4. グラビアの仕事と母
現役医師の小説は、面白いか
『雑誌の廃刊』。その言葉は、彼女という商品に対する、『契約打ち切り』の宣告に近い。自分の身体の衰え。もうお払い箱になるかもしれない、ということ。それを、会社の意向という、誰も逆らえない大きな力のせいにして、間接的に伝えてきているだけだ。これは邪推でも何でもない。最近、鏡を見るたびに、自分でも分かっていたことだった。潮時、という二文字が、日増しに現実味を帯びていたのだから。
しかし、頭では理解していても、感情が追いつかなかった。理屈では分かっていても、現実として突きつけられると、足元から崩れ落ちていくような感覚に襲われる。 「…どうして?」 自分の口から、か細い、嘆願するような声が出たことに、ミカ自身が驚いた。無意味な質問だとわかっていた。それでも、聞かずにはいられなかった。
マネージャーの園部は、彼女の顔に浮かんだ絶望の色を、まるで興味のないデータでも見るかのように、冷静に観察していた。やがて、彼は、コンサルタントがクライアントに助言でもするかのような、事務的な口調で言った。 「まあ、こういうことだ、ミカ。市場は、常に新しい刺激を求めている。君がこれまでやってきたやり方では、もう限界に近いということなんだろう。何か、もう少し付加価値をつけないと、商品は売れない」 その言葉は、一見、彼女の将来を案じているようにも聞こえた。だが、その実、何の感情も含まれていない。ミカは、彼の言葉の裏にある、冷徹なビジネスの論理を正確に理解していた。 ――君という商品の価値は、下落した。
「例えば……」 ミカは、まるで新しい企画案でも提示するかのように、冷静に言葉を探した。 「ブログの内容を、もっと過激にするとか。そういうことですか」
園部は、その提案に、わずかに口の端を上げた。それは、笑みというよりは、部下の出したアイデアを評価する上司の、ごく微かな反応に近かった。 「まあ、それは一つの方向性だな。どう見せるかは、ミカ、君次第だよ」 彼は、そう言うと、まるで会話は終わったとでもいうように、軽くミカの肩を叩いた。そして、彼女が何かを言い返す前に、くるりと背を向け、「まあ、もう一度上には話してみるけどな」と言い、奥へと去っていった。その背中は、なかなか難しいかもしれない、という意思を明確に示していた。
ミカは、一人その場に立ち尽くした。 左の胸に残る、不吉なしこりという名の、身体的な欠陥。 そして、今突きつけられた、モデルとしての契約終了かもしれない、という予告宣告。 自身の唯一の資産であったはずの身体が、今日この日、生物学的にも、経済的にも、同時にその価値を失うのだろうか。 その冷徹な事実だけが、空っぽになった彼女の頭の中に、確かな重みを持って響いていた。 ――何かを変えなければならない。 それは、感傷的な決意などではなかった。生き残るために、どのパーツを交換し、どの機能をアップデートすべきかという、極めて無機質で、切実な問題提起だった。
撮影スタジオを出た後、倉科ミカは、思考を停止させたまま、機械的に地下鉄を乗り継いだ。車窓を流れていく景色も、乗客たちの無関心な顔も、彼女の意識には届かない。頭の中では、二つの事実だけが、冷たい光を放ちながら交互に点滅していた。左胸のしこり。そして、グラビアモデルとしての契約継続の不確定さ。どちらも、彼女の身体という資本が、その価値を失うかもしれないという、明確なサインだった。
最寄駅から地上に出ると、湿度の高い、重い空気が全身にまとわりついた。彼女が住んでいるマンションまでは、歩いて五分とかからない。築年数は、おそらく四十年を超えているだろう。ベージュ色の外壁は、雨だれに汚れて黒ずみ、ところどころコンタクトの素地が剥き出しになっていた。建物の老朽化は、そこに住む人間の人生を、無言で映し出しているようでもあった。
バッグの中を探り、自宅の鍵を取り出す。それを、錆の浮いたドアの鍵穴に差し込み、回した。ドアを開けると、そこは見慣れた薄暗い、殺風景な空間が広がっていた。彼女は、持っていた鍵を、無造作にテーブルの上に放り投げると、そばにあるリモコンでテレビをつけた。意味もなく流れるバラエティ番組の音声が、静寂を埋めていく。
冷蔵庫を開けると、扉のポケットに残っていた缶ビール二つのうち、一つを取り出した。プルトップを開け、渇いた喉に流し込む。炭酸の刺激と、アルコールの苦味。日常の中で、彼女が唯一、能動的に手に入れることができる、ささやかな楽しみだった。
部屋の壁にある飾り棚には、自分が出演したこれまでの映画やドラマのDVDが、年代順にいくつか並んでいる。それは、自分がこの世界に存在したという、ささやかな証だった。だが、それすらも、もうすぐ過去のものになるのかもしれない。その不安が、アルコールと共に、身体の中にじわりと広がっていった。
座り慣れた二人掛けのソファに深く腰を沈めると、ミカはスマートフォンを取り出し、母親の番号を表示させた。別に、今日起きたことを具体的に報告するつもりはなかった。ただ、誰かと話したかった。自分の存在を、無条件に認めてくれる人間と、言葉を交わしたかっただけだ。
もちろん、職場には仲間がいる。同じように、自らの身体を商品とし、男たちの性的欲望を満たすという共通の仕事をしているという、奇妙な連帯感。だが、彼女たちは、仲間であると同時に、常にライバルでもあった。誰もが、いつまでこの仕事を続けられるのかという不安と孤独を抱え、必死で生きている。そこに、本当の意味での癒しはない。
その孤独感を埋めてくれる存在がいるとすれば、それは母親だけなのだろう、とミカは思う。早くに父親を亡くし、女手一つで育ててくれた母。その母の反対を押し切って、この道に進んでしまったことへの罪悪感は、今も消えない。今の自分の仕事を、母が決して認めたくはないだろう、ということもわかっていた。それを思うと、惨めな気持ちになった。 それでも、どうしようもなく誰かと話したくなった時、電話の向こうで必ず応えてくれる人がいる。その事実が、今の彼女にとっては、唯一の救いだった。
電話の向こうで、母親はただ黙って、娘の話を聞いていた。ミカは、今日起きた出来事を、感情を排して、事実だけを伝えるように話した。仕事のこと、そして、身体のこと。
「……左の胸に、しこりを見つけたの」 その言葉を口にした瞬間、電話の向こうで、母親が息を呑む気配が伝わってきた。ほんの数秒の、しかし重い沈黙が流れる。ミカは、母親を不安にさせてしまったことに、罪悪感を覚えた。
だが、受話器から聞こえてきた母親の声は、驚くほど落ち着いていた。 「ミカ、落ち着いて聞きなさい。パニックになるのが一番いけないことよ」 その声は、ミカが子供の頃、熱を出した時に言い聞かされたものと、全く同じトーンだった。 「覚えているでしょう、五年前に、右側に見つかった時のことを。あの時も、私たちはすごく心配した。でも、結果は良性の腫瘍で、神崎先生という立派な先生が、手術で綺麗に取ってくださった。それで、全て終わったじゃない。今回も、きっと同じよ」
それは、過去のデータに基づいた、極めて合理的で、冷静な分析だった。母親は、自身の不安を押し殺し、娘を安心させるための、最も有効な論理を組み立てていた。
その言葉は、ミカのささくれ立った心に、ゆっくりと染み込んでいった。そうだ。前も、大丈夫だったじゃないか。漠然とした恐怖が、過去の成功体験という事実によって、輪郭の確かな、対処可能な「問題」へと変わっていく。これまでの不安が、すっと和らいでいくのが、自分でもわかった。
「……うん」 「だから、まずは検査をしてもらって、はっきりさせることが大事。悪い方にばかり考えちゃだめ」 「うん……。それで、お願いがあるんだけど」 ミカは、少し躊躇いがちに切り出した。 「次の週に、また、前に治療してもらった神崎先生の外来日に、病院へ行こうと思うの。その時、一緒に付き添ってくれないかな」
母親の返事は、間髪を入れず、そして、一切の迷いがなかった。 「当たり前じゃない。もちろん行くわよ。いつでも行けるようにしておくから、予約が取れたら、すぐに時間を教えてちょうだい」
「……ありがとう、お母さん」 ミカは、心からの感謝を口にした。電話を切った後も、彼女はその場からしばらく動けなかった。孤独という名の冷たい霧が、母親との対話によって、少しだけ晴れたような気がした。
2016年に起きた実話をベースにしたノベルです。
この物語の名前、団体名、施設名などはすべてフィクションです。