56. 悪夢
ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。
現役医師による小説は面白いか?
その夜は久々に深い眠りに落ちた。だが、平穏は長くは続かなかった。
ある夜、張本は夢の中で再び法廷に立っていた。証言台には倉科ミカが立ち、無表情のままこちらを見つめている。
「本当は、無罪でしょう?」
かすかな声で、しかし耳の奥に杭を打ち込むように響いてくる。振り返ると、傍聴席は闇に沈み、そこから無数の目だけが光っていた。張本は喉を震わせるが、声は出ない。判決文を手にしているのに、その紙は黒く滲み、文字はどこにも見えなかった。
はっと目を覚ますと、額は汗で濡れ、枕元の時計は午前三時を指していた。彼はしばらく天井を見つめ、やがて胸に手を置いた。
「……自分は、正しかったのか」
答えは出ないまま、心臓の鼓動だけが耳に響き続けた。
同じような悪夢は、その後も何度となく繰り返された。昼間は、笑顔で天下り先の職員と会食をこなし、穏やかに日々を過ごしている。しかし夜になると、あの裁判の光景が形を変えて現れ、張本を追い詰める。栄誉と安泰を手に入れたはずなのに、心の奥底にひとつの影が棲みついていた。その影は、彼が判決を下したあの日から、決して消えることはなかった。
やがて張本は、医師の処方を受けて睡眠薬を服用するようになった。最初はよく眠れた。だが数週間もすると、薬の効き目は薄れ、量を増やしても眠りは浅くなるばかりだった。
「もっと強い薬を……」
そう告げる自分の声に、張本は一瞬ためらったが、不眠の苦痛には抗えなかった。強い眠剤を手に入れ、服用した夜。彼はようやく深い眠りに沈んだ……はずだった。しかし、夢はすぐに悪夢へと変わった。
法廷で判決文を手にすると、その白い紙面がじわりと赤く染まり、やがて血に濡れた布のように重く垂れ下がった。張本は慌てて放り出そうとするが、紙は手に貼りつき、血が滴り落ちて床を濡らしていく。
「張本先生……」
背後から声がした。振り返ると、そこには伊勢崎検事の顔があった。異様に近い距離で迫り、にやりと笑うと、突然、彼の頬に舌を這わせた。ぬめりとした感触が顔中に広がり、張本は絶叫しようとするが声が出ない。
「逆転有罪にしてくれて、ありがとう……」
伊勢崎の囁きは、粘ついた息とともに耳の奥へ入り込んでいった。はっと目覚めた時、張本は全身汗に濡れていた。
寝具は乱れ、息は荒く、口の端には自分でも気づかぬうちに噛み切った血が滲んでいた。それでも彼はまた眠剤に手を伸ばす。
飲まなければ眠れず、飲めば悪夢に堕ちる。
2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。
この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。




