5. 患者回診
現役医師による小説は面白いか?
広瀬が大倉総合病院に来て、2か月ほど経った頃のある日である。午前中の全身麻酔の手術を終え、受け持ち患者の様子を見るため病棟へ向かった。午後の陽光が柔らかく差し込む病室のプレートを確認し、広瀬渉は軽くドアを二度ノックした。 「失礼します。田中さん、お昼の回診です」 広瀬渉は、重々しい術後管理が続く個室のドアをノックし、中へ入った。2日前に膵体尾部切除という大手術を乗り越えた患者の田中は、多くの管に繋がれながらも、穏やかに広瀬に会釈した。
その背後で、看護師の相田遙が、無駄のない動きで処置用のカートをベッドサイドに配置する。今日のガーゼ交換の介助は彼女だった。
「広瀬です。お痛み、変わりないですか?」 「おかげさまで…。ありがとうございます」
田中のかすれた声に頷き返し、広瀬は「では、お腹の傷を見ますね」と声をかけた。相田が手際よく古いガーゼを剥がしていく。広瀬は創部の状態を注意深く観察した。縫合部にわずかな発赤はあるが、感染の兆候はない。順調だ。問題は、その脇から出ているドレーンだった。
排液を溜めるバッグを手に取った相田が、眉をわずかにひそめた。 「先生」 「はい」 「排液の色、昨日より少し黄色い気がします。念のため、膵液瘻の否定目的で、排液のアミラーゼを検査に出しましょうか?」
膵液瘻。膵臓の手術で最も警戒すべき合併症の一つだ。縫合部から消化酵素である膵液が漏れ出せば、周囲の組織を溶かし、命に関わる事態になりかねない。その指摘は、看護師として鋭い。しかし、広瀬の目には、その排液はまだ正常な浸出液の範囲内に見えた。
----その必要は、あるかな---- 広瀬が、自分の見立てを口にしかけた、その時だった。
「やった方が良いと思います」 相田は、広瀬の疑問を遮るようにきっぱりと言い放った。そして、どこから取り出したのか、検体採取用のスピッツ(容器)を、広瀬の目の前にすっと差し出した。その行為は、単なる提案ではなく、有無を言わせぬ意思表示に見えた。
----意外と、でしゃばるな----
広瀬は内心で毒づいた。だが、患者の田中が不安そうにこちらを見ている。ここで新任医師と看護師が口論するわけにはいかない。広瀬は短く息を吐き、無言でスピッツを受け取ると、ドレーンの接続部から手際よく排液を採取した。
ガーゼ交換を終え、二人は黙ってナースステーションに戻った。緊張を孕んだ沈黙が重い。広瀬は、今度こそ自分の意見を伝えようと口を開いた。
「相田さん、さっきの件だけど、僕は膵液は漏れてないと思う。だから検査は…」
「測定は、アミラーゼの分画も、でよろしいですね?」
言葉は、またしても遮られた。相田は広瀬の顔を見ることなく、目の前のキーボードに視線を落としたままだ。まるで、広瀬が何を言うか先刻承知の上で、その言葉を無効化するような口ぶりだった。
「では、検査依頼のオーダーを指示しておいてください。検体は、こちらで提出しておきますので」
それは、相談ではなく、淡々とした業務指示だった。 医師である自分が、なぜ看護師に指示されているんだ? 広瀬は当惑し、反論の言葉を失った。プライドが傷つけられる感覚と、事を荒立てたくないという気持ちがせめぎ合う。結局、彼は黙って頷き、目の前のパソコンで検査オーダーの画面を開いた。
その一連のやり取りを、少し離れた場所から、主任ナースの佐藤が静かに見ていた。 広瀬がオーダーを打ち終え、溜め息と共に椅子に深くもたれたのを見計らい、佐藤はそっと彼の隣にやってきた。そして、相田のいる方に顎をしゃくりながら、囁くように言った。
「相田さんのこと、あまり気にしないでくださいね」 「え……」 予想外の言葉に、広瀬は固まった。自分だけが、何か失礼なことをしたわけではなかったのか。
「彼女は悪い人ではないけど、新任の医師にはあまり態度が良くないことで、ちょっと知られていますから」
佐藤の目は、困った子を見るような、それでいて温かい色をしていた。
「真面目で勉強もよくする子ですから、自分の知識に絶対の自信があるのね。だから、自分より若い先生には、試すような、あるいは自分の正しさを証明するような態度を取ってしまう癖があるみたいで。去年の先生方の時も、似たようなことがあったんですよ……。だから、広瀬先生が何かしたとか、そういうわけじゃないですからね」
佐藤の言葉は、じわりと広瀬のささくれた心に染み渡っていった。当惑が、安堵と、そして新たな種類の戸惑いへと変わっていく。 自分が対峙しているのは、単に扱いの難しい一人の看護師ではない。この病棟に根付く、複雑な力学そのものなのかもしれない。広瀬は、目の前のモニターに映る「膵アミラーゼ」の文字を、ただ黙って見つめていた。
2016年に起きた乳腺外科の冤罪をベースにしたノベルです。
この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。