53. 看護記録
ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。
現役医師による小説は面白いか?
証言台に立った相田遥は、背筋をまっすぐに伸ばし、裁判官席を見つめていた。その表情に、動揺の色はない。検察官の伊勢崎が、彼女の前に、カルテの一部分を拡大コピーしたパネルを突きつけるようにして置いた。
「証人」と、伊勢崎は鋭い声で尋問を始めた。
「これは、あなたが事件当日に記載した看護記録の一部で間違いありませんね。ここに、『術後覚醒良好』と、はっきりと書かれています。良好、なのですね」
その言葉は、まるで楔を打ち込むように、法廷に響いた。
「……はい。そのように記載しました」 相田は、静かに答えた。
「しかし」と伊勢崎は畳み掛ける。
「あなたは、一審の法廷で、この『覚醒良好』という記載は、正確には『半覚醒』の状態であったと、証言を訂正しておられる。なぜですか。後になって、被告人に有利な証言をする必要が生じたからではありませんか」
それは、証言の信用性そのものを問う、悪意に満ちた質問だった。
「違います」 相田は、きっぱりと否定した。
「『覚醒良好』とは、麻酔から順調に覚醒している、という意味で記載したものです。完全に意識が明晰であるという意味ではありません。一審で『半覚醒』と補足したのは、法廷の皆様に、医療現場での認識との齟齬がないよう、より正確な状態を説明する必要があると考えたからです」
「なるほど。では、もう一点お伺いする」
伊勢崎は、パネルの別の箇所を指差した。
「あなたは、弁護側の主張に沿うように、被害者は『せん妄』状態にあったと示唆しておられる。しかし、このカルテのどこにも、『せん妄』という医学用語は、一言も記載されていません。なぜですか。本当にせん妄状態であったのなら、当然、記録に残すべきではありませんか」
その問いに、法廷内の誰もが、相田の答えを待った。彼女の証言が、この裁判の行方を左右する、重要なピースであることは、明らかだった。相田は、一度、静かに息を吸い込むと、裁判官に向かって、はっきりと、そして丁寧に語り始めた。
「私達、看護師は、医師ではありません。患者さんの状態を見て、断定的な診断名をカルテに記載することは、原則としてありません。それは、我々の職分を越える行為だからです。臨床の現場では、ごく当たり前のことです」
彼女は、伊勢崎に視線を戻した。
「我々が記録するのは、診断名ではなく、客観的な事実です。患者さんの表情、状態、行動、そして、発した言葉。カルテには、こう記載されています。『不安を訴え頻コール』、『号泣』、『不安言動』と。これらの記録こそが、倉科さんが、当時、極めて不安定で、混乱した精神状態にあったことを示す、何よりの証拠です。それが、医学的にせん妄と呼ばれる状態であるかどうかを判断するのは、医師であり、そして、この法廷であると、私は考えます」
その言葉は、専門家としての、冷静で、揺るぎない見識に基づいていた。伊勢崎が作り上げようとしていた、「カルテに書かれていないことは、存在しない」という単純な論理が、臨床現場の現実という、動かしがたい事実の前に、その説得力を失っていくのを、その場にいた誰もが感じていた。
尋問が終わり、証言台の前にわずかな静けさが戻った。相田遥は、胸の奥にひときわ強い鼓動を感じながら、裁判官席を見据え続けた。顔は崩さなかったが、指先には細かな汗がにじんでいる。
――言うべきことは言った。
私は嘘をついていない。臨床現場の事実を、そのまま伝えただけだ。だが、伊勢崎検察官の眼差しがまだ脳裏に焼き付いて離れない。まるで「お前の言葉は被告に肩入れするための方便だ」と決めつけるような視線。あの視線を受けた瞬間、喉の奥に石が詰まったような苦しさを覚えた。
――本当に、伝わったのだろうか。
「覚醒良好」と記した自分の記録が、被告の運命を左右する重みに晒されるなど、当時は夢にも思わなかった。あのとき私が見たのは、ただ不安に泣きじゃくる患者の姿。何度もナースコールを押し、言葉にならない言葉を口にした、その混乱した表情。それがせん妄かどうかを断定する立場ではない。けれど――臨床の現場に身を置く者なら、誰もが一目で「ただ事ではない」とわかる状態だった。私は、それを正しく残したつもりだ。けれど、カルテには「せん妄」とは書けない。職分を越えるからだ。あの制約の中で、どれだけ患者の声を拾い上げられるかが、私たち看護師の仕事なのに……ここでは、その制約こそが、私の証言を疑う材料にされてしまう。一瞬、心が揺らいだ。
――もし、この証言が退けられたら?
――もし、私の記録が「矛盾」と断じられたら?
相田は小さく目を伏せた。だが、すぐに顔を上げ直す。自分にできることは限られている。だが、その限られた範囲で、正確に、誠実に伝えなければいけない。
2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。
この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。




