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神の手と悪魔の唾液  作者: 横山晋朋
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55. 判決のあと

ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。

現役医師による小説は面白いか?

挿絵(By みてみん)

「……では、判決を言い渡します」

裁判長席の高遠が、抑揚のない声で口を開いた。法廷内の湿った空気が一瞬で張り詰め、誰もがその唇の動きを凝視する。検察官席に座る伊勢崎は、表情を変えずに組んでいた腕を静かに解いた。

「本件につき、被告人神崎に対し、一審判決を破棄し――有罪とする」

その言葉が響き渡った瞬間、法廷は様々な感情の爆発によって揺れた。 伊勢崎は、唇の片端を微かに吊り上げた。それは勝利の確信からくる、冷たい笑みだった。全ては筋書き通りだと言わんばかりに、彼は小さく、誰にも気づかれぬほどの息を吐く。彼の目に、被告人の姿はもはや映っていなかった。ただ、自らが描いたシナリオの完璧な結末だけを反芻していた。


対照的に、弁護団長の野田は、噛みしめた奥歯が砕けるのではないかと思われるほど、険しい表情で固く目を閉じた。被告人席の神崎は、まるで魂が抜け落ちた彫像のように天井の一点を見つめたまま、微動だにしない。


傍聴席の一角で、広瀬は隣に座る相田と無言で視線を交わした。そこに言葉はなかったが、「まさか」という驚きと落胆が互いの瞳にはっきりと映し出されていた。そのすぐ後方で、まったく別の空気が生まれていた。倉科ミカの上司である園部は、隣の山川友理奈の手を強く握りしめ、安堵と喜びに満ちた表情で何度も頷き合う。彼女たちの世界では、今この瞬間、ようやく正義が実現されたのだ。 そして、倉科ミカは手を取り合って喜ぶ二人とは対照的に、ただ一点、被告人席の神崎を射抜くような視線で睨みつけていた。その瞳に浮かぶのは安堵ではない。決して消えることのない、底なしの憎悪の炎が静かに燃え盛っていた。


裁判長席の高遠は、そうした法廷内のあらゆる感情の渦から隔絶されたかのように、淡々と判決文を閉じた。そして、乾いた音を一度だけ響かせた木槌の一打が、全ての決着を告げた。閉廷が宣言されると、堰を切ったように喧騒が戻ってきた。記者たちが携帯電話を片手に廊下へと走り出し、弁護士と検察官がそれぞれの控室へと早足で向かう。熱気の残る廊下で、勝者と敗者の道が、くっきりと分かれていた。


高裁での逆転有罪判決。その情報は、法廷の扉が開かれるやいなや、堰を切ったように世に放たれた。テレビ局各社は即座に通常番組を中断し、画面には「速報」のテロップと共に、裁判所前から中継するリポーターの緊迫した顔が映し出される。その速報を、張本隆一は都内一等地に構える自宅の、広々としたリビングで見ていた。イタリア製の革張りのソファに深く身を沈め、手にしたブランデーグラスを静かに揺らす。琥珀色の液体が描く円運動を、彼は満足げに眺めていた。


すべては思惑通りに進んだ。先日、長年の奉職を終えた彼を迎え入れる先の席は正式に決まり、先方からは破格の厚遇まで約束された。肩に重くのしかかっていた責務という名の鎧は、今や脱ぎ捨てられ、心地よい解放感だけが胸に広がっていた。

「これで、もう心配はいらない……」

誰に言うでもなく、張本は呟いた。グラスを傾け、熟成された香りを喉に流し込む。テレビ画面の中でアナウンサーが神崎の名前を叫んでいるが、彼の心には何の感慨も湧かなかった。ただ、画面に映る世間の喧騒は、彼にかつての不快な記憶を蘇らせた。自分が下した判決が、SNSという名の増幅器によって歪められ、非難とバッシングの濁流となって押し寄せた日のことを。 中国人女性が起こした人身死亡事故。


彼は、被告の精神状態を鑑み、無罪の判決を下した。高速道路での悪質なあおり運転によって一家の父親と母親が命を奪われた事件では、一審判決を破棄し、審理を差し戻した。いずれの判断も、法と証拠に照らし合わせた、彼にとっては論理的で正当な結論だった。しかし、世論はそうではなかった。ネット上には彼の名前と顔写真が晒され、匿名の人間たちが好き勝手な言葉で彼を罵倒した。メディアはそうした声を拾い上げ、市民感情を煽るような報道を繰り返した。


だが、と張本は思う。 そうした攻撃の数々は、結局のところ、平民たちが上級民に向かって放つ、意味のない遠吠えにしか聞こえなかった。法という精緻な論理構造を理解しようともせず、ただ己の未熟な感情論を正義だと信じて疑わない者たちのヒステリー。彼らにとって、自分のような存在は、その嫉妬と不満をぶつける格好の的に過ぎないのだ。


張本は、ふっと自嘲気味に笑い、テレビの電源をリモコンで切った。画面が暗転し、磨き上げられた黒いガラスに、ブランデーグラスを持つ自分の姿だけが静かに映り込んでいる。外の世界の騒がしさなど、この静謐な空間には届かない。それが何よりの証拠だった。


2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。

この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。

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