8. 乳腺腫瘍摘出術
現役医師による小説は面白いか?
倉科ミカは、指定された時間きっかりに、大倉総合病院の入院受付窓口にいた。隣には、彼女の母親が、所在なげに立っている。その、やや着古した外出着と落ち着きのない態度は、院内の静かで規則的な空気から、明らかに浮いていた。
来院の手続きを終えた二人は、エレベーターで四階の外科病棟へと上がった。ナースステーションで、一人の看護師が、ミカの名前と腕に巻かれたIDバンドの情報を手元の書類と照合し、病室へと案内する。通されたのは、四〇八号室。四つのベッドが並ぶ、標準的な大部屋だった。
部屋にはすでに三人の患者がいた。窓際には、娘らしき女性に甲斐甲斐しく世話をやかれている老婆。その隣では、中年女性が、点滴スタンドを傍らに置いて静かに眠っている。窓際にもう一人のやや高齢の女性が寝ている。ミカに割り当てられたのは、廊下側から二番目のベッドだった。カーテンを引けば、辛うじてプライベートな空間が確保できる、というだけの場所だ。
「では、こちらで病衣に着替えてください。後ほど、担当の看護師がご挨拶に伺います」 事務的な説明を残し、案内役の看護師は部屋を出ていった。
ミカは、無言でカーテンを引き、渡された薄いコットンの病衣に着替えた。着てきた服を脱ぎ、見慣れないそれに袖を通すことで、自分が社会的な個人から、管理されるべき「患者」という記号へと変わっていくのを、彼女は冷静に感じていた。
カーテンの外では、母親が手持ち無沙汰に部屋の中を見回していた。着替えを終えたミカがカーテンから出ると、母親が振り返る。 「五年前のことを思い出すわ。ミカが、そんな格好をしているのを見ると」 彼女の口調には、努めて明るく振る舞うことで、娘の心配を取り除こうという意図が透けて見えた。
「手術は全身麻酔だから、意識はないうちに終わるって。時間も、二時間もかからないそうよ」 ミカは、医師から説明された事実だけを、淡々と告げた。 「ふうん。じゃあ、お母さん、この部屋で待っているわね」 「ううん、ずっとここにいると疲れるでしょう。手術が終わって、麻酔が覚める頃に、また来てもらえればいいから」
その時、病室のドアが静かに開き、一人の看護師が入ってきた。副主任の、相田遥だった。 「倉科さん、本日の担当看護師の相田です。これから、手術についての最終確認と説明をさせていただきますので、カンファレンスルームまでご移動をお願いします」 その声は、涼やかで無駄な感情が一切含まれていなかった。
母親は、自分たちの会話を遮られたことに、少し不満そうな顔をしたが、白衣を着た医療従事者の前では、何も言えなかった。 相田遥に促され、ミカはベッドを離れた。これから彼女は、手術という、完全にコントロールされた医療システムの一部に、組み込まれていく。
大倉総合病院の手術部は、本館五階のフロア全体を占有していた。セキュリティゲートを抜けた先には、コの字型に手術室が十室並び、その内側の中央スペースは、手術前の患者が待機するためのホールとして機能している。
ホールには、無機質なステンレス製のストレッチャーが三台、等間隔に置かれていた。次の手術を待つ患者たちだ。その一台に、倉科ミカは横たわっていた。すでに鎮静剤の静脈投与が開始されているためか、彼女の目は開いているものの、その黒い瞳は天井の特定の一点を捉えるでもなく、焦点が合っていなかった。意識レベルは、意図的に下げられている。
やがて、二人の男が、青緑色のスクラブスーツに身を固めてホールに現れた。神崎と広瀬だった。二人は、ミカのストレッチャーの横に立つ。 「倉科さん、わかりますか。これから手術室に移動します」 神崎が声をかけると、ミカの瞳が、わずかに彼らを捉えようとして、ゆっくりと動いた。返事はない。ただ、処置を理解したかのように、小さく頷いたように見えた。
二人はストレッチャーの両側につき、所定の第七手術室へと静かに運び入れた。 自動ドアが静かに開き、倉科ミカが乗せられたストレッチャーが運び込まれてきた。室内では、麻酔科医の村田が、各種モニターや麻酔器の最終チェックを行っていた。
手術室特有の、冷たく乾燥した空気が、広瀬の肌を刺した。無影灯が放つ純白の光が、部屋の中央に置かれた手術台と、その周囲に整然と並べられたステンレス製の機器を、容赦なく照らし出している。神崎は、患者が手術台に移されると、すぐにその傍らに立った。彼の術前の手順は、常に厳格なプロトコルに則っている。まず、カルテの記載を確認する。それは、執刀医として、決して犯してはならない過ちをシステムとして排除するための、極めて合理的な作業だった。
2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。
この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。