魔法の才があるわけでも、一騎当千の武技を持つわけでもない。
ただ必死に泥の中を転げ回り、無様に剣を振り回し、運良くこの四日間を生き延びただけの、どこにでもいる、ただの人間だ。
ゴブリンの耳をつんざくような金切り声と、オークの地響きのような雄叫びが重なり合い、ついに限界を迎えて崩れかけた城門へと殺到してくる。
「放てェッ!」
城壁の上から、残存する数少ない弓兵が祈るように矢を射掛ける。
だが、分厚く硬質な皮膚を持つオークの先陣には、雨粒ほどの痛痒も与えられなかった。
巨大な樹木の幹のごとき棍棒が振り下ろされ、砦の命綱であった木柵が、爆発したかのような轟音を立てて粉砕される。
木の破片が凶器となって飛び散り、数人の兵が悲鳴と共に吹き飛んだ。
「防衛線、後退! 中庭まで下がれ!」
部隊長の悲痛な命令が響く。
だが、下がったところで逃げ場などどこにもない。
中庭の背後にあるのは、もはや使われることのない古い石造りの礼拝堂だけだ。
袋の鼠だった。
絶望が砦全体を支配したその時、一匹の巨大なオークが、血の臭いに飢えた咆哮とともに俺の目の前に躍り出た。
その丸太のような腕が棍棒を天高く振り上げる。
逃げられない。
俺は反射的に剣を斜めに構え、せめて致命傷だけは避けようと攻撃を受け流す態勢をとった。
――ガキンッ!!
鋭く、そしてひどく鈍い衝撃音。
俺の手にあった頼みの綱の長剣が、半ばから無惨にへし折れ、虚しい音を立てて宙を舞った。
同時に、両腕の骨がひしゃげるような激痛が走り、肩から先の感覚が完全に消え失せる。
「あ――」
体勢を崩し、泥濘に両膝をついた俺を、オークの濁った黄色い眼が嘲笑うかのように見下ろした。
死ぬ。ここで、歴史の片隅で誰にも覚えられずに、ただの肉塊となって泥に塗れて死ぬのだ。
手足は動かず、ただ恐怖と諦観だけが心臓を冷たく締め上げ、精神を完全に支配しようとした、まさにその時だった。
『――我が主よ』
雨音と怒号、死の狂騒に満ちた戦場の中で。
ありえないほど澄んだ、だが氷のように冷たく静かな声が、鼓膜を無視して俺の頭の中に直接響き渡った。
『――我が主よ』
その声は、耳から聞こえたのではない。
魂の底を直接揺さぶるような、人間が発する音とは明らかに違う次元の響きを持っていた。
声を聞いた瞬間、恐怖で完全に凍りついていた体が、俺の意思を無視して反射的に動いた。
振り下ろされるオークの棍棒から逃れるように、泥まみれの地面を無様に転がる。
背後で地盤が割れるような轟音が響き、俺が先ほどまでいた場所の石畳が粉々に砕け散り、巨大なクレーターに変わった。
「ハァッ、ハァッ……!」
感覚の消えた両腕の代わりに、足掻くように全身を使って後退する。
行き着いた先は、中庭の奥にある古い礼拝堂だった。
すでに屋根の半分は焼け落ちて黒焦げになり、色鮮やかだったはずのステンドグラスは無惨に砕け散っている。
追ってくるオークの荒い鼻息と足音が、死神の足音のように間近に迫る。
もう、逃げる場所はない。
俺は崩れかけた祭壇の陰に身を隠そうと、瓦礫の山に足を踏み入れた。
その時、足元の敷石が不自然に傾いた。
「うわっ……!」
短い悲鳴とともに、俺の体は重力に引かれ、暗闇へと真っ逆さまに落ちていった。
礼拝堂の地下室だ。かつては聖職者たちが祈りを捧げた場所なのだろうか。
ひんやりとした古い空気が全身を包み込み、背中を強く打ち付けた衝撃で肺から空気が搾り出される。
「ゲァアアアアッ!」
直後、頭上からオークの耳障りな咆哮が降ってきた。
奴もまた、血の匂いを追って穴を覗き込んでいるのだ。巨体が穴を塞ぎ、わずかな光さえも遮断された。
完全な暗闇の中で、再びあの異常な声が響いた。
『恐れるな。手を伸ばせ』
恐怖よりも先に、何者かに操られるような奇妙な安堵感が湧き上がった。
声に導かれるように、俺は痛む右手を暗闇の奥へと伸ばした。
指先が何か硬いものに触れる。
それは瓦礫の間に突き刺さった、一本の剣の柄だった。
装飾一つない、酷く冷たい鉄の感触。サビだらけのなまくら刀にしか思えない。
だが、その柄を握りしめた瞬間――心臓が爆発するかと思うほどの「熱」が、冷え切っていた右腕から全身の血管へと激流となって流れ込んできた。
『永き眠りは終わった。我が主、アレンよ。お前の望みを剣に込めよ』
なぜ俺の名前を?
そんな疑問を抱く余裕すら、今の俺にはなかった。
オークの巨体が、頭上の穴から飛び降りてくる。
地響きとともに地下室に着地した化け物が、今度こそ俺を完全にすり潰そうと棍棒を猛烈な速度で振り上げた。
「死にたくない……っ!!」
それは、祈りというよりは、無力な生き物としての純粋な本能の叫びだった。
俺は、瓦礫に突き刺さったサビだらけの剣を、焼け付くような熱を放つ右腕の力任せに引き抜いた。
ピキッ、と。
剣を覆っていた分厚い赤サビが、薄いガラスのように砕け散る澄んだ音がした。
次の瞬間、爆発的な白銀の光が、地下室の濃密な暗闇を完全に吹き飛ばした。
「ガ、ァ……!?」
オークが目を焼き切られたかのように怯み、太い腕で顔を覆う。
俺自身もあまりの眩しさに目を細めたが、手の中にある『それ』からは、信じられないほどの力と、羽毛のような軽さが伝わってきた。
ただの鉄塊だったはずのそれは、刃そのものが純粋な光で構成された、見る者の魂をひれ伏させるような神々しい長剣へと姿を変えていた。
「うおおおおおおっ!!」
俺は獣のように叫び声を上げ、無意識のうちに、身体の奥から湧き上がる衝動のまま光の剣を振り抜いた。
剣の軌跡から放たれた光の奔流が、オークの巨体をすっぽりと呑み込んだ。
肉を斬る感触すらない。
悲鳴を上げる間も、血が一滴流れる間もなく、巨大な魔物は音もなく光の塵となって消滅したのだ。
さらに光は止まらず、分厚い地下室の石壁を熱したナイフでバターを切るように両断し、空の雨雲まで突き抜けていく。
あまりの出来事に、俺は呆然と立ち尽くした。
剣からは未だに、俺の鼓動とリンクするかのように脈打つ光と熱が放たれている。
上空から、雨の音に混じって魔物たちの断末魔の悲鳴が聞こえてきた。
先ほどの狂気的なまでの光の斬撃は、地上を埋め尽くしていた魔物たちをも巻き込んだのだ。
俺は震える足に力を込め、崩れた石段を登って、再び地獄の地上へと這い上がった。
礼拝堂の外に出た俺の目に飛び込んできたのは、世界の理が崩壊したのかと疑うような光景だった。
砦を埋め尽くしていた魔物の群れが、地下から放たれた一条の光によって、まるで海が割れるように薙ぎ払われていたのだ。
黒焦げになった大地と、硝子化して煌めく地面。
生き残った味方の兵士たちも、敵である魔物たちも、全員が完全に動きを止め、信じられないものを見るような目で俺と――俺の右手に握られた光の剣を凝視していた。
『さあ、行こう。世界が、お前を待っている』
頭の中で響くその声は、どこまでも純粋で、だからこそ酷く残酷に聞こえた。
雨の音すら遠のいたような、奇妙で圧倒的な静寂だった。
泥と血に塗れた砦の中庭で、俺の右手にある白銀の剣だけが、まるでそこだけ世界から切り離されたかのように清謐な光を放っている。
「グルルルァアアアッ!」
静寂を破ったのは、砦の城壁を乗り越えてきたオークの一団だった。
同胞が光に呑み込まれた恐怖を、無理やり怒りで塗り潰すように、血走った眼で俺へと殺到してくる。
十、二十……数え切れないほどの巨体が、地響きを立てて迫る。
『振るえ。汝が望むままに』
再び頭に響いた声に背中を押されるように、俺は一歩を踏み出した。
恐怖はない。不思議なほど心は波立っていなかった。
折れた鉄剣を振るっていた時の、あの重さと頼りなさは微塵も感じない。
無機質な光の剣そのものが俺の意思を先読みし、腕を引いているかのような錯覚すら覚えた。
ただ、無造作に右から左へ。虫を払うように、薙ぎ払う軌道で光の刃を一閃した。
――ゴォォォォォォォンッ!!
空気が爆ぜ、空間そのものが軋むような轟音。
剣の軌跡から生まれた光の津波が、扇状に広がりながら砦の前庭を怒涛の勢いで駆け抜けた。
不快な泥濘も、散乱する瓦礫も、そして殺到する魔物の群れも。
光が通り過ぎた後には、一切合切が蒸発し、消滅していた。
ただ、超高熱によってガラスのように滑らかに結晶化した地面だけが、その尋常ならざる暴力を物語っている。
「嘘……だろ」
自らが放った一撃のあまりの威力に、俺自身が息を呑んだ。
残存していた魔物たちは、完全に戦意を喪失していた。
本能が「これ以上ここにいれば存在そのものを抹消される」と理解したのだろう。
武器を放り出し、我先にと砦から背を向けて悲鳴を上げながら逃げ出していく。
追撃すらいらなかった。
魔王軍の先鋒部隊は、たった一振りの剣によって機能停止し、完全に瓦解したのだ。
分厚い雨雲が割れ、そこから一筋の陽光が神々しく差し込んできた。
冷たい春の雨は上がり、砦を包んでいた濃密な死の気配は嘘のように霧散している。
「あ、アレン……お前、それは……」
背後から声が聞こえ、俺はハッとして振り返った。
満身創痍のバルガス副隊長と、生き残った数十名の兵士たちが、崩れた中庭の入り口に固まっていた。
四日間、同じ泥水をすすり、怪我の手当てをし合い、背中を預けて戦った仲間たちだ。
俺は強張っていた肩の力を抜き、安堵の息を吐きながら、光を放ち続ける剣を下げて彼らの方へ歩み寄ろうとした。
「隊長、終わりました。俺たち、生き残ったんです——」
だが、俺の足は二歩目で止まった。
俺を見つめるバルガス副隊長の目が、ひどく怯えていたからだ。
いや、彼だけではない。生き残った兵士たちの全員が、まるで未知の化け物でも見るかのように俺を見つめ、じりっ、と後ずさりをしたのだ。
「あ」
その時、俺は初めて理解した。
這いつくばって泥と血に塗れ、絶望の中で死にかけていた彼らの目に映っているのは、昨日までくだらない冗談を言い合っていた「新米兵士のアレン」ではない。
神話の中からそのまま抜け出してきたような、圧倒的で、暴力的で、およそ人間が持つべきではない光の塊を振り回す『理解不能な何か』だ。
「聖剣……」
誰かが、震える声で呟いた。
「神よ……あれは、伝説の聖剣だ……!」
一人の若い兵士が、泥濘に両膝をつき、俺に向かって——いや、俺の持つ光の剣に向かって深く祈りを捧げるように頭を垂れた。涙すら流していた。
それを皮切りに、一人、また一人と、歴戦の兵士たちが武器を置き、俺の前にひれ伏していく。
あのバルガス副隊長でさえ、血を流す左腕を抱えながら、畏敬の念と恐怖をない交ぜにした表情で、その場に深く膝をついた。
「違う、やめてくれ! 俺はアレンだ! 一緒に戦った、ただの……!」
俺の悲痛な叫びは、虚しく空に吸い込まれ、誰の耳にも届かなかった。
彼らの目には、もう俺の人間としての素顔は見えていない。
圧倒的な力を見せつけた「世界を救う絶対的な力」への信仰が、昨日までの仲間との絆や、人間としての繋がりを完全に上書きし、焼き尽くしてしまったのだ。
『祝福せよ。今日この日、世界を統べる英雄は産み落とされた』
脳内に響く声が、残酷な宣告を下す。
俺は光の剣を握りしめたまま、誰からも遠ざけられ、誰の足跡もついていない結晶化した地面の上に、ただ一人立ち尽くしていた。
温かい人間の輪から弾き出され、絶対的な孤独という玉座に座らされた瞬間だった。
帝国暦842年4月。エルダ砦の奇跡。
これが、俺が人間としてのすべてを失い、「英雄」という名の概念に成り果てた最初の日の記憶である。
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