63. 昼下がりの残滓
ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。
現役医師による小説は面白いか?
2025年、冬の硬い殻をこじ開けるように、生暖かい春の風が吹き始めた。うららかな土曜日の昼下がり。アスファルトに溶け残った冬の影は薄れ、世界は柔らかな光に満ちているように見えた。張本は、その光の粒子が網膜の裏でざらつくのを感じていた。前夜に嚥下した睡眠薬が、まだ血流のどこかに澱のように溜まっているのだろう。意識は水底に沈んだままで、体の表面だけが無理やり現実世界に引き剥がされたような、不快な半覚醒の状態にあった。部屋の淀んだ空気に耐えかね、どれくらいぶりだろうか、彼は屋外の散歩を思い立った。
一歩踏み出すごとに、体が鉛のように重い。外套が肩に食い込み、足は地面の感触をうまく掴めずに、時折ふらついた。公園へ通じる、見慣れた道。しかし今日の景色は、薄い膜を一枚隔てた向こう側にあるようで、すべてが非現実的だった。道端の植え込みで揺れるパンジーの紫も、アパートのベランダで乾く洗濯物の白も、彼の意識には届かずに滑り落ちていく。
横断歩道の前で立ち止まる。カチ、カチ、と無機質な電子音が、彼の鈍化した思考のテンポを刻んでいた。やがて信号が目に染みるような青に変わる。その人工的な光に促されるように、張本は反対側の公園に向かって、再び重い足を引きずり始めた。
その時だった。一人の女子中学生が、軽やかな足取りで張本のそばを追い越していった。セーラー服の紺、短いスカートから伸びる脚、揺れる肩まで伸びた黒髪。彼女は、このうららかな陽光を全身で浴びる、春そのもののような存在に見えた。張本の濁った視界が、その後ろ姿に不意に焦点を結ぶ。
瞬間、彼の頭の中で古びたネオンサインが閃光を放った。以前、寂寥感を埋めるために通った「おさわりバー」の、薄暗い照明。アルコールと安物の香水が入り混じったむせ返るような空気。そして、そこにいた女の、腰から臀部にかけての生々しい肉感。記憶の断片は鮮やかなイメージとなって、目の前の少女の後ろ姿に、幻のように重ね合わさった。それは思考ではなかった。理性を飛び越え、脳の奥底から直接湧き上がってきた、抗いがたい衝動だった。
彼の左手が、まるで彼自身の意志とは無関係に、素早く伸びた。指先が短いスカートの裾を捉え、一気にめくりあげる。
「キャーっ」
甲高い悲鳴が、昼下がりの穏やかな空気を切り裂いた。白昼のアスファルトが照り返す強い光が、露わになった少女の白い下着を、残酷なまでにくっきりと浮かび上がらせた。瞬間的に振り向いた少女は、恐怖と羞恥に顔を歪ませ、めくれたスカートを必死に両手で押さえつける。
「何するんですか!」
その声は、単なる問いかけではなかった。彼の存在そのものを拒絶する、鋭い叫びだった。
横断歩道を渡っていた数人の大人たちが、何事かと足を止める。そのうちの一人、イヤホンをつけた若い男が、その光景を認めるや、表情を凍らせた。彼はためらうことなく数歩で距離を詰めると、やにわに張本の左腕を鷲掴みにした。
「おい、あんた」
低い、怒りに満ちた声。腕に食い込む指の力は、張本の脆い骨を軋ませるほどに強かった。抑えられた腕に体ごと引っぱられ、彼の体はぐらりとよろめく。均衡を失った老体は、なすすべもなくアスファルトの上へ崩れ落ちた。両膝を強かに打ち付けた衝撃が、鈍い痛みとなってようやく彼の意識を覚醒させた。うなだれた彼の視界には、黒い地面と、自分を取り囲むように現れた幾つもの靴の先だけが映っていた。ざわめきと、潜めた声の囁きが、彼を刺すように取り巻いている。
どれくらいの時間が経ったのか。やがて遠くから、現実を引き裂くようなサイレンの音が近づいてきた。数分後、赤色灯の乱反射が周囲の建物を神経質に照らし出す中、一台のパトカーが止まる。降りてきた二人の警察官が、無言のまま張本の両脇を掴んで引き起こした。何かを機械的にしゃべりかけているが、その言葉は彼の耳には届かない。彼は抵抗もせず、されるがままにパトカーの後部座席へと押し込まれた。鉄の扉が閉まる音と共に、世界から隔絶される。車窓から、もう一台のパトカーから降りた別の警官が、まだ肩を震わせている少女に何かを話しかけているのが見えた。少女はこくりと頷き、そのパトカーに乗り込む。やがてその車は、張本の乗る車とは別の方向へと、静かに走り去っていった。
張本は、ただぼんやりと、遠ざかっていくその窓の外の光景を見ていた。生暖かい春の風が運んできたのは、再生の予感などではなかった。ただ、彼の人生の長い冬に、最後の終わりを告げるための、冷たい合図だったのかもしれない。
2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。
この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。




