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神の手と悪魔の唾液  作者: 横山晋朋
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6. 外来診察

現役医師による小説は面白いか?

その矢先、白衣のポケットに入れていた院内PHSが、短い振動と共に着信を知らせた。ディスプレイに表示された名前に、広瀬は無意識に背筋を伸ばす。神崎彰、だった。

「ああ、広瀬先生。今日はこちらのクリニックで外来をしてるんだが、今、少し時間はあるかな」 電話の向こうから聞こえてきたのは、予想に反して、きわめて穏やかな声だった。 「はい、大丈夫です。現在、四階のナースステーションにおります」 「そうか。悪いが、一度、一階の外来まで来てもらえるだろうか。診てほしい患者さんがいるんだ」 依頼、という形をとった、丁寧な指示だった。


神崎の説明は、落ち着いた口調でありながら、必要な情報がロジカルに整理されていた。 「患者さんは、倉科ミカさん。5年前、私が右乳房の線維腺腫を摘出した既往がある。今回も、右側に腫瘤を自己触知したとのことで、先ほど再診された。マンモグラフィとエコーは施行済みだ。手術前後の比較検討のため、画像所見上、今回もおそらく良性だと思うが、腫瘍径が五センチとやや大きい。患者さんの職業上の都合も考慮し、切除生検を兼ねて、全身麻酔下での腫瘍摘出術を行う方針だ」 「手術は来週の火曜、午後の二番目を予定している。君に助手についてもらいたい。その前に、一度患者さんに会って、挨拶をしておいてほしいんだ」 「はい、承知いたしました」 「ありがとう。では、外来で待っているよ」 通話は、静かに切られた。


広瀬は、すぐにエレベーターで一階の外来フロアへ向かった。頭の中では、神崎から与えられた情報を反芻し、今後のプロセスを組み立てる。倉科ミカ、三十五歳。良性腫瘍の既往。今回も右側。職業上の都合。それらのデータが、無機質な記号として頭の中を駆け巡った。


外科外来の待合スペースは、平日の午後にもかかわらず、数人の患者とその家族らしき人々で椅子が埋まっていた。広瀬は、診察室の名前が書かれたプレートを確認しながら、奥へと進む。その時、彼の視界の端に、一人の女性の姿が映った。五十代後半だろうか。薄茶色のワンピースに、大きなトートバッグを膝に抱えている。その顔には隠しようのない不安が浮かんでおり、どこか遠くを見つめていた。患者を待つ、家族なのだろう。広瀬は、そう判断すると、すぐにその女性から意識を外し、自身の目的である診察室へと意識を戻した。

「神崎」とプレートのかかったドアを、軽くノックする。中から「どうぞ」という、看護師の声がした。


ドアを開けると、診察用の椅子に、一人の女性が座っていた。華奢な身体に、シンプルなワンピース。それが、倉科ミカだった。彼女は、広瀬が入ってきたことに気づき、はっとしたように顔を上げた。その瞳には、これから下されるであろう診断への不安と、それとは別に、何かを探るような、鋭い光が混在していた。その視線が、まっすぐに彼の方へと向けられた。

神崎が、広瀬に気づいて静かに顔を上げた。 「はじめまして。今、ご紹介にあずかりました、外科の広瀬です。来週の手術で、神崎先生の助手を務めさせていただきます」 広瀬は、まず患者であるミカに向かって、丁寧に自己紹介をした。


その後、神崎はミカに「少しお待ちください」と穏やかに告げると、パソコンに向き直った。その指は、一つ一つの検査データや画像所見を、患者への説明内容を吟味するかのように、ゆっくりと、しかし的確に動いていく。倉科ミカのIDで電子カルテを呼び出し、病名、術式、そして手術予定日と、日帰り退院、場合によって一泊入院といった必要事項を、確認しながら、次々とシステムに入力していった。

挿絵(By みてみん)

全ての入力が終わると、神崎はそばに控えていた外来看護師に、静かな声で言った。 「佐藤さん、倉科さんの入院手続き、お願いできますか」 「はい、承知いたしました」 看護師は頷き、診察用の椅子に座ったままのミカに優しく語りかけた。 「倉科さん、こちらへどうぞ。入院のご案内をいたします」 ミカは、広瀬と神崎に小さく一礼すると、無言のまま立ち上がり、看護師とともに部屋を出ていった。その華奢な背中がドアの向こうに消えるのを、広瀬は見送った。


室内には、神崎と広瀬の二人だけが残された。神崎は、すぐに本題を切り出すことはせず、少しの間、閉まったドアの方を見つめていた。やがて、何か考えがまとまったかのように、静かに口を開いた。 「広瀬君。我々外科医は、病巣だけを見ていては不十分な場合がある。特に、倉科さんのようなケースではね」 その切り出し方は、一方的な分析の開陳ではなく、広瀬に思考を促すような響きがあった。 「彼女の職業は、知っているかな」 「いえ、まだ…」 「モデルだ。グラビアの、ね。つまり、我々がメスを入れる彼女の身体そのものが、彼女の生活を支えるための資本だということだ。術後の瘢痕が、彼女のキャリアに直接的な影響を及ぼす可能性がある。今回の腫瘍径は5センチ。前回より大きい。いかに傷跡を最小限に抑え、整容性を保つか。その点を、我々は常に頭に入れておく必要があると思う」 それは、極めて実践的で、患者の人生にまで踏み込んだ、ロジカルな分析だった。 「……はい。承知いたしました」 広瀬が答えると、神崎は静かに頷いた。

「さて、今日の外来はこれくらいにしようか」 神崎が、パソコンの電源を落としながら言った。広瀬は頷き、二人は診察室のドアを開けた。


先ほどまで、多くの患者で埋まっていた待合ホールは、人の姿もまばらになり、がらんとしていた。二人が、そのホールを横切って正面玄関へ向かおうとした、その時だった。前方を歩く二人の女性の、見覚えのある後ろ姿が、広瀬の目に留まった。倉科ミカだった。 そして、その隣には、先ほど待合の椅子に座っていた、あの初老の女性が、ぴったりと寄り添うようにして歩いていた。女性が、娘を励ますように、何かを盛んに話しかけている。だが、ミカはただ黙って前を向いたまま、その言葉に応える様子はなかった。

その親子らしき姿を、神崎も認めていたようだった。彼は、広瀬の視線に気づくと、独り言のように、静かな声で言った。 「あの女性は、患者さんの母親だと思う。五年前の手術の時も、付き添っておられた」


神崎の言葉に、広瀬は、先ほど待合室で見た女性の不安そうな表情を思い出していた。倉科ミカという、少し特殊な仕事をしている女性に、少なくとも、こうしてすぐそばで寄り添っている人間がいる。その事実に、広瀬は、医師として、なんとなく安心した。


2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。

この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。

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