7. 手術前日
現役医師による小説は面白いか?
手術前日、五月九日。倉科ミカは当初、入院準備を済ませた後は、静かに自宅で過ごそうと考えていた。しかし、夕方になると、彼女は何を思ったか、その予定を変更した。衝動的に家を出ると、近所の韓国料理店に入り、マッコリのボトルを注文していた。アルコールが、沈殿していた不安を一時的に溶かしてくれる。その効果を、彼女は経験的に知っていた。
翌日の五月十日は手術の日であることはもちろんわかっている。看護師からの指示は、明確だった。手術日の朝八時までは食事を許可するが、それ以降は絶飲食。絶食は当然として、水分の摂取も厳しく制限される。ミカは、そのタイムリミットを前に、心を落ち着かせるという名目で、自宅に帰っても、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。グラスに注がれた黄金色の液体を、彼女はゆっくりと喉に流し込む。
入院のしおりには、確かに「手術前日の飲酒はお控えください」と書かれていた。しかし、当日の朝については、特にアルコールを禁ずる記述はない。もちろん、推奨される行為でないことくらい、彼女にもわかっていた。だが、規則の文面を、自分に都合よく解釈した。これは、許容範囲内の逸脱だと。
ビールが半分ほどになったグラスを、ミカはスマートフォンのカメラで撮影した。そして、自身のブログに、その写真を投稿する。
『これから、しばらくお休みします。実は、明日、胸の手術を受けることになりました。ちょっとだけ、こわいな』
そう書き込むことで、読者からの同情や共感を、彼女は得ようとしたのだろうか。不特定多数からの励ましの言葉が、希薄になった自己肯定感を補ってくれる。その構造は、彼女が長年身を置いてきた、グラビアの世界のそれと酷似していた。 事実、彼女はその二日前にも、記憶を消失するほど飲酒したことを、半ば自慢するようにブログに投稿している。デジタル空間に残されたそれらの記録が、後にどのような意味を持つことになるのか、この時の彼女は知る由もなかった。
ビールを飲み干しても、他にやるべきことは何もない。テレビを点ける気にもなれず、ミカはベッドに横になった。アルコールによる、心地よい浮遊感に身を任せ、眠ろうと試みる。だが、意識が遠のく直前、一つの冷たい問いが、頭の中に浮かび上がってきた。
明日の手術が無事に終わったとして、その先に、自分の人生はどうなるのか。
職を失い、身体には再びメスが入る。その現実から、目を逸らすことはできなかった。
彼女は、極めて現実的な問題として、自身の未来をシミュレーションしていた。乳房にメスを入れれば、どれだけ神崎の技術が優れていても、必ず傷は残る。一度手術を経験しているからこそ、その事実はよくわかっていた。そして、グラビアモデルという職業において、商品である身体に傷がつくことは、致命的な欠陥を意味する。おそらく、今の仕事は続けられないだろう。契約終了の宣告は、もはや時間の問題だった。
では、代わりの仕事は。彼女は、自身の職務経歴を頭の中で再生してみた。高校を卒業してから、水商売とモデルの仕事しかしてこなかった。パソコンのスキルも、特別な資格もない。35歳という年齢も、新しい仕事を探す上では、圧倒的に不利な要素となる。論理的に思考すればするほど、彼女の選択肢は狭まっていった。
考えが、一つの結論に行き着く。 ミカは、ゆっくりとベッドから起き上がると、彼女はスマートフォンを取り出し、ある人物に電話をかけた。山川友理奈。この業界に入ってから、付かず離れずの関係を続けてきた、数少ない女友達だった。
「…うん、私。ごめん、夜遅くに」 ミカは、他の患者に聞こえないよう、声を潜めて話し始めた。彼女は、今の自分の状況を、感情を排して、事実だけを伝えるように話した。胸のしこりのこと。明日の手術のこと。そして、仕事を失う可能性が高いこと。
友理奈は、ミカがグラビアの仕事だけでは生活できない時期に、何度か彼女に「仕事」を斡旋したことがあった。ミカも、生活費のために、過去に二、三度、その仕事を手伝った経験がある。 その仕事とは、個室で男性客を相手にする、マッサージという名目の一種の性的なサービスだった。法に触れるか触れないか、きわめてグレーな領域のビジネスだ。客層の多くは、中年から初老にかけての、金払いのいい男たち。決して気分のいい仕事ではなかったが、報酬は、グラビアの仕事よりもはるかに効率が良かった。
あの仕事に戻るのか。そう考えると、自分の人間としての価値が、一段、また一段と堕落していくような気がして、強い嫌悪感がこみ上げてくる。だが、感傷に浸っている余裕はなかった。生きるためには、収入源を確保しなくてはならない。
「…それでね、友理奈。もし、手術が終わって、今の仕事が本当にダメになったら…。また、友理奈に、お願いすることがあるかもしれない」 電話の向こうで、友理奈が何かを察したように、黙り込んだ。 ミカは、友理奈の返事を待たずに、一方的に言葉を続けた。 「その時は、お願い」 それは、未来の自分へ向けてかけた、一本の保険だった。たとえその先に、自己嫌悪という代償が待っていたとしても、今はそれしか、彼女が生き残るための道筋は見出せなかった。
2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。
この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。